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「水与水神」|第二章 黄河之水|第三節 河神祭祀

<抄訳>

第三節 河神原像

黄河水神「河伯」はその名を「馮夷」「潟夷」「水夷」といった。

<庄子・大宗師>では、「夫道可传而不可受、可得而不可见……」、司馬彪注「馮夷」説:「華陰潼鄉展首里人也。服八石得水仙。」、<韓非子・内儲説>「斉人有謂斉王、曰河伯大神也。王何不試与之遇乎。」斉人の斉王に謂うこと有り、曰く、「河伯は大神なり。王、何ぞ試みにこれと遇わざるや」と書かれ。<抱補子>の河伯は「馮夷以八月上庚日渡河溺死、天帝署爲河伯」とあり、<博物志>では、河伯は華陰潼郷生まれの人で、溺死のちに神となった、人と魚の姿をしている、とあった。<歷代神仙通鑒>の河伯は、人面に蛇のからだとある。この他、さまざまな文献から推察される河伯は…

① 華陰潼郷生まれの人で、溺死のちに神となった 
② 河伯は人で、服薬して仙人に或いは修行をして道を成し、神となった 
③ 河伯の容貌は人面魚身、もしくは、人面蛇身の蛇魚類である

と考えられる。

河伯の故郷とされる華陰潼郷(陝西省)は、黄河の屈曲地帯で、いにしえより、氾濫や洪水の起きやすい地域であった。古来より黄河水神を祭るための祠があり、そのため、河伯が潼郷を故郷とする説が生まれた。<博物志>では、河伯は「得仙道化為河伯、其行恍惚、萬里如室」とあり、この一帯の黄河は、河の流れが定まらず、氾濫すれば、周辺が水郷地帯に変ってしまうのは、地理上の事実である。これらの結論から、河伯は人面魚身或いは蛇身、或いは魚、蛇の原始神話的なかたち保持しながら、だんだんと、仙道思想の流行に伴い人格化が流行し、服薬により、道を得て神仙化したものといえよう。<山海経>において、河伯は馮夷或いは、水夷と言い、「從極之淵、深三百份、維冰夷垣都焉、水夷人面、乗両龍…(きわめて深い場所に住み、その深さは三百仞……二匹の竜に乗る)」ある。<淮南子>の馮夷は「乘雲車、人雲霓、遊微霧、經霜雪而無跡、日所照而無景、上崑崙而入天門(雲に乗り、虹に乗る……日は照るが景色はなく、崑崙山をのぼり天門に入る)」、<晏子春秋>では、景公は河伯を祀り雨に祈り、晏子は景公に水神河伯は「以水為国、以魚鱉為民(水を国とし、魚やスッポンを民とした)」と言った。前述の冰夷が水死して仙人になった話は、水神河伯の原像に近づくものであり、<楚辞・九歌>にみる河伯も、これに一致する。河伯の三百仞(仞は古代中国の単位で、およそ七‐八尺。高さや深さを示すのに両手を上下に広げた長さを「仞」と言った)という深淵は、おそらく、水神鯀(こん)の入ったとされる羽淵(羽山にある深い淵)である。冰夷の都は、<楚辞・九歌>の「魚鱗屋兮龍堂、紫貝闘兮朱宮(魚の鱗の屋と龍の堂、紫の貝殻と朱色の宮」という水底のまちであった。河伯は、龍の車で遊ぶことを好むとされ、これが黄河に影響すると考えられていた。河の流れが変わったり氾濫したりする事実は、河伯が崑崙にのぼり天門に入ることとし、古代の人々は、崑崙を黄河の源、また西方の仙郷信仰とみなしたのである。注意したいのは、「人面」或いは「人面魚(蛇)身」の馮夷であるかどうか、彼らは半人半獣の神としての姿を保ち、同じ時期に「豹尾虎歯、披発戴勝」の西王母であるかどうかである。<楚辞・天問>の中で、后羿に射られた半人半獣の河伯は、獣の姿をしており、白竜となったり、神と人とが同体化したような風貌であり、<穆天子伝(ぼくてんしでん)>にも河伯の姿は記されている。「披図視点」には、穆天子に人格化され人の容貌を備えたものとして書かれた。司馬相如<大人賦>では「霊媧鼓瑟、馮夷起舞(女媧は鼓をたたいて、河伯をおどらせた)」とあり、曹植<洛神賦>では「馮夷鳴鼓、女媧清歌(河伯が鼓を鳴らし、女媧が歌った)」などとある。これらの文献に出て来る河伯は、女媧或いは女媧などと呼ばれる水神と、歌ったり踊ったりしており、この黄河の神は人々の観念のなかで、水神を娶った男性として、もはや、人面魚身の怪物ではなくなっている。

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<捜神紀>には、「年三十許、顔色如画……」として、画のように美しい美男子とあり、<神異経>の河伯は、「西海水上有人、乗白馬、朱鬣、白衣…(西海に人があり、白馬に乗り、朱色の鬣、白衣に白い冠、十二童子を従え、西海海上に馬を馳せ、名を河伯使者と言った)」などとあり、ここでの河伯は風雲戦将さながらである。

以上より、我々は、黄河の水神河伯が、初めは「人首魚身」の半人半魚の容貌で、のちに、人となり、白竜となり、虫獣の神と同体の姿となり、それから、白衣白馬の人格化された現人神、石により道を得た神仙に変化していった。それでは、半人半魚以前の、そもそもの河神馮夷の由来は何か。河伯の名は、<山海経>において、水神となった怪魚からその名が形成されたとわかる。

森安太郎先生の考証によると、蒲夷、母遺などの怪魚の名称は、語音の上で共通点があり、母遺も水神、馮夷、の別名、無夷、馮夷の名字は、蒲夷の音から形成された。「魚身蛇首」の蒲夷の魚は、河伯馮夷より先に、水神として信仰されていた。この魚身蛇首6本足の怪魚は、魚と蛇のハイブリッドな水神の原型であり、古代の原始水神信仰の始まりであるといえるかもしれない。<山海経>でも有名な水神天吴は水伯とも呼ばれ、「八首八足皆青黄(8つのあたまに8つの足)」の怪物でもある。<博物志>では「水神曰天吴、人面、八首八足、亦曰河伯(水神は天吴と言われ、人面で、8つのあたまに8つの足を持ち、河伯とも言う)」とある。この名が、天吴の河伯或いは河伯馮夷と呼ばれ、8つのあたまに8つの足というのは、魚の身に蛇のあたまで6本足という蒲夷の魚とも似ており、古代人が水神を信仰していたこととも一致する。語音の上でも、「馮夷」「蒲夷」が相通じる他に「肥遺」という水中の蛇の呼び名とも似ている。

・・・

水神古代の人々が最初に信仰した神は動植物や自然現象で、祀られていくなかで、次第に、半人半獣の神、そして神と同体化された人の姿となり、英雄或いは神仙人へと変わっていった。神話の中のさまざまな神は、動物や半人半獣の姿から、完全な人間のかたちになる過程で、古代人の原始的な意味というのは、人文文明とは異なる段階を経ており、ここでは、黄河の河神をみてきたが、魚蛇の形をした水中生物から半人半獣の水神河伯になり、水神河伯の本体は、時代の変化と共に、その姿も性質も、移り変わってきたものと言えよう。

(「水与水神」p40‐45)

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