Container from Malaysia(コンテナ フロム マレーシア) 第84話 中国での反日デモの追憶
前回の話はこちらから
https://note.com/malaysiachansan/n/ncc8085660151
この話は2012年の出来事である。マレーシアの港湾でコンテナリース会社を経営する氷堂律(ひょうどうりつ、通称ちゃん社長)は、当時、香港の大手コンテナリース会社に勤務していた。これより遡ること2年、氷堂は縁あって横浜の港湾から香港へと仕事の場を移したが、2010年代前半の海運業界はリーマンショックの煽りを受け、未曽有の不況に苦しんでいた。その頃は無数の企業が経営難に陥り、統廃合を余儀なくされていた。
そんな中、リーマンショックの影響をいち早く抜け出したのが中国だった。中国は官製相場によって実体経済への打撃を最小限に受け止めると、そこからは驚異の急成長に転じた。そして香港は中国の玄関口になっていたことから、貨物の取扱量も大幅に増え、氷堂の勤めていた会社の売上も急伸した。
ただ一つ問題があった。貨物量が増えた結果、コンテナの集積場が手狭になってきたのだ。この当時、氷堂の会社は青衣(チンイー)という香港中部にある港湾を、コンテナの集積場にしていた。しかし香港は土地が狭く、地価も非常に高い。その中で新たな候補に挙がったのが、隣町である中国・深センの福田保税区だった。
深センは1980年ごろには人口が30万人程度しかいない小さな港町だった。しかし中国政府が深センを経済特区に認定すると、そこからは怒涛の勢いで急成長を遂げていく。例えば人口に関して言えば、1987年には100万人を突破し、2010年には1000万人に到達している。これだけの短期間でここまで人口が急伸した都市は、世界中を見渡しても深セン以外には存在せず、正に中国経済の象徴と呼べるような都市だ。
さて深センの福田保税区は今でこそ巨大な輸出入のハブとなっているが、当時はまだ開発の途上で、土地が十分に余っていた。何より地価も香港の数分の一であり、福田保税区から香港への移送であれば、免税地域間なので関税もかからない。当時、氷堂はいわゆる新規事業開発部に属していたのだが、この福田保税区でのコンテナ集積場の立ち上げが、彼に与えられたミッションとなっていた。そのため週の前半は香港で過ごし、後半は深センに出張するという、二拠点生活を過ごしていた。
さて8月のとある朝の出来事だった。氷堂は香港の自宅にいたが、テレビを付けるとニュースが流れてきた。その内容に彼の目は釘付けになった。ニュースキャスターは言った。
『昨日、中国・香港・マカオの活動家からなるグループが、海上保安庁巡視船による制止を振り切り、中国の釣魚島(尖閣諸島)に上陸しました。彼らは中国フェニックステレビのクルーも携えており、その様子は中国全土に向けて生中継されました。そして日本の海上保安庁は活動家14人を逮捕し、連行していきました。新しい情報が入り次第、お伝えします』。
これより前から、中国と日本の間では尖閣諸島を巡る小競り合いが生じていた。しかし実際に活動家が尖閣諸島に上陸したのは、実に8年振りだった。そしてこの逮捕・拘束が、中国国内での反日感情に繋がっていく。例えば8月19日には、四川省成都で複数のデモ隊が合同で行進を行い、その数は最終的に3000人に達した。このデモは多くの日系企業にも影響を与え、伊勢丹などは臨時の休業措置を取らざるを得なくなった。
氷堂は嫌な予感がした。いつかこのデモが深センへも飛び火するのではないかと。そして日本人である自分にも、敵意の目が向くのではないかと。ただ当時、プロジェクトは佳境を迎えており、いくら日中関係が悪くなっているといえども、氷堂の個人的な事情で業務を離れる訳にはいかなかった。何より氷堂自身も、与えられたミッションをやり遂げる決意を固めていた。しかしながら、事態は恐れていた方向へと進んでいく。程なくして、深センでも反日デモが始まったのだ。
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ちゃん社長のコンテナ・海運業界・マレーシアの裏話。
香港・マレーシアでコンテナリース会社を経営中。マレーシア在住。コンテナや海運業界の裏話や、海外から見た日本の素晴らしい点やおかしな点を統計…
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