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小学校時代の思い出 4        憧れた謎のSさん、そのおかげで楽しくすごせました。

私が生まれた四日市は、湯の山温泉、長島温泉、鈴鹿サーキットなどは、車で30分程度で、スペイン村、伊勢神宮、賢島、なども1時間程度で行けるので、観光には便利なところです。
小学校の5年生の時に、四日市の未来と言うテーマの小学生絵画コンクールで、水彩画で金賞を取り、全校朝礼で校長から贈呈され、すごく恥ずかしかった事を覚えています。
当時、近鉄四日市駅は、両側に踏み切りがあると言うよく見かける地方駅のパターンでした。
それを、商業施設の2階に駅を設置し、新幹線のような未来の列車が行き来して、車は下を通ると言う高架化の四日市駅にしました。そして、後ろの山側は切り開かれて、丸い円盤のような移住区が乱立し、ロープウエイで繋がっていると言う四日市の未来図でした。
数年後にリューアルした近鉄四日市駅は、近鉄百貨店の2階と繋がったところに電車ホームが作られ、線路は高架化され 踏切は無くなっていました。私が描いた四日市未来図にそっくりでした。
たぶん、当時から四日市駅構想は、完成しており、それに合致したので、金賞を与えたと言う事だと思います。
現在では、山側郊外も開拓され、円盤状の建屋ではないですが、新興住宅地があちらこちらに作られて、道路も整備されています。
そのあたりもびっくりするほど、その時に描いた四日市未来図の構想にそっくりだったと思いますが、残念ながら絵は残っておらず、確認はできませんでした。
また、マッチ棒で作った橋も、銀賞をもらった事がありました。私が作った橋は、アンバランスで、良く倒れていましたが、親父がしっかりした橋に作り直してくれて、暫くは、教室のテレビの上に飾られていました。
東京オリンピックを生放送で観た白黒テレビです。
夏休みの宿題の木製ゴミ箱も、最後に親父が手を入れて、佳作を取った事もありました。
親父は、夜にならないと店に行かず、家族団らんのイメージから程遠いですが、器用だったようで、夏休みの宿題には重宝しました。
いっしょに手伝う事はなく、私が作って完成した物に、後で手を入れて数倍完成度を上げてくれると言う形で、私にとっては有難かったです。
親父は、遊んでくれるようなタイプでは無かったですが、昭和の典型的な無口で、大黒柱としても尊敬はしていました。
認知症で一人ぐらしはできなくなり、埼玉に連れて来て、有料老人ホーム病院で息を引き取りますが、何不自由なく穏やかに82年間の人生を過ごせられたと思います。
小学校時代の話に戻します。
学校のテストと同じ問題を出される塾だったので、国語以外は5で、図工も上記のような事もあり、良かったので、神童と呼ばれ、末は博士か大臣かと言われていました。当時は、ほとんどの子が神童と呼ばれた良き時代でした。
当然、中学校に入ってすぐに化けの皮が剥がされ、凡人になります。

子供会の旅行などは、祖母が一緒に行く事が多かったです。
しかし、小学校3年生ぐらいから中学1年生ぐらいまで、お袋と私と謎の男性Sさんとの3名での旅行も結構ありました。
お袋と同年代の30歳代の謎の男性Sさんは、色んな所に連れていってくれるカッコ良いオジサンさんでした。
運転免許もなく、社交的でなく、あまり話さない親父とは正反対で、色んな事を教えてくれて、バイタリティが溢れており、憧れの存在でした。
私の中では、あの加山雄三の若大将とオーバーラップする憧れのSさんでした。
泊りがけの旅行もしており、3人で写っている楽しそうな家族風写真もありました。
今考えれば、変な関係で不倫を疑いますが、写真まで残っていたので不思議です。まあ、親父は、気にしなかったのかも知れません。
Sさんは、高級車のクラウンに乗っており、夏休みには、プール、海、川、などに連れて行ってもらいました。
借金で実家が没収されて、小さなアパートに引っ越す時に、生活必需品以外は処分したと言う事で、当時の写真は残っていません。
写真を見ながら、過去の思い出に浸る事はできませんが、断片的に覚えている事を書き残します。
小学校3年ぐらいだったと思いますが、本格的な海水浴に連れていってくれたのも、Sさんでした。帰りに夫婦岩に寄ったので二見ヶ浦だったと思います。
海岸に面して、エアコンが整備されている大きな建屋があり、そこで休憩したり食事したりできるようになっており、目の前にはきれいに整備された砂浜が広がっており、まるでリゾート地のような有料の海水浴場だったと記憶しています。
海で疲れたら、シャワーで砂を落とせば、その建屋に入れるので、そこで休憩したり食事をしたりできました。
