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おもちゃ屋の一人息子として生まれた わがまま爺の小学校時代の思い出 2

小学校に上がった時には、祖母の旅館は廃業しており、伊勢湾台風で床下浸水した道路側の建屋は壊して、平屋の離れと駐車場と倉庫に建て替えていました。
小学1~2年生までは、叔父さん夫妻が離れに住んでいて、実家全体の世話は、祖母と叔母さんが行っていました。
叔父さん夫妻が、近くに新居を建てて引っ越しした後、小学校時代は、離れが私の部屋になりました。
両親は、諏訪神社の傍で、玩具店を開いていました。
2階建ての建屋で、1階が店で、2階が倉庫兼休憩所になっていた15坪ぐらいのおもちゃ屋でした。
一階は、数倍大きいベビー用品店と繋がっており、国道1号線の横断歩道から諏訪神社アーケード商店街への通り抜けができ、人の出入りは結構ありました。
積み木、ブリキのおもちゃ、ミニカー、超合金ロボット、リカちゃん人形、人生ゲームなのゲーム類などが所狭し置いてありました。
当時、モーターやゼンマイなどで動くおもちゃは、その場で動かして気にいれば、それをそのまま箱に入れて、包装すると言う流れで、リボンなども無料でした。見本や新品と言う区別はなく、展示されている物を包装して、初期不良は無く、電池もほぼ新品が付いていきます。
そして、季節毎に商品を入れ替えます。
1月は、羽子板・凧・カルタ・人形など、1月後半からは、桃の節句のひな人形、それが終わると5月人形、夏になると浮袋やビーチボールやプールなど、クリスマスではツリーなどと季節毎に、店内は様変わりします。

流通は問屋経由で、毎週納入に来るので、担当の問屋さんとは顔なじみなります。
インターネット販売や大型総合スーパーが台頭する前は、ゲームソフト以外は、百貨店を含めて定価販売でした。
キャラクター製品など古くなった商品の安売りしますが、定価売りが基本で、店で大きな違いはなく、ポイントカード割引や人間関係で売っていた良き時代です。
当時は、メーカー直接ではなく、問屋さん経由での仕入れで、仕入れ掛け率(仕入れ/定価)は問屋さん次第でした。新番組のロボットやグッズなどの売れ筋品は、仕入れ掛け率が0.7と言う悪い物もありました。ダッコちゃん人形や本物のルービックキューブやたまごウォッチなど、手に入らない商品もありました。
ただ、問屋さんと仲良くしておくと、優先して仕入られる場合もあります。
当時は、仕入れ掛け率が0.6前後の定番製品と合わして、大目に仕入れると、掛け率も下げてもらえます。問屋も在庫品を処分できるので、持ちつ持たれつの関係になります。
その組み合わせやどこの問屋さんを使うかが、商売のコツと言うことでした。
小売店でもまとめて仕入れて、それを売った時に利益を得ていくと言う事になります。
売れないとお金が入って来ないので、次の仕入れもできず商売は成り立たなくなります。それで、高利貸しにお金を借りて仕入れると言う悪循環になり、知らない内に借金が膨大に膨らむと言う図式になります。
土地担保さえあれば、いくらでもすぐに仕入れ金を調達できる時代で、多額の借金を抱えての倒産は普通だったと思います。
特に、ゲームソフトは、まとめ買いだと値引きが大きくなるため、多量仕入れしますが、短期販売が勝負になるので、初期に売れないと不良在庫が山のように増え、原価割れの安売り合戦になります。逆にドラクエの初期のように、手に入らないソフトも出てきます。
ゲーム専用小売店が、急に増えて、急激に潰れていったのは、そのような事が原因です。
今では、インターネットで安価で買えるので、小売店は如何に特徴を出すかと言う事になります。
両親はおもちゃ屋を潰しましたが、同じ商店街にあるおもちゃ屋は未だに健在しています。
昨年、同窓会で四日市に行った時に覗いてみましたが、インターネットでも値引きが少ない 昔からあるレゴやリカちゃん人形などの定番玩具、流行りで期間が短いロボット系玩具など、そして、インバウンド向けの、日本独自の人形やカルタやフィギュアモデルなどが 英語併記で置かれていました。
結局は、時流に乗れる商才があれば、小売店でも続ける事ができます。
昔は、諏訪商店街・呉服町アーケード通りに、魚屋さんや肉屋さん、オーダーメイドの洋服や帽子や靴など、職人を抱えた小売店、昔ながらパーラー、着物屋さんなどが在り、朝から主人達が楽しく屯している、人間味溢れる良い商店街でした。
今では、飲食店やネットカフェやゲームセンターやアパレルショップなどに様変わりして、寂しく感じています。

