囲碁を学び始めて、私の中で視点が変わってきたのを感じる。
だからからか、今まで当たり前にあった日常での出来事から「これって根本の問題はここかも?」と考えられるようになってきた。
考えたくて考えているというより、ふと降りてくる感じなんだけど。
最近よく感じるのは“自分”という認識について。
自分って「自らを分ける」と書く。
この「自ら」はどこまでかっていう認識の違いで、見方は大きく変わってくる。
「思考は現実化する」ってところと繋がる部分もあるんだけど、
ママ自身が不安な状態だと、子どもが泣いたり気持ち的に不安定になったりすることないですか?
イライラしていたりすると、ご主人もイライラしてることないですか?
子どもだったりご主人って、“自分”の合わせ鏡じゃないかな?って思うんです。
なかなか自分自身のことに目を向けたり、気付いたりすることって、向き合おう!と思わない限り難しかったりするから、目の前の人に反映することで、自分自身を観れる感じ。
そんな風に見てみると、すごく自分自身のことを客観的に観れるようになるんです!!
でも、目の前の人って、例えそれが子どもだったりご主人だったとしても、自分とは別の存在だと定義付けすると、無関心になったり、客観的に観れなかったりする。
自分以外の人の問題だと捉えてしまうから。
本当にそうなのかな?
よくよく紐解いていくと、根本の原因は自分自身の中にあって、それを目の前の人が現してくれてることってないかな?
私はそんな風に捉えられるようになって、家族への関わり方が少し変わってきた。
(これについての詳細はまた後日書きます!)
もし、そんな風に観れなかったとすると、向き合わせるために、気付いてもらうために、分かりやすい「病気」として現れることもあるのではないかと思う。
「病気」は何かのお知らせって言うけど、私は本当にそうだな、と思っていて(今までの学びの中で知って実感したこと)。
自分自身と向き合うべきタイミングで何か問題が起きたりして向き合えて、解決できればOKなんだけど、
見て見ぬふりをしていると、通り過ぎると思いきや、何度も何度もやってくる。
小さな問題では気づいてくれなかったから、もう少し大きな問題にしないといけないかな?って神様なのか、未来の自分からなのかはわからないけれど、
少しずつ大きくなっていく問題は、いずれ「病気」となって、動きを強制的に止めさせられて向き合うきっかけをくれるんじゃないかなって感じてる。
「病気」という大きな問題になる前に、気付いて解決できたら良くないですか?
なんと!!!
私は大きな問題になる前に、問題と向き合う手段があることに気付いたんです!!
チャレンジした人しかそのチャンスを得られることはありません。
チャレンジしたとしても、向き合おうと思わなければ、解決することはできません。
でも、誰でもチャレンジしようと思えば、今すぐにでもできることなんです!
何それ!?
気になる!!
知りたい!!
って方はコメントしてもらえれば、手段をお伝えできるかもしれません。
聞いたらやらなきゃいけないわけでもない。
でもやりたくなっちゃうかもしれない。笑
それでも聞きたい!って人はぜひコメントください。
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