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Container from Malaysia(コンテナ フロム マレーシア) 第12話 世界の貧困を目の当たりにして

前回の話はこちらから

https://note.com/malaysiachansan/n/n611b6963c09a

 さて、氷堂律(ひょうどうりつ、通称ちゃん社長)がマレーシアの地に降り立ったのは、今から5年前の2016年だった。今日はその頃の話をしたいと思う。

 氷堂はマレーシアに来る前、香港にいた。氷堂はコンテナリースの世界的大手であるフェータイル社(仮名)で働いていたが、その頃フェータイル社は主に長期リースの商品を扱っていた。一方で当時は海運不況が襲った事もあり、コンテナリース会社と船社との関係が芳しくなかった。それでフェータイル社としては、長期リースだけでなく短期リースの商品も充実させる事を考えた。短期リースは市場の動向に合わせて商品の金額を調整できるため、リスクヘッジになるからだ。しかし一つの会社の下に長期リースと短期リースの商品が混在すると、会社全体の財務状況が複雑になると同時に、財務の健全性が失われる事が指摘されていた。そのためフェータイル社は短期リースを扱う会社を別会社として独立させる事を決定した。つまり新会社を設立する必要が生じたのだ。

 次に「どこに新会社を設立するか」という問題が生じた。フェータイル社は様々な船社と契約を結びコンテナを貸し出していたが、最も大きな取引先は中国の国営企業でもある中国海運集団有限公司(仮名)だった。この会社とフェータイル社は財務的な繋がりもあり、フェータイル社が扱うコンテナリースの約50%がこの会社との取引で占められていた。中国海運集団はその名の通り中国の会社なので、中国発着のコンテナ船に関しては世界的なシェアを有していた。しかし一方でヨーロッパ航路に関してはそこまで強くなく、そこはマースク(デンマーク)やCMA CGM(フランス)、MSC(スイス)、ハパックロイド(ドイツ)といった欧州系企業の独壇場だった。この欧州航路のシェアを奪っていきたいと考えていた中国海運集団及びフェータイル社は、欧州航路の玄関口に新会社の設立を決めた。これがマレーシアのポートクランだった訳だ。

第12話 東シナ海とインド洋航路

 最後に残された問題は、「誰がこの新ビジネスの陣頭指揮を取るか」という点だった。当時フェータイル社の本社には約80名の社員が在籍していたが、誰もそれをやりたがらなかった。理由は簡単で、もしこのビジネスの責任者になれば、マレーシアに赴任しなければならなかったからだ。ご承知の通り、香港は世界屈指の金融都市であり、フェータイル社で働いていた者たちも皆エリートだった。その中には東京大学よりランクが上の香港大学の出身者も少なからずおり、彼らは総じて高い給与を得ていた。その安定した地位を捨て、辺鄙な土地であるマレーシアに赴任したいと思う者など誰もいなかったのだ。

 ある日、氷堂はフェータイル社の役員であるアレックスから呼び出された。

「リツ、社内の噂を聞いていると思うが、今後の中期的な計画としてマレーシアに短期リースを専門とする会社を設立したいと考えている。しかし困った事に、その責任者を買って出る者が今のところ誰も現れていない。勿論私達役員が誰かを任命して、強引に赴任させる事もできる。しかしこういう新興国におけるビジネスというのは、トップがやる気を無くしたら、後は崩壊の一途を辿るだけなんだよ。だから『是非やりたい』という人間を探しているんだが…」

 ここまで話を聞いて、氷堂はアレックスの要望を察した。そして返答した。

「それはつまり私に『マレーシアへ行け』という事ですよね。でも私なんかに務まるんでしょうか。私はフェータイル社に入社してまだ5年しか経っていませんし、私よりもベテランで有能な人たちは沢山います。そういう人たちに打診した方が良いのではありませんか?」

 それに対してアレックスは答える。

「確かにキャリアの長さという点に関して言えばその通りなんだが、役員で話し合った結果、リツがこのビジネスの責任者としては最適だという結論に達したんだ。それには少し理由があってね….」