子供には関係無いですが、日焼けが嫌な人にはぴったりで、なんと言っても、海の家とは違い、ちゃんとした料理を運んで来てもらえるので、ゆっくり楽しめました。
お袋は、そこでお酒を飲みながらゆったりと食事を楽しんでいましたが、Sさんは私に付き合って泳ぎを教えてくれました。
お袋が酒を飲んでいる姿を見たのも初めてだったので、砂浜が広がっている海岸線をバックに気持ち良さそうに、ゆったりとしていた姿が思い出されます。
ちなみには、親父は、まったく酒を飲まないので、家での晩酌光景は観た事もありません。
食事をしながら、お酒を飲むと言う習慣はなく、私も家ではお酒を飲みません。ただ、お袋の血筋と思いますが、外で朝まで飲んで二日酔いは日常茶飯事でした。Sさんに、その海水浴場に連れていってもらって、泳げるようになりました。
海水なので、簡単に浮くことができ、その時は、穏やかな波で泳ぎを覚えるにはぴったりでした。
頭から海に投げられて、溺れそうになって手足をバタつかせたら、海面に顔が出て息ができるようになりました。
それを、数回繰り返されると、投げられた瞬間に、海の中で反転して顔が海面に出せられるようになりました。同時に、目も開けるようになり、海底や泡の動きも確認できるようになりました。
当時、ゴーグルは無く乾いてくると結構痛かった記憶はありますが、海の中だと平気でした。
結構荒っぽい方法だったと思うのですが、私はこの方法で人間は水に浮くことを知り泳げるようになりました。
溺れる事によって、水が怖くなるとも聞きますので、万人にはお勧めできないと思います。
その日の内に、マーカーまで浮袋無しで泳げるようになっていました。
疲れて来ると、仰向けになって波に任せていました。目はしょぼしょぼしていましたが、太陽の光がキラキラして、耳に波が当たる音が聞こえて来て、だらーんとした無重力状態で本当に気持ち良かったです。
そのような事で、大人になるまで、浮袋を使った記憶はありませんでした。
ビニールボートは良く乗って、ひっくり返したりして遊んだりはしました。
十数年後に、夏季休暇で、子供達と 伊勢志摩スペイン村エスパニアに行った時に、探しましたが、それらしい海水浴場は見当たらず、普通の海の家がある海水浴場に行きました。
関東とは違い、やはり海水や砂浜は綺麗ですが、波は強かったです。
砂浜も広く、人混みもなくパラソルを立てて、ゆったりと浮き輪を使って楽しめました。
このように、Sさんには、お袋も一緒に、種々の所に連れていってもらいました。
土曜日などは午後から出かけて、少し遊んで、美味しい夕食を食べて帰ってくると言う事も良くありました。
特に、鈴鹿サーキットと長島温泉は良く連れて行ってもらいました。
鈴鹿サーキットは、ホンダが作ったレーシングコースを中心としたゴーカートやプールなどの遊戯施設を併設した1日中楽しめるレジャーランドです。
オープン初期の頃は、今ほど遊戯施設は充実しておらず、レーシングコース中心でした。
Sさんに、レーシングコースで、ホンダS800オープンカーで、隣に載せてもらった記憶は鮮烈です。
爆音で、傾いたコースを突っ走るのは、風も受けて凄く気持ち良かったです。
レーシングコースをスポーツカーで試乗できると言うのが、目玉の一つだったと思います。
遊園地が併設されており、定番の観覧車などアトラクションに加えて、
当時は珍しかったエンジンで動くゴーカートなどの多数の乗り物を楽しめました。
レール上を走る乗り物もありましたが、男の子にとっては、自分で自由に運転できるゴーカートは、病みつきになる楽しさがありました。
サーキットコースをゴーカートで走ると言う目玉のアトラクションがありましたが、サーキット場が広すぎてスピード感が無くつまらなかったです。
ギリギリ2台分の広さの直線、高速カーブ、急カーブ、橋などが設置されているゴーカート専用のコースのアトラクションが大好きでした。
下手だと縁石に乗り超えて動けなくなったりしますが、結構乗っていたので、このコースにおいてはプロ級になっていました。
ホンダのバイクエンジンと思いますが、全部同じなので、体重の軽い子供が有利で速かったです。
特にカーブなどでは、ブレーキングを遅らして、イン側から前の車を無理やり抜くのが大好きでした。コースアウトを防ぐため、道幅が広くなっていますが、抜く事は想定していない広さでした。
それでも、ぶつけながら、無理やり抜いていました。
たぶん、危険行為だったので、暫くすると追い抜き禁止区域が設定されるようになりました。私だけでなく、他にも結構いたのだと思います。
当時は、ヘルメットもシートベルトも無かったので、風を受けながら、大人を抜けるのは凄く楽しかったです。
レースがある時は、見学する人も多く、人で溢れましたが、予選レース前日の練習時は、グランドスタンドにも自由に入れて、練習走行も楽しめました。
