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「花言葉など」

枯木枕「となりあう呼吸」シェアード・ワールド(二次創作/共通世界創作)企画、応募作品です。


ラルのいない夏が二回過ぎ、エシカのからだはまた縮んだ。

幼馴染たちは順々に腹を膨らませ、不自由な血肉をわかち、あたらしい命を育んだ。うまれた子にもうまれなかった子にも名前が与えられた。人々は、あたらしい名を讃え合った。エシカは、ラルのくれた巻貝にソラという名をつけた。青い貝殻を握ると、心が凪いだ。海の向こうへ渡った夫の、帰る日は引き延ばされたままだった。

母とふたりの暮らしに、不自由はなかった。父の遺した屋敷に住まい、エシカはラルをたびたびおもった。おもうときのエシカは、その名をかならず口にした。声に出し、ラルをかたちづくっていたものをなぞった。つぶやく唇は、たとえば、口づけをかわすそのときの、つ、と、まるくとがらせた愛のかたちのそのままにうつくしくうごめき色づいた。
「ラル」
どれだけ声にだしてみたところで、彼が戻ってくるわけではなかった。ラ「ル」の音を仕舞うちいさな穴から、ラルの気配は日に日に薄れていく。母は、ラルをあきらめるように諭す。

リ、リ。

おもての鈴が、エシカを呼ぶ。
今朝も雨は来ず、エシカには眠りが足りない。眠り過ぎると、戻ってこれなくなるような気もしていたし、眠らないと大丈夫ではないような気がした。もう少し眠らなくてはならなかったし、そろそろ起き出さなければならなかった。

リ、リ、リ。

あたまに林檎の花を詰め、夢にさえ辿り着けぬ道にさ迷い続けていたエシカは、ふらつくからだをなんとか励ます。未熟な二本の両脚を叩き起こして玄関へ向かい、二回目のノックのあと、もたれかかるようにして鉄の扉を押し開けた。

「これを」

薄曇りの空気を割り、冴え冴えとした緑が差し出された。一抱えもある白泥色の鉢からは土の匂いがして、それが、植物であるらしきことは即座に判別できた。墨色の衣をあたまからかむったまま、その隙間から探るような視線を向けた。

「これを」とまた言って、身綺麗な人が若葉を茂らせた鉢を押し込んだ。
エシカは外の空気をなるべく吸い込まぬよう、その布で口元を覆い、一歩下がった。目を凝らしてやっと気づく儚い白色の粒は、若葉にうもれた鈴なりの花であった。これは、と尋ねる前に「酸塊です」と告げられた。

「すぐり?」
「酸塊。カシスとも言います」

ああ、母が頼んでいたのであろう、と合点した。
どちらに置きましょうかと見渡しながら、その人は鉢を抱え直した。開いたままの入口に、劇場から賑々しい音楽が流れ込む。

「光を好むので、本来なら外の方が。ただし、食べるなら中です。室内でも陽が当たるなら問題ありません。重いですから、適当な場所まで運びます」
「では、あの、中に。出来たら、すぐに扉を閉めて」

告げてのち、ひとりのときに知らぬ者を家にあげぬよう言い含められていたことをおもいだした。母は出掛け、ラルは戻らない。身をこわばらせながら、踏み込んで来た人の、若いけもののような、鋭く、甘やかな香りがこぼれ出たのを、気づかないふりをしておもいきり吸い込んだ。まとめ髪の黒黒しさと、あごから耳にかけてのしなやかな肉に目が行った。のどぼとけはなく、えらの張りだし方が、ラルとは違う。週末の朝に、あらがえないものがあるとしたら、それは誠実そうな目でエシカを見つめ、大事そうに鉢を抱えてきた見知らぬ者であり、親切を追い出す道理は無かった。約束は約束として、鉢を置いてもらうだけだからとおもい直し、どうぞと促した。陽当りのよい場所を、ということばに、窓辺のカーテンを開けてみせた。さまざまな緑のひしめく室内に、光が差した。

「素晴らしい」
「眩しいのは好きではないのです。熱の籠ることは耐え難いですし。とても。息が苦しくなりますでしょう。だけど、もし、ここで実が育つのなら、この暑さも、たのしみのひとつになるかもしれない」

