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優しい人だと人はいうけども

昔から人と話していると、大抵の人が私のことを優しい人とか思いやりのある人と言ってくれる。しかし、私は自分のことを優しいとは思わないし、どちらかというと冷たい人間であると自覚している。

ここでは、優しい人とはどんな人なのか、優しさとは何なのかを自分なりに考え、優しさの本質はいったい何なのかを整理したものを書いていこうと思う。

1:出発点

まず、出発点として「優しい」という言葉を辞書で調べてみたところ、その意味としては「周囲や相手に気をつかって控え目である」や「おだやかである。すなおである。おとなしい。温順である。」(広辞苑第六版 岩波書店)等が挙げられている。なるほど、確かに世間一般に優しいといわれる人のイメージに合致していることからも、このような意味があることに疑問を持つ人はほぼいないだろう。

しかし、そうすると私は自分の事を優しい人だとはなおさら思えなくなる。正直に話すと、私はあまり他人に興味がないし、本当に仲の良い友人や家族からも「うまく隠しているけど、本当は冷たいよね。」とよく言われる。誤解の無いように言っておくと、普段学校やSNSで喋る人たちに対しても自分の思うこと等は素直に伝えているし、特段本心を隠しているわけではない。それでも、一部の人には見抜かれているし、自分自身でも心の奥底では他人に対し冷たい感情を持っていると思っている。そして、意外にも私と同じように考える人は身の回りに多く存在する。

そうすると、必ずしも優しい人といわれる人は、辞書的な意味での優しさを持っているというわけではないことが言える。そして私自身この様な自己の内心と周囲からの評価のギャップに長い間悩まされていたことがこのような疑問を持つに至った経緯になる。

2:優しさについての考察

1で述べたように、どちらかというと私は自分を冷たい人間だと思っているのだが、他人からは逆に「優しい人」という評価を受けることが多くある。そこで優しさの本質とは何かを自分なりに考えた結果、優しさの本質とは「どれだけ自分の嫌なものを理解しているか」だという結論に至った。

私は15歳の時に両親が離婚し、父親に見捨てられ、面会交流も拒絶されている。これをきっかけに母方の祖父母と生活していたが、そのときには祖父に対しとても冷たい態度で接していた。また高校生の時は野球部だったが、当時の監督には干されていたし、大学受験は第一志望に落ちていて、努力が報われたという経験がほとんどない。今は家族の事でつらい思いをする子どもを減らしたい・救いたいという目的から弁護士を目指しているが、これだって半ばは父親に対する復讐心が動機になっている。今にして振り返ると、高校生の時は優しさ等欠片もなく、とにかく自分の事だけを考えていたのだと思う。


そんな経験を持つ私だからこそ、人一倍自分の嫌なことを理解しているし、他人にも嫌な経験をしてほしくないという望みがある。これは他人の事を尊重しているなどといった素敵なものではなく、実際は"私"が嫌な経験をする人を見ると辛くなるからという理由によるエゴでしかない。それでも、この考えに基づいて行動するからこそ、人に優しくできるのだと思うし、他人は私を優しい人だと言ってくれるのだと思う。

3:結びに

以上のことを通じて、優しさの本質とは「どれだけ自分の嫌なものを理解しているか」だと私は考える。

私は弁護士になることを1つの目標としているが、これとは別に本当の私の夢は「優しい世界」をつくることである。これは何も全員が心の底から人の事を思いやれなんて言うつもりのものではなく、単純に「自分のされて嫌なことは、人にしてはいけない」という幼稚園もしくは小学校で言われることを、多くの人に実践してほしいという、そんなちっぽけな望みである。子どものころは多くの人がこの教えを実践できていたはずであり、大人になった人にとっても実践することは難しくないと思っている。いつの日かこの夢が、私が死んでからでもいいから叶うことを願って、この拙い文章を締めくくろうと思う。

もし、あなたが最後までこれを読んでくれたのならば、あなたに最大限の感謝を送ると共に、あなたの今後の人生がより良いものになる一助になればと思う。

ありがとうございました。


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