メインスタンドで観ると、その音とスピード感は半端なく凄かったです。
また、モトクロスの練習場もあり、目の前をバイクが飛んでいく様は凄かった記憶があります。今ではあんな近くで観る事はできなくなっていると思います。
夏場は、プールもあり、1年中楽しめる総合レジャーセンターでした。
営業初め時のプールは、結構穴場で空いていたと思います。
大人用の深さで子供は居なかったので、ゆったりと楽しめました。
また、水上の乗り物アトラクションが種々あり、特にホバークラフトの形をした乗り物で、水の上から地面に乗り上げる事が出来て楽しかった記憶があります。ただ、めちゃくちゃ煩かったと記憶しています。
また、この鈴鹿サーキットで、アメリカンホットドックとピンボールを覚えたと思います。
当時、アメリカンホットドックは、まだ珍しかったと思いますが、マスタードとケッチャプのプラスティック容器を2本同時に持って、ホットドックに波模様で、均一に掛けてくれる光景には、カッコ良さを覚えました。
アメリカンホッドドックは、大好きになり、一度、ホットケーキミックスで、家で作ってもらった事がありましたが、からしをかけて、鼻につーんとして、すごく辛かった記憶があります。
初めて、からし 所謂 和がらし と マスタード 所謂 洋がらしは別物と言う事を知りました。
最近では、アメリカンホットドックを頼んでも、ディスペントパックで、折って掛けるので、昔のような豪快さが無いのが残念だし、クレープ、チュロス、ケバブ、ハンバーガーなど 洋風ワンハンドフードが増え、食べる機会も減りました。美味しい物が増えたので、仕方無い事と思います。
また、ボードゲームの面白さを初めて知ったのも、Sさんのおかげです。
当時は、数台のピンボールが並んでいて、あの独特とノリの良いバックミュージックとボールが跳ね返る時の機械音を鳴らしながら、大人が楽しんでいました。
Sさんに、子供用の台に乗せてもらい、フリッパーなどの動かし方などピンボールの醍醐味を教えてもらいました。
子供なのでティルトは行えなかった分、フリッターの使い方はうまくなり、フリッパーの先で、ボール軌道を変えて、反対側のフリッパーで拾ったり、打ち返す事ができ、真ん中で落ちる事は回避できるようになっていました。
子供は、好きな物に対する集中力は凄くて、あっと言う間に上達します。
ハイスコアになり、自分の頭文字を入れる事が多かったです。
大人になってからは、先日久しぶりに遊んでみましたが、フリッパーのあの独特の機械感も無く、すぐに、ティルドになってしまい昔のようにうまく行かなかったです。要は集中力が持続できない、すなわち老化現象だと思います。
また、本格的に水泳を教えてくれたのも、Sさんでした。
長島温泉の室内プールには、良く連れていってもらいました。
今では、ジャンボ海水プールが有名ですが、開業当時は、室内温水プールがあり、大きな50mプールがありました。
場所によって水深が違っていましたが、基本大人向けだったと思います。
一番浅いところでも、小学校低学年にとっては、片足でケンケンしないと歩けなかったと思います。
そのようなプールなので、泳ぐしかありません。海水に浮くことは、すでに知っていましたが、プールの真水でも頭を沈めれば、同様に浮く事がわかったので、足が付かなくても平気でした。
クロールから教えてもらいました。普通、平泳ぎですが足かきがうまく行かないので、バタ足のクロールになったと思います。
クロールで、手と連動すれば息継ぎも簡単にできることを教えてもらいました。
バタ足の効果はあまりなく、早くはありませんでしたが、横の20m程度の距離をクロールで泳げるようになり、同時に、逆の背泳も教えてもらい、できるようになりました。
さすがに、潜水はできませんが、普通に泳ぐ事はできるようになりました。
子供だったので、クロールから体を一回転させ、背泳、さらに回してクロールと言う ノーチラス泳ぎと称して遊んでいました。斜めに進むのですが、続けると頭はクラクラしてきて、その感じが宇宙遊泳のようで好きでした。
今では、恥ずかしくてできないです。
ゴーグルはしていなかったですが、目は常に開けていました。海での痛さを経験済みでしたので、まったく平気でした。
当時、この温水プールは、1時間毎の課金制だったので、午後の演芸場で催しが始まるとガラガラになるタイミングがあります。
それを狙って、50mのコースをクロールで往復しました。程よい疲れで、プールを出て長島温泉の大浴場でゆっくりして、大ホールに戻ると言う流れが多かったです。

飲食しながら座って、演芸ステージを観覧できるホールです。
2階席もあり、3000人ぐらいが入れる大ホールです。
