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思い出12 大学時代の学園祭から北海道旅行の思い出2

三重大学では、毎年一度の大学祭が開催され、各学科が様々な催し物を提供します。私が工業化学科の一年生の時、大きな風船をヘリウムで数十個膨らませ、それらを筏のような基体に結び付け、左右にプロペラを取り付けたラジコンで動く飛行船を作りました。そして、それを一般教養棟から工学部まで飛ばすという大胆な計画を立てました。

本体は発泡スチロールでできており、ラジコン本体も軽かったため、ヘリウム風船で浮力を得ていました。しかし、海風や風船の浮力影響に ラジコンのプロペラの推進力が完全に負け、制御不能になってしまいました。最終的には基体から風船が外れ、バラバラになって空中に飛んでいきました。

その出来事は地方新聞にも取り上げられました。写真はあまり良くありませんが、去年の同窓会で見せてもらいました。その当時の無謀な挑戦を思い出し、本当に楽しかったです。

「毎日新聞」では、「とんだ、とんだ!! 新案“飛行いかだ”」と題した記事が、「中日新聞」では、「話題の飛行船は失敗 鮮やかに大学祭開催」と題した記事が掲載されました。

本当に、風船が天高く飛んでいき、学園祭にぴったりだったと思います。
確か、風船は私がおもちゃ屋で仕入れた市販のもので、様々な色があり、飛んで行く様は、綺麗だったと思います。

各自、午後3時ごろまでは催し物の準備や対応で忙しく、他のものを見学する時間はありませんでした。各科対抗か有志かは覚えていませんが、手作りの神輿で大学から市内を爆走していたように思います。

夕方になると、学際の打ち上げが海岸で始まり、酒盛りが始まりました。当時は、大学生は年齢や性別に関わらず、お酒やたばこは解禁という暗黙のルールがありました。

私は高校1年の時に海外で飲酒の経験があり、無茶な飲み方はしませんでしたが、それでも海岸で酔いを醒まして寝ていたと思います。しかし、トリスレッドの一気飲みで倒れる学生が続出し、救急車が走り回っていたと思います。

高校時代からの友人であるSI君も倒れていましたが、救急車は呼びませんでしたが、急性アルコール中毒になったようでした。それが原因かは、不明ですが、彼は数か月間入院し、留年することになります。
そのため、私が3年生になって忙しくなった時に、私の代わりに女子中学生の家庭教師を引き継いでもらう事になります。

当時は自分の責任であり、大学へのクレームもありませんでした。今とは違う、生きやすい時代だったと思います。

2年生までの一般教養科目では、出席が重要視され、出席日数が記録される一方で、代返が横行していました。通常の教室では、出席確認で名前を呼ばれますが、代わりに返事をして出席していた事にすると言うものです。一人で3名までは見つからず代返が可能でした。教授によっては、気づいていても知らないふりをすることが多かったです。

一般教養の授業は多くが外部からの講師で、自著を教科書に指定して学生に購入させることが主な目的であったように感じられます。また、階段教室などの大きな教室では、色紙が配られ、そこに名前を記入して提出することが一般的でした。色は授業ごとに異なっていましたが、全ての色に対応できるように名前を記入した出席用紙が用意されており、代わりに提出することもありました。

私のように授業に出たくないし、勉強もしたくないという連中がグループを組み、順番にお互いに代返を行い、授業をサボる事は良くありました。ただし、試験前の授業では試験内容が教えられるため、ほぼ全員が出席し、急にいっぱいになるので、先生も了解していたと思います。

