『絶滅へようこそ』を読んで。
どうも、桜井です。
稲垣諭さんの「絶滅へようこそ」を読んで感じたことをnoteにまとめていきたいと思います。
人間の離れ業
ロシア・ウクライナ問題前の執筆だったと思うので、①については信憑性が疑わしくなってしまっていると思いますが・・・。
本来、人類は平和を唱え、生きるために動物を殺めないと決意実行することができる生物だと思っています。稲垣さんはさらに、「人類は自らの種の絶滅を思考し、その準備ができること」を生物固有の特性だと書かれています。
一方で、人類の歴史はたかだか20〜40万年ほどであり、恐竜が生きていたとされる1億年ほどには遠く及ばないにもかかわらず、地球上の主役のような大きな顔をしていることに疑問を投げかけています。
つまり、人類は永続的に続く前提で環境問題や格差問題を語るだけでなく、人類が絶滅する前提で同様の問題を語ることで、また違った示唆ができるのではないか、ということだと解釈しました。
私自身、人類が滅びるかどうかはよくわかりませんが、「人類は地球上では主役である」という前提は一度取っ払って議論することはとてもおもしろいなぁと感じました。
少し道は逸れますが、日食なつこさんの'ヒューマン'では、「三角の頂点にて虫の息のヒューマン」と歌っているように、人間は生物種の頂点にいるにもかかわらず大変不安定な生き物である、ということをうまく表しているように思います。
機械と欲望
マーケティングにおいて「人は本音を語ることができない」はインサイトを考える上での重要な前提条件ですが、本書では「機械なら人は素直になれる(のかもしれない)」という仮説をたてています。
機械なら欲望のままに行動しても怒られない・蔑まれない・後ろ指を指されないなどの思考を持っているのかもしれません。セルフレジだけなく、タブレットでの注文やECにおいても同じようなことが言えるのではないでしょうか。
となると、この先「機械なら自分の過ちや欲望のままの姿を許してくれる」といった思考を持つ人が増え、機械に対して懺悔したり、本音を吐露したりするような世界線があるのかもしれません。
一種の宗教的な存在としての「機械」という未来もまた、人類が滅びるプロセスの中に組み込まれていそうだなぁと思いました。
サブカルは死へのトレーニング
私自身、気が重くなるような映画やアニメを好んでみる習性があり、このインサイトって何なんだろうなぁと思っていたのですが、モンテーニュ的に言えば、「死ぬ準備をしている」ということだと理解しました。
(横道を逸れますが、ちょっと前に見たマザーはやばかった・・・)
もっとカジュアルにいうと、普段から気を重くするトレーニングをしていると、有事の際(ショッキングはできごと)のメンタルの落ち込みを意図的にコントロールすることができる、とも言えるかもしれません。
また、広義の意味でメンタルブロックが強い人ほどこのような傾向があるのかもな、とも思いました(もしくはメンタルが弱い人の予防線として)。
でもおもしろいことに、トレーニングしている本人からしてみたら心身は至って健全・健康であり、むしろそうであるからこそあえて自分を落ち込ませる、というとても複雑な心理状態であるとも感じました。
神のテンプレート
この部分はとてもハッとしたのでツイートもしたのですが、確かに物理学や生物学に反するキャラクターは「ヒーロー・ヒール」と訳されることが多いように思います(ルフィや悟空などの少年漫画の主人公的な人たち)。
むしろ捉えどころがない不気味な存在なのに真理を知る人は崇められやすい。稲垣さんは「過剰な知的さ(の装い)」とも表現していて、必ずしも本当に真理を知っている必要もないのかもしれないのかな、と思いました。
むしろすべてを知っていそうで、実は何も知らない存在(心がないとされているもの)、すなわち、「機械や自然には神は宿っている」と考えてしまえばかえって心が楽になる人もたくさんいるのかもしれません。
苦しみの根源は「ヒマ」だから
人間が負の感情(怒り・悲しみ・憎しみなど)になっているときは多くの場合「ヒマだから」というのは私自身も元から感じていました。
私自身もそうですし、過去、私に向けられてきた負の感情を持つ多くの人はたくさんの時間を持て余していたように思います。
さらに稲垣さんは暇になってしまうメカニズムについて以下のように触れています。
一言で言うと、「ヒマな人たち」というのは、彼ら・彼女らの役割がテクノジローの産物に置き換えられてしまったということなのではないでしょうか。
もう用無しになってしまったので、やることがなくなってしまったので仕方なく人を恨んでしまう、といった感じです。
その結果どんなことが起きるか?というと、
デジタル化・DXを推進しようとしたら急に無駄な仕事を増やす
他人のスキャンダルに野次馬のように群がってくる
家庭の話に顔を突っ込んできて無益なアドバイスをしたがる
などの具体的行動をとるようになると思われます。
