「対岸の鐘」第1話【創作大賞2023】
あらすじ
「僕たち、これからサラエヴォに行くんだ」
社会人になったばかりの8年前、クロアチアのドブロブニク、旧市街を見下ろす展望スポットで、ドイツから来たツーリング3人組の1人がそう言った。
ゴールデンウィークを利用して僕はクロアチアを訪れていた。首都ザグレブから移動したプリトヴィツェ湖群国立公園で、先の3人組と出会った。僕が1人で写真を撮っていると彼らが「撮ってあげるよ」と声を掛けてきた。
彼らは黒いライダースーツを着ており、1人は坊主頭に大きな眼鏡を掛けていたので、心の中で僕は彼らを "モジモジ君" と呼んだ。
そこから僕は中世の街スプリトに移動し2泊した後、ドブロブニクに来た時に "モジモジ君たち" と再会した。彼らは僕を見るなり叫んだ。「お前、プリトヴィツェの!」
僕らは再会を祝して一緒に飲んだ。クロアチアはワインの名産地でもある。内陸のザグレブと違い、食事はイタリアンに近く魚介も豊富だ。1人だと質素になりがちだったが、4人で大いに飲み、食べ、ドブロブニクの夜を謳歌した。
そしてその翌日、市街地から少し離れた場所にあるケーブルカーに乗り、山の上の絶景ビューポイントから眼下の旧市街を眺めていた所、またまたモジモジ君たちを発見した。「Again!?」
僕らははしゃいだ。約束したわけでもどこへ行くと話したわけでもないのに。逆に言えばお決まりの観光ルートを僕らはなぞらっているということかもしれないが。
モジモジ君は僕に訊いた。
「ハルヒコ、お前、これからどうするんだ?」
「僕はもう日本に帰るよ。明後日はもう仕事なんだ」
「なんだ、もう帰るのか。まだ1週間じゃないか」
「日本の休暇はそんなもんなんだよ。…あなたたちはどうするの」
「僕たちはこれからサラエヴォに行くんだ」
サラエヴォ…へぇ、そんなところに行くんだ。
最初の感想はそんな感じだった。
***
8年後。
ゴールデン・ウィークのカレンダーの並びが良かったこともあり、僕は更に有給をくっつけて超大型連休を取ることにした。
さて、行き先はどこにしようか。こんなに長いこと取れるのだから、ちょっと変わったところに行きたいな。
そう考えていた時に蘇った言葉がある。
『僕たち、これからサラエヴォに行くんだ』
そうか、サラエヴォ。
未だにその街のことを良く知らない。旧ユーゴスラビアでかつて紛争が起こったことをほんの少し知っている程度だった。
そんな知識のままではあったが、僕は決めた。
「僕もこれから、サラエヴォに行くよ」
*
僕は飼っている猫・ロドリーグを近所に住む姉夫婦の家に預けに行った。僕が旅や出張で家を空ける時はいつも預かってもらっている。
姉さんのお腹の中には赤ちゃんが宿っており、ちょうど安定期に入る頃だった。生まれてきたらロドリーグと遊ばせたい、と楽しみにしている。ロドリーグはたぶん赤ちゃんよりも大きい、デブ猫だ。そこがかわいいんだが。
「ボスニア・ヘルツェゴビナか…どんなお土産があるのかも想像がつかないな」
仕事で海外に行くことの多い義兄さんでさえ、苦笑いしていた。
「なぁ、ロドリゲス。俺も行ってみたいよ、ボスニア・ヘルツェゴビナ」
義兄さんはロドリーグを抱き上げた。
ロドリーグは義兄さんのことが大好きで、飼い主の僕にでさえ構ってくれないこともよくあるのに、何故か義兄さんの後はいつもついて歩き、抱きかかえられると目を細めて喉を鳴らす。
ちょっとしたジェラシーだ。
そして義兄さんは何故かロドリゲス、と呼ぶ。何度言っても改めようとしない。わざとなのだ。
「お土産、確かにね。じゃあ尚更、期待して待ってて。いってきます!」
にゃー、とロドリーグは気のない鳴き声を挙げた。
***
スタートはクロアチアのドブロブニク。まさに8年前この地で聞いたあの言葉そのままにスタートすることにした。
東京からドイツ・フランクフルトにまず渡り、そこからクロアチア航空にてドブロブニクに移動する。
8年振りの懐かしさを噛み締めつつ、アドリア海の真珠・ドブロブニクを散策し1泊。
