悲しき熱帯魚 最終章
「あるところに、主人からとても可愛がられている熱帯魚がいました。最初は、他の魚たちと一緒に、大きな庭にある池で泳いでいました。しかし、冬が近づいてくると、主人は自分のお気に入りの熱帯魚をそっとすくい、大きな金魚鉢に一匹だけ入れて、自分の部屋で飼うことにしました。
主人は、その小さな生き物を大変可愛がり、毎日話しかけました。主人から可愛がられている熱帯魚も、主人のことを大好きでした。できれば主人と同じ人間になって、話をしたいと思うようになりました。
ある日、真っ白い顔をした老婆が、主人がいないときにどこからともなくやってきて、金魚鉢のなかを覗き込み、熱帯魚に話し掛けました。老婆は、お前の願いを叶えてあげよう、とにやりとして言いました。喜ぶ熱帯魚に対して、ただし、もしお前が主人の気持ちを掴むことができなければ、お前の命はわたしのものになると告げました。
熱帯魚は、主人が毎日自分のことを可愛がってくれるので、自分を好きになってくれる自信がありました。例え命を落としたとしても、主人と同じ人間として会えるのなら本望だと思いました。
そして人間になり、主人と再会するのを心待ちにしました。やがて、主人と二人きりで会う日がやってきました。お互いの気持ちを確認しあい、結ばれて熱帯魚は、これで永遠に人間になり、主人と一緒に時を過ごすときが来ると信じていました。
しかし、いつまで経っても主人は迎えにきてくれませんでした。そして、噂で主人が他の女と身を固めることになったと聞きました。それでも自分の目で見るまでは、何かの間違いであって欲しいと思い続けていました。
でも、世の中はそんなに甘くはないと、今夜、熱帯魚は身を持って知ることになりました」
そこまで一気に話し終わると、吉野の目から一筋の涙がこぼれ落ちた。龍太郎が慌ててその華奢な軀を引き寄せようとすると、刹那な雰囲気で女は寄りかかった。だが直ぐに、するすると全体が溶けていき、水の塊になった。
吉野、と女の名を龍太郎は叫んだ。龍太郎はひしとまだ温もりが残る着物を自分の胸に抱きしめた。しかし、もう何も返事は返ってこない。
宴会場は一瞬にして静まり返った。鮮やかな色が散らばる華やかな部屋は、今では吐息の音さえも大きく響く。静けさのなかを縫うようにして、龍太郎のすすり泣きだけが聞こえている。
もちろん覚えているさ、俺の可愛い熱帯魚。話し掛けるとまるでわかっているように、首を傾げたり跳ねたりしたものだ、と龍太郎は愛し気に呟いた。居なくなって、どんなに淋しかったことか。
その言葉を聞くと、水の塊が白い蒸気になって空中に立ちのぼり、再び吉野の形になった。
空中に浮かぶ吉野は龍太郎の顔を見て満足気に微笑むと、ありがとう、と礼を言い、深くお辞儀をした。
龍太郎が夢中で走り寄ると、吉野は段々と陽炎のようにその影を薄くして、やがて消えて見えなくなってしまった。
吉野が去った後も、その姿は龍太郎の脳裏に深く刻みこまれた。そして、一生他の女を愛することはなかった。それでも家を相続するために親が薦めた女と結婚した。しかし、親に反抗して、吉野と一緒になったらどんなによかっただろうと、いつも心のなかで思っていた。大切なことに気づくのが遅過ぎた。
やがて龍太郎のもとに、女の子が産まれた。産まれてすぐに、将来とても美しい女になるのが分かるような赤子だった。
龍太郎は、娘に「吉野」と名づけた。それだけは誰に何と言われようとも、譲らなかった。そして、まるで罪滅ぼしをするように、その女の子を誰よりも大切に育てたのだった。
了
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