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『絶滅へようこそ』を読んで。

どうも、桜井です。

稲垣諭さんの「絶滅へようこそ」を読んで感じたことをnoteにまとめていきたいと思います。


人間の離れ業

そもそも人間は、これまでどの生物種も行うことのなかった離れ業をやってのけようとしています。それは以下の考え方の発明と実行であり、とても驚くべきことです。

①人を殺さない、つまり戦争を含めた暴力を振るわず、残酷さを減らし、その根絶を唱えること(平和主義)

②動物を殺さない、つまり生きるために他の動物を食べること(肉食)をやめようと決意すること(ヴィーガニズム)

(中略)

③人類は自らの種の絶滅を思考し、その準備ができること

ロシア・ウクライナ問題前の執筆だったと思うので、①については信憑性が疑わしくなってしまっていると思いますが・・・。

本来、人類は平和を唱え、生きるために動物を殺めないと決意実行することができる生物だと思っています。稲垣さんはさらに、「人類は自らの種の絶滅を思考し、その準備ができること」を生物固有の特性だと書かれています。

一方で、人類の歴史はたかだか20〜40万年ほどであり、恐竜が生きていたとされる1億年ほどには遠く及ばないにもかかわらず、地球上の主役のような大きな顔をしていることに疑問を投げかけています。

つまり、人類は永続的に続く前提で環境問題や格差問題を語るだけでなく、人類が絶滅する前提で同様の問題を語ることで、また違った示唆ができるのではないか、ということだと解釈しました。

私自身、人類が滅びるかどうかはよくわかりませんが、「人類は地球上では主役である」という前提は一度取っ払って議論することはとてもおもしろいなぁと感じました。

少し道は逸れますが、日食なつこさんの'ヒューマン'では、「三角の頂点にて虫の息のヒューマン」と歌っているように、人間は生物種の頂点にいるにもかかわらず大変不安定な生き物である、ということをうまく表しているように思います。


機械と欲望

ハンバーガーのチェーン展開をしている「モスバーガー」が、あるときから機械によるセルフレジの導入を決めたニュースが流れました。もともとは人件費の抑制と試みられたことなのですが、それだけではなく、先行導入した台湾において客単価が15パーセントも増えるという驚きの結果になったからでした。

どうしてこんなことが起きたのか。

どうやらセルフレジを導入することで主食とは別のデザート等の商品が余計に購入されたようです。

〜中略〜

機械には人間の欲望をそのまま認め、解放してくれるやさしさがあります。まだまだ融通は利かないし、気もそこまで回せない。事故も起こす。でも彼らは、淡々と着実に自分ができることだけをこなしていく。

マーケティングにおいて「人は本音を語ることができない」はインサイトを考える上での重要な前提条件ですが、本書では「機械なら人は素直になれる(のかもしれない)」という仮説をたてています。

機械なら欲望のままに行動しても怒られない・蔑まれない・後ろ指を指されないなどの思考を持っているのかもしれません。セルフレジだけなく、タブレットでの注文やECにおいても同じようなことが言えるのではないでしょうか。

となると、この先「機械なら自分の過ちや欲望のままの姿を許してくれる」といった思考を持つ人が増え、機械に対して懺悔したり、本音を吐露したりするような世界線があるのかもしれません。

一種の宗教的な存在としての「機械」という未来もまた、人類が滅びるプロセスの中に組み込まれていそうだなぁと思いました。


サブカルは死へのトレーニング

モンテーニュがいうように、僕たちはいつも「死」を身体になじませるエクササイズをしているのかもしれません。

これも興味深いことですが、実際にホラー映画などを普段から好んで見ている人ほど、コロナ・ウイルスのパンデミックに落ち込んだり、不眠になることが少なかったようです。サブカルチャー的な作品であっても、死のトレーニングが行われているようで、それが心の健康にさえなるのです。

私自身、気が重くなるような映画やアニメを好んでみる習性があり、このインサイトって何なんだろうなぁと思っていたのですが、モンテーニュ的に言えば、「死ぬ準備をしている」ということだと理解しました。

(横道を逸れますが、ちょっと前に見たマザーはやばかった・・・)

もっとカジュアルにいうと、普段から気を重くするトレーニングをしていると、有事の際(ショッキングはできごと)のメンタルの落ち込みを意図的にコントロールすることができる、とも言えるかもしれません。

また、広義の意味でメンタルブロックが強い人ほどこのような傾向があるのかもな、とも思いました(もしくはメンタルが弱い人の予防線として)。

でもおもしろいことに、トレーニングしている本人からしてみたら心身は至って健全・健康であり、むしろそうであるからこそあえて自分を落ち込ませる、というとても複雑な心理状態であるとも感じました。


神のテンプレート

では、何が神には必要なのでしょうか。

心理学者のトマス・スワンは、この問題に実験を行うことで着手しました。人々が、誰か、あるいは、何かを神とみなすには、「物理学」や「生物学」に反することよりも、「心理学」に端的に反するところが必要だということが分かりました。

つまり人々の心を読んだり、すべてを予言し、見通す能力、他の人間の意図をコントロールし、操作するような力をもつものに、人は「神らしさ」を感じてしまうのです。必要なのは、過剰な知的さ(の装い)です。

