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共感は時に自分の意思を奪う

これは私の本当の意思なのだろうかと、ふと思う事がある。
これだけ情報が溢れていて使うSNSがどんどん増えていき、外に出なくても人との出会いも無限にあり、誰かの共感が今日も飛び交っていく。

日々、いいねが繰り返されていく事に何の疑問を持たず親指が動いていて、それは感覚的にしているようで自分の意思を奪われているのではないかと感じることがある。
最早、SNS疲れというものは共感疲れに等しく、自分の感情を感じる暇を与えない。

メンヘラとかエナジーヴァンパイアとかよく聞くが、SNS上ではそれに該当するであろう彼らは、KPOPが流行り派手髪に何も思わなくなったように、それは異質なタイプではなくなるのだ。
そう考えると、そこに疑問を持ちツイッターのトレンドに載るような言葉とは真逆をいくような思想だったり、本音の方が異質になるのかもしれない。

自分の正義と信じで疑わないものが誰かにとって悪なように、10年前に普通と言われていた事柄が炎上するのだ。
ただそれも炎上しているように見えて極一部の中の出来事であり、これだけ情報が流れるのが早い世の中では、すぐに真新しい刺激に皆、シャッターを切っていく。

そんな混沌した世界は生きにくいように感じるが、私は混沌とすればするほど居心地が良い。
人間の生きているエネルギーは強く、鬱陶しく、鮮やかである。
海外に行く時もアジアの混沌としながらも、色鮮やかで逞しく、人間らしい世界が好きだ。
刺激を求めてるからというのがシンプルな答えなのかもしれないが、綺麗なものは味がすぐ無くなる。
だが、それは非日常が故の俯瞰的に見れるからだと思う。
特に一人旅というのは自分のナルシズムな哲学と見つめる時間なのではないだろうか。

日々、行き交うものが多ければ多いほど流されやすく、無意識のうちに自分の意思が奪われていく。
SNSのコメント欄やオンラインによるライブビューイングもチャットで参加できたり、漫画の一話一話にコメント欄があったり、共感のシェアは面白いが自分の感覚が鈍っていく。
それは共感性が強ければ強いほど垣根が曖昧になり、本来感覚が鋭い人が自分の才能に気づきにくくなるのだ。

私は何をしたいのだろう。
何のために生きているのだろう。

そんな人にはブルース・リーの「Don't think! Feel. (考えるな!感じろ。)」と言いたいのだが、この台詞をググると続きの文章を訳しているブログを見つけた。

It is like a finger pointing away to the moon.(これは月を指さすのと似ている。)Don’t concentrate on the finger, or you will miss all that heavenly glory.(指に気を取られていると栄光(月)を見失うぞ。)」
この場合「指」とは「自分(の技)」で「月」とは「相手(を倒すこと)」でしょう。つまり「自分の技に集中するな。相手を倒すことに集中しろ!」と言ってるんです。自意識にとらわれるな!と言ってるんです。

https://ameblo.jp/devikobayashi/entry-12369734335.html

感覚で行動するというのは何も頭で考えていないという訳ではない。
日頃自分の考えや意思と周りの情報が分けて考えられ、クリアでいた方が自分にとって最適な情報を選べ、いざというときに感覚で動けるのではないだろうか。

一見、家族がいる方に比べ、ひとり暮らしの方は一人の時間が多いから常にあるでしょと思われるかもしれないが、自分の脳を一人にする時間はまた別の話である。だからこそ、こんなデジタルの時代になっても手帳やノート術などがなくならないし、瞑想など古代からある教えに需要があるのではないだろか。

このブログを書いている時間も私の意思を感じる行動の一つなのかもしれない。


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