倫理観を保つための暴力性
ここでの反応的攻撃性とは「ついカッとなって行動する意味での攻撃」であり、計画的攻撃性は「前もって準備をして行動する意味での攻撃」と定義されています。
ついカッとなって攻撃するような人を未然に防ぐために計画的な攻撃性(代表的なのは死刑などの法律、またはメディア・報道を通じた社会的な抹殺)がある、という考え方です。
これは昨今議論される「多様性(Diversity)」にも通ずる話だなぁと感じていて、「多様性を認めるならば、“多様性など認めない”という考えも多様性の中に含むべきだ」といったものに似ています。
多様性の議論では、「いや“多様性など認めない”という考えは多様性ではない」という見方が一般的だと思いますが、結局どこまで寛容的になるのか?という議論に帰結しそうな気がします。
イエスキリストのようにすべてを受け入れるような思想なのか、部分的な受け入れなのか、ある条件付きの狭義の受け入れなのか、これらを明確にしておかないとあとで結構揉めるよ、ということではないかと思います。
ただひとつ言えるのは倫理観(または多様性)を保つには高い攻撃性をはらんでいる、ということです。場合によっては排除・排他的な思想を持っていることを自覚して倫理や多様性の議論をしなければならない、とも言えるのかもしれません。
人が望む「セラピー的自然」
よくアーバンな暮らしをしている人ほど、「森林浴したい」「自然に触れていたい」などと、concrete jungleからの脱出よろしく、自然の多い場所へ出かけていきます。昨今のキャンプ市場の盛り上がりもコロナ禍もあり盛り上がっています。
しかし実際、世界には原生林はほとんど残っておらず、私たちが「自然」と定義されていたものは人の手がふんだんに入ったセラピー的(人工的)自然でしかない、ということを示唆しています。
さらに本書では昨今の地球環境問題における議論と、このセラピー的自然を結びつけて以下のような議論を展開されています。
地球環境によくないとされている行為・行動は地球を含む太陽系や銀河系には何の問題はなく、むしろ人類にとってセラピー的自然が脅かされる危険性があるだけである、という考え方です。
もちろんゴミを廃棄したり、迷惑行為をすることはよくないことだと思います。
ですが私自身、昨今の環境問題で最も引っかかるのは「地球にとっていいこと」ではなく、「人間が生き延びるために都合の良い地球環境を整えること」という思想がどこか欺瞞のように散りばめられていることにありました(それをまさに言ってくれたという感じ)。
さらにそれに便乗し、SDGsバッジを光らせ、およそ環境にいいとは言えないようなスーツや革靴・時計を身にまとい、地方を行脚するようなオジサマ・オバサマ方が暗躍するようなステージまでつくってしまっているのではないかと思います。
それらの思想を否定するつもりはありませんが、自分に都合の良い解釈をしてお金を巻き上げているにもかかわらず、自分たちはさも「地球のため・世の中のために貢献している」というしたり顔を見るのは私の好みではない、というだけの話ですが。
村上春樹のはぐれ官僚的側面
私自身も純文学を好んで読んでいるのですが、純文学とは大抵の場合、破滅的なストーリーが多く、自己矛盾した心理描写を私小説にして売り出すという類のものが多いように思います。
一方で村上春樹氏の小説に出てくる主人公はサイボーグのように規則正しい生活を送り、都市部でささやかながらも自立(自律)した生活を送っています。
(大抵のストーリーはジムに通ったりランニングをして、熱いシャワーを浴びて、紀伊國屋で買った食材でサンドイッチかスパゲッティをつくって、レコードを聴きながら読書をしてウイスキーを飲んで女性と寝る、というもの)
極めて無慈悲で、非人間的、非人格的なライフスタイルなのですが、ただおかしな点があるとしたら、そんな生活を送っているにもかかわらず、フリーランスだったり小さな会社に属していたりと、社会から少し離れた場所に身を置いている、ということです。
これだけ規則正しい生活を送るのなら公務員や大企業サラリーマンでもおかしくはないのですが、主人公はどこにも属していません。しかも田舎に暮らす訳ではなく、都市部にひっそりと暮らしている。
どこか機械的なのですが、なぜか魅力的に描かれ、かつそれが世界中で支持を得ているところに、人間の機械化への憧れ・機械になりたい欲求が垣間見えている気がします。
AI・デジタル化に伴い、人間は「人間らしくいたい」と思う一方で、モスバーガーのセルフレジの事例や神の条件は心理性に反することなどを鑑みると、「機械化(心がないもの)も悪くないな」「機械(心がないもの)になら本音を打ち明けられそうだな」と思っているのではないでしょうか。
逆説的ですがとてもおもしろい視点をたくさんもらえた本でした。最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?