翌日早朝、バスでボスニア・ヘルツェゴビナのモスタル、という街に移動した。
モスタルはスターリ・モストという橋が有名だ。事前にちょっとだけ調べたところによると、負の世界遺産となっているとのことだ。
1990年代、ユーゴスラビア紛争で民族内紛が勃発。
橋の東側がイスラム系民族、西側がカトリック系民族が多く住んでおり、民族対立が激化。橋は破壊された。
2004年に橋の復興工事が完了。現在もイスラム系民族とカトリック系民族の共存する街となっている。その証拠に、モスクからアザーンが聞こえたかと思えば、川の対岸からは教会の鐘が鳴り響く。
この感覚は、そうあちこちで感じられるものではないだろう。
僕は風光明媚で観光客もいっぱいのドブロヴニクからこのモスタルに入り、もちろんここも観光客が多いが、街の雰囲気が一変して、複雑な事情を抱える旧ユーゴスラビアを陸路移動して良かったと思った(もちろんドブロヴニクも紛争の跡は生々しく残っていたのだが)。
早朝から移動していたので、そろそろ落ち着いてランチを食べようと、橋を渡ってしばらく良さそげなレストランを探して歩いていた。
観光のメインストリートから少し外れたところがいいかな、と思いながら、キョロキョロ歩いていたところ。
ふと、ある女性に目が止まる。
アジア人が海外に出れば、たいていどこの国の人か、見分けがつくと思う。僕はその時、咄嗟に彼女を「日本人だ」と思った。
ここモスタルも中国からと思しき観光客はたくさんいたが、その人は一人で歩いていたし、何より目を見たら、わかる。
細い身体だ。肌も白い。ショートヘアで、白いTシャツにカーキ色のゆるめのパンツ姿。たすき掛けにした黒いカバン。足元は黒のプーマ。背は高くない。僕より歳下だろう。
こんなところで日本人に出会った珍しさでしばらく見つめてしまったせいか、彼女と目が合った。
彼女も僕を見て一瞬 ”おやっ?” というような顔をした。
しかしその後すぐに、口を結んで顔を背けた。
ここは男として、声をかけるべきだと思った(僕にはもうしばらく彼女がいない…)。
近寄って声をかけた。
「Excuse me. Are you Japanese?」
振り向いた彼女ははっきりとした声で「はい」と答えた。
僕は頬を緩めたが、彼女は警戒心を込めた鋭い視線を変えなかった。
「あ、いや。僕、一人旅でここ来たんだけど、まさか日本の人と出くわすなんて思ってなかったから、つい声かけちゃいまして…」
彼女は僕を足元から頭のてっぺんまでジロリと見たかと思うと「確かに、そうですね」と素っ気なく言った。
「あなたも、一人旅ですか?」
僕はめげずに話しかけた。
「そうです。あなたはもう、サラエヴォに行きました?」
思いかげず質問きた! 随分唐突だけど。
僕は「まだなんです。この後向かう予定です!」と元気いっぱいに答えた。
「私、ジェノサイドを研究していて」
彼女は再び唐突に言った。瞳は冷ややかなままだ。
僕は『ジェノサイド』という普段そうは聞かない言葉を聞き、面食らった。
「へ…へぇ…ジェノサイド…」
「規模の大きなジェノサイドは他国にも見られるんですが、ここではそれまで共存してきた民族間の争い…民族浄化があの第二次世界大戦後、最も大きな規模で行われたのです」
頭の回転が追いつかない、重たい話題。それが観光客で賑わうお土産物通りと、彼女の視線の強さの不協和音が身体を突き抜けたような気がして、惹かれた。
「なんか…、もっと話聞いてみたいな。僕、無知だから。良かったら一緒に飯でもどうですか? 僕、朝にドブロヴニクから移動してきて、まともに食べてないからお腹空いちゃって」
後で考えれば、旅先ナンパだ。しかもジェノサイドなんていう重たい話題からの、飯のお誘い。
普通はドン引きするか逃げるだろう、普通は。
しかし、彼女は意外にもOKしてくれた。
第2話
第3話
第4話
第5話
第6話
最終話
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