良く磨かれた窓から、陽が注ぐ。血管の剥きだしたエシカの肌にも、初夏の光が触れた。

「水は、これで、きっかり一杯を日に一度」

場所が決まると、その人は小さな水差しを寄越し、「土が乾くのを待ってから」と言い添えた。酸塊の育成についてなど考えたこともなかったエシカも、説明を聞いているうちに、頼もしい気分になってきた。一日一度、土が乾けば水をやる。十五歩も歩けばくまなく目の届くこの部屋を占めるあまたの鉢の、そのほとんどすべてを母が世話した。母は、毎朝、欠かさず水やりをする。決まりを守ることは、エシカには得意ではなかったのだけれど、今度ばかりは。

甘酸っぱい実をおもい、エシカは「シロップができるかしら」と声をはずませる。注意深く傾いだはずの頸椎から、ちいさな破裂音がする。ああ、骨がずれた、とおもう。

「シロップ、ですか」
「そう。好きなの。甘くて、酸っぱくて。育てた果実でシロップなんて。まるで夢」

そう言ってすぐに、自分の少女じみた口ぶりを恥じ、布で顔を隠す。
「それほどたくさんは」とかすれた声でその人は笑った。ならば、一層、つくらなければならないような気持になる。「ねえ、だけれど」と、調子を整えたエシカは真剣に訴える。

「たとえば、毎日話しかけたりしても叶わない?」

落ち着いた姿はラルよりずっと年上のようにも見えたし、澄んだ瞳はまだ若いようにも見えた。

「話しかけてみるといいのではないでしょうか。たくさん、できるように」

先端の葉に唇をつけ、幹を撫でた。幹に触れる指先は端正で、爪も揃い、まるでよごれていなかった。腕も指も、細く長い。土をきれいに落としてきたのか、本来、土を触らない種類の人間なのか、今までに知っている植木屋の手の、こんなにもたおやかであることは信じがたいようにおもえた。劇場で見た、一等すぐれたピアノ弾きではなかろうか、と心が騒ぐ。

「実りを」

窓から見送る後姿は一度も振り返ることなく消え、出窓には鉢が居座っていた。エシカは、撫でた枝の付け根に人差し指を這わせて、引っ込める。二股にわかれていると見えた若木は、いびつな二株が寄り添い、かたちを成していた。水遣りを忘れぬよう、約束として、その土にソラを置いた。

「それは」と、帰るなり母が鉢を指さした。

エシカの答えを待たずに、母は真っ赤な袋をちょっと掲げた。
離れていてもわかるほど、けだるい香りを放つ熟れすぎた苺だった。結びめをとけば、一層かおりが跳ねだし、煮詰めてもいないのに部屋にはシロップの芳香が満ちた。

「季節も終わりだから、って。一山買ったら、もう一山。お日保ちしないから、店じまいですから、って、袋に入るだけいれましょう、って、どんどんお詰めになるじゃない。室内苺ならば安心だし。ご親切をお断りするわけにもまいりませんし。ほら、あなたの好物でありますでしょう、それに、今年はまだつくってなかったから、おもい切って、全部いただいてきたの。成せるものを成すことがわたくしたちのおつとめ」

彼女は苺をざるにあけ、大鍋を用意した。

「お手を貸していただける?」

不揃いなヘタを外すと、さらに濃いかおりがあがる。エシカは、ざるからこぼれた熟れ切った果実を口に放る。歪んだ果実の酸味とさりげない甘さが広がる。目を閉じ、あふれる果汁を全身で感じる。歯をもたずとも味わえる。春の名残と夏のはじまりの。喉へ流れ込む豊潤さに、またひとつと、つまんでしまう。指を赤く染めながら、唇を、小刀を動かし続ける。母もエシカを真似て、ほおばった。

「ねえ、エシカさん。たべてもたべても、まだある」

母のジャムを好きなのは亡くなった父だった。姉もエシカもそれを好み、ジュエルリの輝きをたたえた、ひとさじの甘さは魔法だとおもっていた。パンに乗せるのも、そのままいただくことも、紅茶にとろかすのも好きだった。シロップのあとにできる、とっておきの、ジャム。ラルは、あまり好まなかった。「粒がね、ちょっと怖い」と子供のようなことを言った。鍋は、その縁までいっぱいになった。苺とほとんど同じだけの砂糖をかぶせ、このまま一晩置きましょう、と鍋を奥のコンロに押しやった。

「それは」
「酸塊。母さまが、頼んでいらしたのではないの」

緑の森を誇らしげに眺める母は、曲がったままの首を横に振った。

月が膨らみ、また欠けた。

ふたたび呼び鈴が鳴らされ、扉が二度ノックされた。
鍵が解かれると、隙間から差し込まれた腕が鉄扉を押し開けた。以前と同じように、目深の帽子に漆黒の髪をうしろに括り、真っ白なシャツをゆったりまとうその人は丁寧にあたまをさげてから、「肥料です」とざらりの粒が詰まった袋を突き出した。

