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小さな絶望が消えたとき


先日、YouTubeを開くと、オススメにこんな題名がみえた。

「死にたいって思った時に聴く曲」

最近、youtubeでヒーリングミュージックを開いたからかな。死にたいって思った人に、どんな曲を聴かせるのだろうと興味が湧いた。



動画をひらき音楽を聴きながら、何となくコメント欄をみてみた。驚いた。そこにはいろんな人の"ナカミ"があった。

つらい自分の体験談を赤裸々に語るひと。死ぬのを踏みとどまったひと。そんなひとたちを励ますひと。自分のもつ死に対する価値観を語るひと。

ひとの心に興味があり、ひとの"ナカミ"を知りたい私にとって、そこは情報の宝庫だった。ただ、感受性が強すぎて、そのあとしばらく戻って来れなかったけど。







その中で印象に残った内容がある。両親がいて、学校にも通えていて、友達もいる。わたしは恵まれた環境にいるのに、すごく虚しい。死にたいわけじゃないけど、消えたい。そんな内容のコメントがたくさんあった。

「虚無感」ってやつ、

わたしもそれをずっと抱えていた。



小学校高学年か、中学生か。気づいたときには、何か心にポッカリと穴が開いたような、そんな感覚があった。

義務教育時代。両親は健在。年2回、プロ野球の試合観戦に家族でいけるくらいのお金はあった。自分に体の不自由はなく、運動神経も中の上くらいはあったな。勉強もまあまあできた。環境も、能力も恵まれていたし、その時もそう思っていた。だけど何か、心が満たされていなかった。


自分は誰にも愛されていない。本当の自分を知ったらみんないなくなる。そんな気持ちが常にあった。親は、行動でわたしに愛情を伝えてくれていたし、親友と呼べる友達もいた。けれどもずっとその感覚が消えなかった。

何をしていても、その自分を嘲笑うかのように批判的に見ている別の自分がいる。その目線に耐えられなくて、なにもできなくなる。消えたくなる。高校もそんな思いを隠し持ちながら過ごし、私は大学に進学した。



大学生ともなると、自分も周りも大人になり、お互いに理解しあえる人が増えた。それまでよりも、自分を少しずつ出せるようになった。だけども相変わらず、心には埋まらない何かがあった。

やっと飲み慣れてきたお酒に少し心を許したころ、間接照明だけがたよりの薄暗い部屋で、友達にこんなことを言われた。




「君って小さな絶望を抱えながら生きてるよね」






そうか、私の、この埋まらない穴は、小さな絶望なのか。的確すぎるその言葉に、納得するしかなかった。そして、その言葉は私にとって、なぜだかすごく気持ちがよかった。


けれども、埋まらない心の正体になんとなく気づいたからと言って、それが無くなるわけでも、わたしが変わるわけでもなかった。相変わらず批判的な自分と一緒に、小さな絶望を抱えながら日常をこなしていた。






転機が訪れたのはつい最近。

自分の置かれている環境が大きく変化して、この波に乗るしかないと思った。

わたしは変わることを「選択」した。

見た目とか、普段の行動とか、何かを大きく変えたわけではない。「選択」をしたわたしは、する前のわたしよりも、自分に正直になった。やりたいことをやりたいと言うようになった。わからないことをわからないと言うようになった。似合わないと避けていたメガネを、好きだからと身につけるようになった。そのくらい、けれども、たしかな変化。


すると不思議なことに、批判的な自分が、埋まらなかった心の穴が、小さな絶望が、いつのまにか消えていた。




わたしは怖かったのだ。ホントの自分を表現し、受け入れられないことが。自分が全力を出しても達成できないことがあると知ることが。自分は無力だと人に知られることが。それを隠すために、常に批判的に捉え器用に振る舞って挑戦することから逃げていた。



本当は、たとえみんなに受け入れられなくても、自分を表現したかった。馬鹿にされても、自分がやりたいからと胸張ってやれる事を見つけたかった。自分が憧れる自分に近付きたかった。もっといろんなことに挑戦したかった。世界を知りたかった。


わたしは、わたしを全力で生きたかったんだ。


そう、気づいた。

小さな絶望は、「全力でわたしを生きたい」のサインだったんだ。





もし、あなたが小さな絶望を抱えていて、あなたを生きたいのだと気づいたとしても、今すぐは変われないかもしれない。それでいい。

きっと、あなたは、自分で道をひらいていく。だって、あなたはあなたを生きることを諦められないから。

小さな絶望は、自分を生きることを諦められない人だけが持てる、特権なのだから。




小さな絶望が消えたとき、わたしの人生がはじまった。



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