 こういうとアレックスはニヤリと微笑んだ。そして話を続けた。

「リツ、何度か出張でマレーシアに行った事があるだろう。その時、周りのマレーシア人はお前にどんな反応をした?」

 氷堂は答える。

「それはみんなとても親切でした。取引先の皆さんも親切でしたし、レストランの店員も親切な人たちばかりでした。」

 その答えを待っていましたとばかりに、アレックスは話を続けた。

「その通りだ。それがリツにマレーシアに行って貰いたい理由なんだよ。つまりマレーシアはアジア屈指の親日国だ。リツが現地法人の社長になれば、マレーシア人の採用も上手く行く。一方で近年マレーシアは中国と仲が悪い。勿論俺たちは香港人だから中国人とは違うが、マレーシア人から見れば香港も中国も大差ないと感じる人も少なくないんだよ。もし香港人の誰かが現地の代表になれば、『中国の会社か』と思われて、人の採用や当局との折衝が上手く行かなくなる可能性がある。だからリツにマレーシアに行って貰いたいんだよ。分かるかな?」

 実際これは氷堂がマレーシアに赴任した後に知った事だったが、確かにマレーシアはアジア屈指の親日国だった。例えばレストランやスーパーでも、氷堂が日本人だと分かると「コンニチハ」と片言の日本語で声を掛けてくる者が大勢いた。何故ここまで親日国なのか。それはマハティール元首相が標榜した「ルックイースト政策」によるものに他ならない。

第12話 ルックイースト政策

 1980年代から1990年代にかけて、マレーシア政府は「ルックイースト」、つまり「東を見よ」という政策を掲げた。マレーシア政府は1960年代から70年代にかけて高度経済成長を成し遂げた日本をベンチマークとして、日本の労働倫理を規範とする様に国全体に働きかけたのだ。この影響は絶大で、マレーシア人の50代以下の世代の殆どが、日本に対して極めて良い印象を持っている。これが例えば韓国人や中国人に対してとなると、否定的な感情を持つ者も少なくない。このような歴史的背景がある事から、アレックスは日本人である氷堂に対してマレーシア行きを勧めたのだった。

 そして氷堂にとっても、香港での生活は既に飽き始めていた。氷堂は香港に来る前には横浜で港湾荷役労働者として働いており、その頃は極貧の生活を経験してきた。そのためか、香港に来てからも物欲というもの自体を殆ど失っており、高い給料を貰う事よりはスリリングでやりがいのある仕事を求めていた。それで氷堂はアレックスの誘いを受ける事にした。


 マレーシアに来た氷堂は、人の採用やコンテナの調達などを粛々と進めていった。この点で元々フェータイル社はマレーシア国内にも取引先がいたため、彼らの協力が得られた事も大きかった。そしてCOOのカイルディンを大手物流会社から引き抜き、彼と共にローカルの採用を進めていった。事業開始までに1年強を要したが、準備は順調に進んでいった。そしていよいよ氷堂たちが設立した新会社が営業活動を始める時が来た。


 最初に氷堂が選んだ営業先はバングラデシュだった。氷堂の設立した新会社はコンテナの短期リースの商品開発と営業をその目的としているが、バングラデシュのチッタゴン港はポートクラン以西の航路において、最初の大きな港だった。ここを拠点とする船社から契約を取るべく、氷堂たちの会社はバングラデシュにある取引先と協働しながら、メールや電話会議で営業活動を続けた。そして幾つかの船社が氷堂たちの商品に関心を示すようになった。この商談の約定に向けて、氷堂は一人チッタゴンに向かった。しかし氷堂がそこで目にしたものは、これまでの常識を覆す過酷な現実だった。想像を絶する貧困がそこにはあったのだ。

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マガジンは毎週1回、月4回更新します。コンテナ業界の裏話を含んだ自伝的小説「Container from Malaysia(コンテナ フロム マレーシア)」と、日本の構造的問題を海外の経営者の視点で統計と共に読み解くコラム「海外から見た、日本の良い点・おかしな点」を隔週で更新。貿易に関心がある方、海運やコンテナ関連の株をお持ちの方、またマレーシア在住者を含む海外移住者やそれを目標にしている方、更には日本の行政や教育システムに疑問をお持ちの方に有用な情報をお届けします。

香港・マレーシアでコンテナリース会社を経営中。マレーシア在住。コンテナや海運業界の裏話や、海外から見た日本の素晴らしい点やおかしな点を統計…

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