「あ……」

あるじのふりをして現れたエシカは、母と夫の不在を説明した方がいいのかと迷う。墨色の布に包まれたまま。誰か居るふりをして出迎える方が安心できるような気もしたし、留守を明かした方が心軽くあるような気もしたが、かの人は、エシカがひとりであろうとそうでなかろうと関心がないようだった。職人然とした表情で「これを土に混ぜると、よく実が成ります」ときっぱり言った。

「あの、お名前は」
「酸塊の?」
「……いえ、あなたの」
「リベラ」

鉢は設置された場所にそのままあり、玄関からも確かめることが出来た。
エシカは、この植物のために、カーテンをひくのをやめていた。鋼入りの硝子窓は、太陽光線を遮るというより、増幅させるようにしてその明るさを部屋に取り込んでいた。眩しすぎることには参る日もあったが、丈夫な窓は、暴徒と煙の侵入を防ぎ、煙る空をさえうつくしく見せた。陽当りがよくなって、他の鉢の生育も著しい。リベラが、「土に混ぜるといいのです」と肥しを示し、控えめに申し出た。

「どうぞ、お入りになってください」
「失礼します」

示し合わせたように歌声が流れ込んできた。清らかな響きは、白壁に吸い込まれ、まだ起こってもいない罪をも押し流し、かき消してくれる。バイオリンを抱えるように肥料袋を担ぎ、リベラは膝を曲げずに上がり込んだ。鉢植えに向かい、持ってきた麻袋を敷く。鉢から土を半分取り、空気を含ませながら白い小石のようなものをまぶし、土を戻して均すと「お水をいただけますか」とエシカを見た。

「はい」

エシカは、汲み置きの水を上等なグラスに注いだ。葉脈を模した細やかなカットが、水を光らせ、高価な白葡萄酒のように見せた。エシカの、薄羽のような皮膚にも似た器だった。渡したあとで、それはリベラのためではなく、鉢のために必要な水と知った。注がれたところから、ラムネのように肥料が溶け、土に染み、薄荷のような香りがした。鉢に戻されたソラも、薄荷の香りに溶けた。

「あの歌は、海の向こうに住む人のつくった曲だそうで」

リベラがグラスを置いた。
人差し指を天に向けてくるくると回すと、「神は私のすばらしい友、つみとがをにのう」と鼻歌にのせ、若葉をくまなく点検した。

「つみとが、って面白い言葉ですよね」

口元を隠したままささやくエシカの声に、「悪事と過失と」と歌うように重ねた。

「劇場にはよく行くのですか」
「一度だけ。でも、母は行きます。毎週。いえ、毎日。今も。一緒に歌っているんだとおもいます。わたしは、外には出られないし。いえ、特に関心があるわけでもないのです。けれど日々こうして歌が聴こえると、それらしいものが耳に残ります」

ぽつり、ぽつ、とまだらに発生した記憶のぬけあなに、つみとが、の言葉が沁み、行き渡る。今日は早い時間から月が出て、窓のそとはあかるいままであった。母は、まだ帰らない。

「今晩は、帰らない、と」

ラルとは、母の信仰の時間に旺盛なものをぶつけあっていたことをおもいだす。エシカの、桃色の皮膚の剥がれ落ちてしまう前の、なめらかな肢体を、ラルは片目で飽かずに眺めていた。余ったところと足りないところが合わさって、いのちが、ひとつうまれるという。足りないものばかりのふたりには、何をもうまれはしなかった。ラルなら、このようなときにどうするだろう、とおもうエシカの唇の「ル」のかたちをリベラの長い舌がするりと舐めとった。

あければ、雨のあさだった。
酸塊はその葉を震わせ、水を恋しがる。おもてには、煙が雨に押し戻され、滲んだような空が広がっている。雷の来るのはこれからのようだ。今朝は、けだるく下腹部が重い。どうせ宿すなら、神の子であればよいとすこしだけおもう。
                                了

酸塊(gooseberry):花言葉は「好奇心」「私はあなたを喜ばせる」「あなたに嫌われたら私は死にます」

枯木枕氏の作品(「となりあう呼吸」)がすばらしく、並べてみていただけるようなことがあれば素敵だとおもい、手元にしたためていたものが、たまたま「となりあう呼吸」の世界に近しく、ならばと、すこし寄せてきりとり、放り投げてみたのですが、撃沈いたしました。せっかくなので、期間限定公開です。

お読みくださって、ありがとうございました。


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