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【備忘録】言語を学ぶということ

アイルランド・ダブリン出身のイギリスの作家・哲学者アイリス・マードックの代表的著作『善の至高性』所収の論文「他の諸概念に対する善の至高性」より

「プラトンがもっとも重要だと考えたテクネー[知識、技]は数学であった。というのも、それはもっとも厳密かつ抽象的だからである。私はより自分の性分に合ったテクネーの事例を取り挙げたいと思う。それは言語の学習である。例えばロシア語を学習している場合、私の敬意を惹きつけずにはおかない厳然たる言語構造に直面する。課題は困難で、ゴール地点は遠く、おそらく完全にそこへ到達することはできないだろう。私の仕事は、私から独立に存在するものを次第に明らかにしてゆくことである。注意は実在に関する知識によって報われる。ロシア語への愛は私を、自己から離れて、私には馴染みのない何ものか、すなわち私の意識が支配したり、吸収したり、否認したり、実在なきものへと変えたりすることが出来ないような何ものかへと導くのである。学習者には誠実さと謙虚さ——知ったかぶりをしないこと——が要求されるが、それは自分の理論を破綻させるような事実が現れても、それを揉み消そうとする誘惑に駆られることもないような学者の誠実さと謙虚さの準備をなすものである。もちろん、テクネーが悪用されるということはあり得る。自分の諸々の発見が悪用されることを知った科学者は、研究の一定の領域を放棄すべきだと感じるかもしれない。しかし特別な文脈を除いて、学習は通常、才能の訓練と同様、徳の訓練なのであり、徳が現実世界と関わる根本的な仕方をわれわれに示すのである。」(拙訳)

以下は、ロシア文学研究者・翻訳家、奈倉有里さんのエッセイ集『夕暮れに夜明けの歌を 文学を探しにロシアに行く』(イースト・プレス、2021年)より

「ロシア語という言語に取り組んで数年が経ったころ、単語を書き連ねすぎて疲れた手を止めたとき、突然思いもよらない恍惚とした感覚に襲われてぼうっとなったことがある。なにが起こったのかと当時の私に訊いても、おそらくまともには答えられなかっただろう。そのくらい未知の体験だった——「私」という存在が感じられないくらいに薄れて、自分自身という殻から解放されて楽になるような気がして、その不可思議な多幸感に身を委ねるとますます「私」は真っ白になっていき、その空白にはやく新しい言葉を流し入れたくて心がおどる。ごく幼いころに浮き輪につかまって海に入ったときのような心もとなさを覚えながら、思う——「私」という存在がもう一度生まれていくみたいだ。いや、思う、というよりは感覚的なもので、そういう心地がした、というのに近い。この時期、それから幾度かそんな体験をした。」(p.9-10)

もう一つ、中日新聞の記事

<大波小波> アイヌ語を学ぶということ
2020年12月8日 16時00分 (12月8日 16時00分更新) より

 「かつて詩人金時鐘(キムシジョン)は兵庫県立湊川高校で、朝鮮語を正課として教えた。日本人の生徒たちは最初当惑した。なんでやるねん。英語と違い、直接に実益に結び付かない外国語を学ぶ意味がわからなかったからである。金教諭は答えた。「再度、『朝鮮語』をはずかしめる側の『日本人』に、君達を入れてはならなかったのだ」
 生徒たちは納得し、学習を開始した。言語を取得とは他者の言葉を学ぶことであり、つまりは他者性という観念を学ぶことなのだ。」https://www.chunichi.co.jp/article/166959?fbclid=IwAR3aJCMQIlisyhe-Om0wY06TYWytZc3hjU3lccTZtW3At_ytSGS7chpvvTs

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