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【読書日記】想像力 生きる力の源をさぐる/内田伸子

この本、おもしろくてうおー!!となりました。

このおもしれー本を読んでわたしが思ったことはコレ。
わたしたちって壮大な伝言ゲームの世界を生きていたんだ……!

人間には想像力がある。想像力があるから過去の経験から未来を予測したり計画を立てたりできる。他人の気持ちを想像し、社会性を育むことができる。過去の経験や知識をもとに実在しない世界を想像しては無限に創作し、それを共有し、語り継ぐことができる。想像の中ではディズニーの魔法もテレビの中の井戸から這い出てくる貞子もわたしに微笑みかけてくれるキムソクジンも確かに存在し、わたしたちの中枢はそれぞれがそれらを認識して現実にそこにいるのと同じ身体反応を示す。キムソクジンの手を本当に握ろうと、想像の中で握ろうと、わたしの心臓は同じように特別な鼓動をうつ。でもそれは、わたしの知識や経験に基づくもので、わたしがもしキムソクジンを知らなければそんな想像など存在しないし、実際に彼に会うことがあっても同じような反応を示すことはない。いやいやいや待って、それはどうかな、いつなんどきキムソクジンに出会おうと、わたしの鼓動は高鳴るに違いないし、「やっと会えたね」って言っちゃうに違いない、こればかりは。こればかりはどうにも。
ともかく、キムソクジンは例外として、わたしたちは全く知識や経験のないことを想像したり考えたり理解することはできない。わたしたちが思い浮かべることはすべて、過去の経験や知識を分解したかけらを寄せ集め作り上げたものだし、現実に起こるあらゆる事もこのかけらを使って解釈理解してい。同じ事実を共有しても、AさんはAさんのかけらを使って理解し、BさんはBさんのかけらを使って理解するわけだから、若干ことなるかたちで消化される。理解できない部分は自然と抜け落ちていく。誰かはAさんが解釈した事実を聞き、誰かはBさんが解釈した事実を聞く。それをまたそのひとの解釈に基づいて誰かに伝えられたりする。物事はどんどん加工されていき、それもまた誰かの知識や経験となっていく。伝言ゲームのように、「酒井法子」はいつのまにか「のりピー」となり「蒼いウサギ」となって誰かの知識となっていく。だからわたしたちは、かつて酒井法子だったが誰かが解釈したのりピーという知識で物事を「ははーんつまり蒼いうさぎってことね」と解釈したり、想像したりしているのであるし、それをまたこうして誰かに語ったり書き記したりしてるんである。
……これってなんなん!諸行無常すぎる!

とまあわたしはこの本を読んでこんな風に解釈しました。わたしの経験によって。
ここに書いている文章も、わたしが読んでイメージしたことそのままではなく、過去の経験によっていつのまにか習得した「書いて表現する枠組み」を使ってなんとなく書いているわけです。

わたしは常々、なんとなく、この世はわたしが認識している世界に過ぎないと考えている。
やっぱそうだよなと思う。この世は、空間ではある。でもそこに映し出されている世界は人によって違う。みんなが違うVRめがねをかけて、似たような違う世界を見ながら真っ白な空間を交差している。交差する中で、世界と世界が混ざり合う。言葉などの表現を用いて共有しながら、同じ空間でうまく共存するために、社会性が必要になる。社会性によって様々な世界観を取り込みながら、自分の世界を調整し、どんどん深みを増していく。そんな世界の仕組みを知ったような気になりました。

わたしは昨日、子どもとゲームセンターに行き、100円だけ与えた。
1000円与えることも、2000円与えることもできたし、してやりたくなったけど、100円だけ。
そしたら子どもは、この貴重な100円をどのゲームに使うか店内を何周もして考えた。わたしはそれに付き合って店内を何周もし、子どもの様子を観察していた。結局子どもは考えに考えて、30円のガムをひとつゲットし、大喜びした。わたしが1000円を与えることは、この考えまくる時間と30円のガムで得られる喜びとこの経験を奪うことなんだなーとしみじみ思った。わたしたちはたぶん、子どもの喜ぶ顔が見たくて、「子どもにしてやった」を体験したくて、簡単にこれらを奪ってしまうよな、と母親業16年目にしてようやく思ったのでありました。今日この本を読みながら昨日のことを思い出して、しみじみした。おしまい。

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