この部分はとてもハッとしたのでツイートもしたのですが、確かに物理学や生物学に反するキャラクターは「ヒーロー・ヒール」と訳されることが多いように思います(ルフィや悟空などの少年漫画の主人公的な人たち)。

むしろ捉えどころがない不気味な存在なのに真理を知る人は崇められやすい。稲垣さんは「過剰な知的さ(の装い)」とも表現していて、必ずしも本当に真理を知っている必要もないのかもしれないのかな、と思いました。

むしろすべてを知っていそうで、実は何も知らない存在(心がないとされているもの)、すなわち、「機械や自然には神は宿っている」と考えてしまえばかえって心が楽になる人もたくさんいるのかもしれません。


苦しみの根源は「ヒマ」だから

このとき何が問題になっているかというと、ただ単に「暇だ」ということです。

眠りすぎたことが問題なのではなく、長く眠れる時間がとれるほど暇な(予定がない)ことが問題なのです。

どういうことでしょうか。そもそも動物たちは、暇だと感じることがありません。道端で陽を浴びながら気持ちよさそうに寝ているネコがいます。彼らは寝たいときに寝て、活動したいときにそうしています。そうした生き方のなかには「暇」という現象はおそらくありません。

人間が負の感情(怒り・悲しみ・憎しみなど)になっているときは多くの場合「ヒマだから」というのは私自身も元から感じていました。

私自身もそうですし、過去、私に向けられてきた負の感情を持つ多くの人はたくさんの時間を持て余していたように思います。

さらに稲垣さんは暇になってしまうメカニズムについて以下のように触れています。

こうした事例から分かるのは、「暇」という経験は、社会制度が完備し、部屋や椅子、ベッド、種々の道具や機械といった多数のテクノロジーの産物に取り囲まれて初めてでき上がるものです。暇だから気晴らしの道具や機械が必要になるのではありません。その逆です。彼ら道具や機械たちに守られているから人間は暇になれるのです。

〜中略〜

暇というのは、安全性の確保された場所で、なおかつ社会から切り離されているという恐怖によって孤立を感じる経験です。それは本来とても贅沢で、人間に固有な経験なのです。

一言で言うと、「ヒマな人たち」というのは、彼ら・彼女らの役割がテクノジローの産物に置き換えられてしまったということなのではないでしょうか。

もう用無しになってしまったので、やることがなくなってしまったので仕方なく人を恨んでしまう、といった感じです。

その結果どんなことが起きるか?というと、

  • デジタル化・DXを推進しようとしたら急に無駄な仕事を増やす

  • 他人のスキャンダルに野次馬のように群がってくる

  • 家庭の話に顔を突っ込んできて無益なアドバイスをしたがる

などの具体的行動をとるようになると思われます。


倫理観を保つための暴力性

人類はある段階から、反応的攻撃性の過剰な個体を計画的攻撃性によって処罰する集団のテクノロジーを身に着けたということです。もっと正確にいえば、主に人類では男性がこれを身に着けたのです。

つまり計画的攻撃性はいつからか、人間集団に自己適応されるようになってしまったのです。この処刑仮説が意味するのは、現代の僕たちも大切にしている「平等さ」や「公平さ」という倫理的で道徳的な、それを守らない人間の「暴力的な排除」によって命懸けで獲得されてきたものだということです。

ここでの反応的攻撃性とは「ついカッとなって行動する意味での攻撃」であり、計画的攻撃性は「前もって準備をして行動する意味での攻撃」と定義されています。

ついカッとなって攻撃するような人を未然に防ぐために計画的な攻撃性(代表的なのは死刑などの法律、またはメディア・報道を通じた社会的な抹殺)がある、という考え方です。

これは昨今議論される「多様性(Diversity)」にも通ずる話だなぁと感じていて、「多様性を認めるならば、“多様性など認めない”という考えも多様性の中に含むべきだ」といったものに似ています。

多様性の議論では、「いや“多様性など認めない”という考えは多様性ではない」という見方が一般的だと思いますが、結局どこまで寛容的になるのか?という議論に帰結しそうな気がします。

イエスキリストのようにすべてを受け入れるような思想なのか、部分的な受け入れなのか、ある条件付きの狭義の受け入れなのか、これらを明確にしておかないとあとで結構揉めるよ、ということではないかと思います。

ただひとつ言えるのは倫理観(または多様性)を保つには高い攻撃性をはらんでいる、ということです。場合によっては排除・排他的な思想を持っていることを自覚して倫理や多様性の議論をしなければならない、とも言えるのかもしれません。


人が望む「セラピー的自然」

ヨーロッパには、人の手が入っていない原生林は1パーセント以下しかないこともわかっています。黒い森で有名なドイツも自然は豊かですが、原生林はほぼ存在せず、すべてが人間による植林・人工林です。

〜中略〜

和歌山にある世界遺産に登録された熊野古道には、太鼓の精霊が住むような雰囲気のある杉の巨木が立ち並びます。ジブリの世界に迷い込んだようです。しかしこれら巨木も数百年以上前からつづく、人の手による植林の技術による産物です。その比率は6割から7割とも言われています。