当時は子供も多く、何でも売れてしまうおもちゃ屋にとって、良き昭和時代でした。
1983年ゲーム時代到来による安売り専門店の台頭、大量仕入れによる安売りの郊外大型スーパーやトイザらスなどの大手の進出で、1990年代から販売量が激減し、仕入れの失敗による赤字も生じて、そして遂に2002年に火事で燃えてしまいます。
赤字経営だったため、その抵当として実家も没収され、火災保険も解約しており、大きな借金だけが残ります。その顛末は、またNOTEに書いていきたいと思います。
子供の出生数が多い当時は、3月、5月の節句物の仕入れ掛け率は0.5前後で、金額も張るので、一番の稼ぎ頭になっていました。
当時は、四日市内の出生者リストを市役所に努める知り合いから手に入れて、ダイレクトに広告を送っていました。
人間関係の伝手で何でも手に入る良き時代でした。
節句の段飾りや人形類は、メーカー直接購入が多く、また、古くなることも無いので、種々のタイプのひな人形を多量に仕入れて、実家に建てた倉庫に保管し、それを種々組み合わせて、高級品でありながら安価で売る事を行っていました。
当時は、直接客先に配達し、その場で飾り付けまで行なう事もありました。
お袋が中心で配達飾りつけを行っていましたが、お菓子屋を営んでいた祖母の兄さんが手伝ったりしていました。子供の時に、一緒に飾りつけに行った事もありました。
特に、ひな人形は顔が命ですが、その製法によって価格が大幅に異なってきます。
型に入れて作る石膏やプラスティックの成型品が、百貨店に飾ってある人形では多いですが、練と呼ばれる人形の顔を観てしまうと、明らかに違います。
練は、木の本体に、胡粉をニカワと合わして塗り重ねていきます。そして、目や口を一つずつ手作業で掘って、仕上げに目や口紅を入れて完成になります。
成型ではないので、微妙な柔らかさが滲み出て、観ていて穏やかな気持ちになります。比べると、後戻りできなくなります。
当然、職人による手作業になるので高価になります。
例えば、目立つ内裏様だけは、その高価な練にして、その他は成型品にすると全体のイメージとして高級品になりますが、価格は抑えられます。
また、大きさも内裏様を大きくして、他は少し小さくして場所を取らないようにするなど、小売店ならでは、お客に合わした 種々の組み合わせを行っていました。内裏様は奥になるので、同じところに並べない限り違和感はでません。
また、衣装もメーカーによって作りがまったく違います。袖部分の折り込み具合を確認すれば一目瞭然です。
鎧、兜も節句用は、本物に比べてより鮮明に綺麗に作られています。
兜は、源義経タイプで実際に被れるぐらいの大きな物が好きでした。
自分用の5月人形は無かったですが、子供頃は、友達もいっしょに被って商品で遊んでいました。
ただ、良い物であるほど、保管には細心の注意が必要です。
練は素手で触ると跡が付きやすいので、布手袋をして扱い、顔を柔らかい紙で包んでしまう必要があります。
普通の衣装と同様に防虫剤も必須で、一年に一回は外に出すことをお勧めします。
私は、紺色の藤堂高虎の鎧が好きで、自分の息子用にこれをもらいました。一緒に、こいのぼりも送られてきましたが、さすがに立てるのが面倒で、箱に入ったままです。
子供たちが小さい時は、毎年飾って、防虫剤を入れてきちっと保管していましたが、一番上が小学校を上がる頃から飾る事もなく、25年以上 出す事もなく放置されています。
残っていたとしても、もう虫で食い荒らされているでしょう。
節句人形なんて親の見栄ですが、百貨店や大手総合スーパーだけでなく、種々な専門店を回って、よく観る事をお勧めします。
個人的な見解ですが、節句品だけは、百貨店や大型総合店は、品質の割に高いと感じています。特に人形においては、定価と言う物は意味が無いので、半額などの割引広告は、気を付けた方が良いと思います。
ちなみに長女が生まれた時に、妻の親達が初節句のひな人形を、丸井で購入してしまったのですが、品質の割に高価でびっくりしました。当然、私の方で返品処理をして、実家から送ってもらいました。