スポンジをビニールに覆った四角の座布団と長机があり、座って演芸を観覧しながら飲食できます。やかんに入ったお茶やプラステイックのお茶碗は用意されていました。
床も樹脂製の畳で、溢しても、すぐに拭き取れ、お風呂やプールから出てきて水が垂れても浸み込まないなどの利点がありました。
ただ、夏場は汗をかくとべったり引っ付くし、冬場は冷たいと言う居心地は良い物ではなかったと思います。
午後3時頃までは、正面などの良い場所は、団体さんで予約されていましたが、2階席は団体予約が無いので穴場でした。
初めの頃は、お袋も一緒にプールに行っていましたが、途中からはSさんと二人きりでプールに行く事が多くなり、5年生ぐらいからは、お袋とSさんは、2人で、お風呂に行ったり、飲食したりしてまったりとしていて、私一人でプールに行っていました。プールは別料金だったので、そのお金を持ってプールに入り、その後、おつりでゲームをしたりしました。
土曜の授業を終わった午後に連れてきてもらうと、2時過ぎに到着で、プールで1~2時間ぐらい遊んで、大浴場に入り、少しゲームして、大ホールに戻ってくると4時過ぎで団体さんは、帰って居なくなっていきます。
そこから、そこで飲食する形が多かったと思います。
レストランなどから食事を取る事もできますが、ホールの周りには、甘味処や軽食や中華屋などが、今でいうフードコートみたいに並んでいます。
そこで、好きな物を買って、机で飲食します。
7時頃には、座布団などは全部片づけられてしまいますので、それまでに飲食して楽しみます。私はそこで食べる焼売が大好きでした。
長島温泉全体が、土足厳禁ですので、空いていれば、寝転がったりできます。

Sさんとの不思議な関係は、お袋の家出事件が生じる中学生まで続きます。
お袋、Sさん、私の3名での行動が基本だった思います。
そのような中、Sさんと二人きりで、夕食に行った事があります。カウンターの居酒屋で、関東おでんが美味しく、そして、牛の心臓の刺身が凄く美味でした。ハツと言う言葉を知るまで、ずっとそう呼んでいましたが、今でも牛ハツ刺しを提供してくれるところは、少ないと思います。
ちなみに、実家では、おでんと言うとみそ煮込みおでんで、関東煮は別物と言う感じでしたが、美味しかったです。
食べている最初の1時間ぐらいは、マスターも入れて楽しく会話もしていたと思いますが、なんか急に寂しくなり泣き始めた記憶があります。
お腹が膨れて、眠くなりみんなの会話に入れなくなった孤独感が原因と思います。
車で20分ぐらい離れた場所で、私が泣き始めて、Sさんが困っている表情までしか覚えていません。その後、どうなったかわかりませんが、それがSさんと最後だったような気がします。
お袋の家出との関係も不明です。
そして、数年後に私が大学生になって、自分で車に乗るようになった時に、Sさんに、会っています。
私の車も、玩具店名義でガソリンも必要経費として、契約スタンドで入れていました。その契約スタンドが休みの時に、同系列の本店に入れにいった時に、Sさんが居ました。そのガソリンスタンドチェーンの社長だったようです。
完全に中年太りして、スラリとしてカッコ良かった面影はまったくなく、無残な姿でした。今大学に通っているなど、私のちょっとした近況を話しただけでした。
みんな年を取ると、中年太りになると感じた瞬間でした。
それに対して、親父は、ずんぐりむっくりした猫背の昭和オジサンと言う体系は亡くなるまで変わりませんでした。
お袋も、若作りはしていましたが、最後まで、体系は変わらなかったです。
それに比べて、私は、小学高学年から太り始めて、中学校3年生~高校の時には、身長165cmで、MAX体重は100kgを超えていました。
就職する時も、90kg程度あり、面接時の上司に太り過ぎとからかわれました。会社見学して、飲食時に、種々辛辣な事を言われた記憶がありますが、それが普通の時代でした。今のご時世では、御法度です。
埼玉に就職して初めての一人暮らしになり、先輩と毎晩お酒を飲んでいました。先輩は、タバコをつまみにして飲む人で、ほとんど食べず、私も同じようなった事も幸いして、1年後には、65kgになっていました。
昨年末に、中学、高校、大学の同窓会が、四日市で、立て続けにありました。
痩せ過ぎて誰だか最初わからなかったが、歩き方で初めて分かったとみんなに言われました。
両親とも体系は変わらないのに、私だけ体重変化があるのは、なぜだろうと思い、Sさんが親父と言う妄想もしてみましたが、顔が親父そっくりなので、諦めました。
私の小学校時代を楽しくしてくれたのは、未だに関係がわからないSさんのおかげだと思います。

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