その際、常に出席している人からノートのコピーをもらう事も多く、場合によっては、コピーには試験に出る部分がマークされたものも出回っていました。また、ある授業では数年間同じ問題が出題され、試験問題が事前に出回っており、解答を記入し、試験時に入れ替えるだけで済むこともありました。
そのような方法で、1年間アルプスに登山していて大学に来なかったSA君は、優で合格になっていたこともありました。
実際には、ちゃんと留年して、試験を受けて卒業して、偉くなっています。
同級生が40人しかいないので、同じ業界で会うことはありませんが、30年後に仕事上でSA君と再会することになります。
教養課程から真面目に授業に出て、修士まで進んだ友人らは、やはり業界では名を知られる一人者になり、今でも一線で活躍しています。
一方、代返を利用して、麻雀やパチンコで遊び惚けていた我々のグループは、楽しい学生時代であったが、定年してそれなりの人生で終わっているような気がします。この遊びグループでは、よく旅行にも行きました。
この遊びグループでは、よく旅行にも出かけました。
ユースホステルの会員であれば、食事付きで約3000円で泊まれました。通常の宿泊施設の半額未満だったと思います。
一人部屋はほとんどなく、かなりの確率で見知らぬ人と相部屋になり、夕食後に宿泊客全員が集まりミーティングという名の親睦会が1時間程度行われます。
ユースホステル自体が、若い人々が色々な場所を訪れ、多様な人々と出会うために安価で提供するという若者向け宿泊施設だったと思います。
親睦を深めるため、お互いの自己紹介から始まり、テーマを決めて談話したり、合唱したりします。その方法は、ホステルのオーナーであるペアレンツ次第です。
これらを我慢できるならば、学生などの若者には人気で、ユースホステル専用の雑誌も発行されていました。今では、相部屋や親睦会は受け入れられないのかもしれませんが、その存在はあまり聞かれなくなりました。
当時は大流行で、観光地での土曜日の宿泊は数か月前からの予約が必須でした。
土曜日が休みではない時代でした。
そこで、代返制度を利用し、授業には出ずに週の中日や日曜日などに、数人で泊まり掛けの旅行が多かったです。特定のメンバーではありませんでしたが、私のように自家用車を持っている人が重宝されました。

種々行った中で、2年生の夏休みに、O君とM-2君と3人で行った2週間の北海道旅行が一番の思い出です。

O君は、すらっとしていて、結構カッコ良く、頼りがいのあるお兄さんイメージで、そのO君の車を利用しました。M-2君は、同じ苗字の人が2人いて、第2外国語であるドイツ語授業で、先生が「アイン(1)」、「ツバイ(2)」と呼んだことから、工業化学科の中では苗字なしで「アイン」、「ツバイ」で定着しました。

北海道を全制覇しようという考えで、道内移動には車が必須で、フェリーでの移動を決定しました。3人ともが開いている期間で、7月末から8月初旬の2週間と決まったので、行き帰りのフェリーの予約だけは入れ、日時は確定して抜けられなくしました。

当時は、ネット予約がなく、直接フェリー会社に電話して仮予約し、詳細な申込書および旅費を現金書留で送って予約成立となりました。往復で1万円ぐらいだったと思います。

地図を見ながら、完全に1周できる幹線道路はないことがわかりましたが、一日中走れば、8日間で制覇できそうということはわかりました。しかし、折角の北海道なので観光もしたいという話になり、せめて縦断だけはしようということで決まりました。

移動時間が正確にわからないので、知床と阿寒湖のユースホステルだけを予約して、残りの宿泊は基本的にはテントか車中泊にしました。
下記がその予定で、4日から8日までの実際は大幅に変わります。