よくアーバンな暮らしをしている人ほど、「森林浴したい」「自然に触れていたい」などと、concrete jungleからの脱出よろしく、自然の多い場所へ出かけていきます。昨今のキャンプ市場の盛り上がりもコロナ禍もあり盛り上がっています。

しかし実際、世界には原生林はほとんど残っておらず、私たちが「自然」と定義されていたものは人の手がふんだんに入ったセラピー的(人工的)自然でしかない、ということを示唆しています。

さらに本書では昨今の地球環境問題における議論と、このセラピー的自然を結びつけて以下のような議論を展開されています。

そもそも「地球環境問題」というのは、正しい名称ではありません。最近の気候変動は、地球にとっては特に問題ではないからです。それは、人間の生存にとってのセラピー的自然が危うくなるという「人間環境問題」に他ならないからです。

そもそも仮に人類が絶滅し、すべての生物種が滅んだとしても、あるいは、現存する生物種が生存できないほどの放射性物質によって地球表面が汚染されたとしても、地球を含む太陽系や銀河系には何の問題もありません。相変わらず、地球は太陽の周りを周回しつづけることでしょう。地球という自然にとって、そのごく表面で営まれている「生命圏」は、皮膚表面に積もるチリのようなものだからです。

地球環境によくないとされている行為・行動は地球を含む太陽系や銀河系には何の問題はなく、むしろ人類にとってセラピー的自然が脅かされる危険性があるだけである、という考え方です。

もちろんゴミを廃棄したり、迷惑行為をすることはよくないことだと思います。

ですが私自身、昨今の環境問題で最も引っかかるのは「地球にとっていいこと」ではなく、「人間が生き延びるために都合の良い地球環境を整えること」という思想がどこか欺瞞のように散りばめられていることにありました(それをまさに言ってくれたという感じ)。

さらにそれに便乗し、SDGsバッジを光らせ、およそ環境にいいとは言えないようなスーツや革靴・時計を身にまとい、地方を行脚するようなオジサマ・オバサマ方が暗躍するようなステージまでつくってしまっているのではないかと思います。

それらの思想を否定するつもりはありませんが、自分に都合の良い解釈をしてお金を巻き上げているにもかかわらず、自分たちはさも「地球のため・世の中のために貢献している」というしたり顔を見るのは私の好みではない、というだけの話ですが。


村上春樹のはぐれ官僚的側面

官僚制あるいは官僚的人間は、一般に無慈悲で、非人間的、非人格的です。優しさや真心、情熱といった人間的な感情を持ち合わせていません。それは、国家公務員やエリート官僚という語にまとわりつくイメージでもあります。

それに対して、感情や情念にあふれた実存的で、ときに破滅的な人間を描いてきたのが、近代の純文学、とりわけ「日本的な私小説」でした。漱石や太宰なんかが典型ですね。村上春樹はデヴューの頃から一貫して、そうした日本の純文学的な語り口や主体、テーマとは肌が合わないと主張していました。

〜中略〜

感情をほとんど動かさず、誰に対しても独特なユーモアと距離感で接する主人公「僕」の自分に課す規律や、フィジカルな身体の管理、数字の重用が、とても官僚的である気がしてこないでしょうか。都市的かつ官僚的という二つの形容が、主人公「僕」と密接につながっているのです。

私自身も純文学を好んで読んでいるのですが、純文学とは大抵の場合、破滅的なストーリーが多く、自己矛盾した心理描写を私小説にして売り出すという類のものが多いように思います。

一方で村上春樹氏の小説に出てくる主人公はサイボーグのように規則正しい生活を送り、都市部でささやかながらも自立(自律)した生活を送っています。

(大抵のストーリーはジムに通ったりランニングをして、熱いシャワーを浴びて、紀伊國屋で買った食材でサンドイッチかスパゲッティをつくって、レコードを聴きながら読書をしてウイスキーを飲んで女性と寝る、というもの)

極めて無慈悲で、非人間的、非人格的なライフスタイルなのですが、ただおかしな点があるとしたら、そんな生活を送っているにもかかわらず、フリーランスだったり小さな会社に属していたりと、社会から少し離れた場所に身を置いている、ということです。

これだけ規則正しい生活を送るのなら公務員や大企業サラリーマンでもおかしくはないのですが、主人公はどこにも属していません。しかも田舎に暮らす訳ではなく、都市部にひっそりと暮らしている。

どこか機械的なのですが、なぜか魅力的に描かれ、かつそれが世界中で支持を得ているところに、人間の機械化への憧れ・機械になりたい欲求が垣間見えている気がします。

AI・デジタル化に伴い、人間は「人間らしくいたい」と思う一方で、モスバーガーのセルフレジの事例や神の条件は心理性に反することなどを鑑みると、「機械化(心がないもの)も悪くないな」「機械(心がないもの)になら本音を打ち明けられそうだな」と思っているのではないでしょうか。

逆説的ですがとてもおもしろい視点をたくさんもらえた本でした。最後までお読みいただき、ありがとうございました。



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