1日: 大学からO君の車で3時間、夜10時に敦賀を出発してフェリーで1泊目。

2日: 夕方7時頃に小樽に着き、その後車で積丹日本海側海岸へ移動してテント泊2泊目。

3日: 車で移動し、函館山に登って車中泊3泊目。

4日: 朝日を見て函館観光後、室蘭の海岸線でテント泊4泊目。
   実際→函館山頂上から夜景と花火を楽しみ、大沼近辺でテント泊4泊目。

5日: ニセコや富良野を観光しつつテント泊5泊目。
   実際→女子2人と函館観光を再びし、五稜郭や大沼の旅館で泊まる5泊目。

6日: 旭川や大沼観光後、ホテルが無ければどこかでテント泊6泊目。
   実際→女子2人と大沼観光を行い、大沼旅館で泊まる6泊目。

7日: 北側海岸線でテント泊7泊目。
   実際→洞爺湖で女子2人と分かれ、釧路でテント泊7泊目。

8日: 網走や阿寒湖を観光し、阿寒湖のユースホステルで泊まる8泊目。

9日: 阿寒湖や知床を観光し、知床のユースホステルで泊まる9泊目。

10日: 大雪山や支笏湖を観光後、支笏湖でテント泊10泊目。

11日: 支笏湖を観光し、札幌で泊まる予約の素泊まりホテルで泊まる11泊目。

12日: オードリ公園や札幌市内を観光後、札幌の予約の素泊まりホテルで泊まる12泊目。

13日: 小樽フェリー乗り場に向かい、夜10時に小樽を出発してフェリーで泊まる13泊目。

14日: 午後9時に敦賀に着き、夜中に私の家で泊まる14泊目。

15日: 解散。

行きのフェリーは、海も静かで揺れもなく、時間通りに到着しました。
フェリーの中には、食堂は当然ですが、風呂、遊技場、麻雀室なども完備され、私たちは、当然一番安い二段ベッドの部屋を利用しました。
時間を潰すために、3人で麻雀をしていると、見知らぬ893らしき人がピンピンレートで、一緒に麻雀をしてくれないかと言われましたが、丁重にお断りして、切り上げて逃げてきました。翌日、麻雀室を覗いてみたら、闘牌伝説アカギの実写版のように、それらしい人たちが、張り詰めた空気を漂わせながら、賭けマージャンを行っていました。
噂には聞いたことがありましたが、フェリーでの高額賭け麻雀を間近で見られました。帰りのフェリーには、そのような人たちはおらず、3人で麻雀を楽しみました。
3人いると、20時間以上の乗船ですが、あっという間だったと思います。積丹では、日本海側の綺麗な海岸線でテントを張り、北海道の朝の清々しさを堪能しました。
函館山で日の出を見て帰る予定でしたが、その夜は函館の花火があり、車の乗り入れ制限があることがわかりました。
出すと戻れないのは明白で、駐車場に置いたまま、ロープウェイで降りて、函館市内を観光しました。
夕方に山頂に戻りましたが、予想通り車は大渋滞でした。
函館山から見る夜景と花火のコラボレーションは最高に美しく、花火終了後、予定の室蘭まで行けず、近くのキャンプ場でテント泊しました。
キャンプ場の近くで朝食を取る時に、観光に来ているという奈良女子短大1年生の女子2人と相席になり、意気投合して、宿泊する大沼の旅館まで乗せてくことになりました。
たまたまその旅館が空いており、2人と同じように2泊することにしました。

翌日(5日目):函館にすでに行ったことは言わずに、再度、函館山に登り五稜郭観光をしました(大沼の旅館1泊目)。
翌日(6日目):大沼でレンタル自転車を借りて、5人で楽しくツーリングしました(大沼の旅館2泊目)。
翌日(7日目):女子2人を洞爺湖に送り、住所や電話番号を交換して、奈良女子短大の学園祭に行くことを約束しました。当時は携帯電話がない時代で家電です。
その後、長距離を移動して釧路まで行き、テント泊しました。
網走刑務所に行き、受刑者が作った木の筆箱を買い、阿寒湖のユースホステルで8泊目、そして、知床のユースホステルで9泊目になります。
両方ともユースホステルですが、観光地ということもあり、ミーティングもなく、普通の民泊のように、ゆったりと過ごすことができました。
”知床では北海道を縦断したぞ!”皆で広大な海に向かって叫び、恥ずかしかったですが、気持ち良かったです。函館から知床までの旅は、縦断と言っても許されると思います。
その後、大雪山で夏場の冬景色を観て、アイヌ民族ミュージアムで木彫り人形を買い、支笏湖でテント泊し、10泊目になります。
翌日には温泉に浸かり、札幌を目指すことになります。
その途中の山道で、煙がモクモクと吹き出しているのを目撃します。後ほど分かったのですが、有珠山の噴火でした。
札幌に夜着くのですが、火山灰が降り注いでおり、車が灰だらけになりましたが、ラッキーなことに夜に雨が降り流してくれました。
札幌で、予約済みの2段ベッドの安価なホテルに泊まりましたが、冷房や扇風機はなく、窓も2重窓で開けることができず、寒冷地仕様のホテルでとにかく暑かったです。
札幌で、30度を超えるのは年間で数日ということですが、その日に当たってしまいました。翌日、札幌観光をして、大通り公園で食べたトウモロコシの甘さに驚き、芯まで吸って堪能しました。今でこそ、どこでも生の甘いトウモロコシは食べられますが、当時は本州では食べられませんでした。
今でも、夏になるとYahoo 北のデリシャスで採れたての生トウモロコシを、嫁いだ子供たちを分も購入して楽しんでいます。孫達も喜んでいます。
札幌で2泊し、小樽からフェリーで帰ることになりました。フェリーは夜出航だったので、時間があり、小樽港に車を置いて、バスでニッカ余市工場見学を行い、タダ酒をたっぷり飲む予定でしたが、つまみもほとんどなく、ストレートで氷もなく、夏場に飲むには不向きだと感じました。私にとっては、キリンのビール工場やサントリーのウィスキー工場に比べて、最悪の工場見学でした。結局、乗船時間がくるまで、小樽市内で飲食をして、帰路につきました。

以上が大学時代の学園祭から北海道旅行の思い出です。

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