諏訪神社の傍にあった玩具店は、朝10時ころから夜8時ごろまで開いていて、水曜日が定休日だったと思います。
正式な店員さんが女性1人でしたが、鉄工場経営の叔父さんの長男のお嫁さんが、祭日や日曜日やクリスマス時や節句時など忙しい時に手伝いに来ていました。
親父は、店員さんが帰る6時頃から店に行き、代わりに、お袋が戻ってくると言う日課でした。
また、親父は先物相場に手を出しており、結構は儲かっていたようですが、一度失敗して大赤字を出し、その穴埋めに、祖母と叔母が住んでいた家を売ったようです。
それからは、地道な株投資だけになっていましたが、ほとんどは玩具店の赤字補填で売ったようで、相続時にはありませんでした。
親父が死んで数年後ですが、所在不明株主支援機構から連絡で、一部所在不明株が残っている事を知り、処理をしてもらう事になりますが、その詳細は後で報告します。
そのような事で、親父は仕入れ管理だけで、玩具店を切り盛りしていたのは、お袋でした。
朝から店を開け、節句時には、配達据え付けも行い、夜遅く帰ってくると言う一日中働いているイメージでした。
商売を行っているので、口も達者で、店が赤字で傾いた頃には、叔父さん達から借金していたようです。
当然、口約束だけで、契約書類も無いので、真実はわかりませんが、お袋が亡くなった後に、一部肩代わりして返す事になります。
ただ、大学卒業して埼玉に就職するまで、何不自由なく、色んな事を経験させ、22年間育ててくれた両親には感謝しています。
何も考えずに、土日休みで一定の給料をもらえる会社員で良かったと思います。

そのような事で、家事は、中学校に上がるころまでは、祖母が行っていました。
祖母にお世話になった話は、NOTE “祖母に育てられたおばあちゃん子でした。”に記載されています。
当時、定番だったそろばん塾に通っていました。
5年生の時には飽きて、そろばん塾に行くと言って、駄菓子屋に入り浸りしていました。駄菓子屋には、当たると景品がもらえる種々のくじがあり、景品を目指して、1時間遊んでは帰っていました。
また、当時、喫茶店にも行った事もありました。
最初は、知らないオジサンと一緒に行って、カウンター席に座って奢ってもらいました。少しびっこを引いていたので、創価学会など宗教法人の勧誘で呼び止められる事は良くあり、たぶん、そのような事と思いますが内容までは覚えていません。
真光会で慣れていたので、知らない大人との飲食も平気でした。
足をブラブラさせて、カウンター椅子で食べたハムサンドは、凄く美味しかったです。3席ぐらいの座席と長いカウンターのある、バー兼用の暗い落ち着いた照明の昔ながら喫茶店で、そろばん塾の時間潰しに、一人でも何回か行きました。
小腹が空いている時は、トーストされたパンにハムを挟んだハムサンドと牛乳で、満腹の時は、ミックスジュースかクリームソーダでした。
500~1000円で小学生にとっては、大きな金額でしたが、月謝の切り崩しと、親父の上着ポケットから、せしめていたお金があり余裕でした。
親父は、夕方に店を閉めに行くのですが、ヘビースモーカーだったのでたばこ代などのお金を上着のポケットに裸で入れていました。
そこから失敬していました。
小学生が行けるような喫茶店ではなかったですが、私しか客がおらず、上客でマスターからは断れたことはなかったです。
たまたま、最初に奢ってもらったオジサンと合って、びっくりされて、小学生が一人で来るところでは無いと言われて、それ以来行かなくなりました。
本当に一人で行けるようになった大学時には、その店は無くなっていた事は覚えています。
そのような事で、数か月は、そろばん塾に行ったように振舞っていました。
どこかでバレたと思うのですが、怒られた記憶がありません。
そろばん塾は、ほとんど役に立たない4級検定までで辞めました。楽しい思い出をありがとうと言いたいです。
中学に上がる時に、英語塾も行きましたが、1ヵ月で辞めました。
集団で受ける塾や習い事は合わないし、勉強も好きでは無かったので、家庭教師をお願いする事になります。
小学校6年生の時に、たわいもないプチ家出をしました。
そのころから、嫁いでいた親父の妹が精神疾患を患い、入院する事になり、祖母はその見舞いや家の購入などもあり、家事などもお袋がするようになっていました。
状況変化が生じて、バタバタしていた時期でした。
数週間前から、学校の図工で使う空マッチ箱を残すように頼んでいたが、捨ててしまっていて、持っていく日の朝、3個のマッチ箱の中を移し替えて準備しました。
また、そのマッチ箱も入れていく袋も気に要らず、わがままを言っていたのですが、無視されて学校に送り出されました。
当時は、集団登校は無かったです。
家を普通に出て学校に向かったのですが、途中なぜか学校に行く気がなくなり、いつもの所を曲がらず、まっすぐ川まで行き、川沿いに1~2時間 上流に登っていきました。
疲れてきたので川沿いの石に座って休んでいたところ、知らないオバサンに声を掛けられ、その人の家に連れられていきました。
名札には、小学校名と名前が書いてあるので、学校には連絡されたと思います。お菓子を食べて、楽しく世間話をしていたと言う記憶です。
暫くすると、学校の先生が迎えにきました。
そのまま、学校の職員室に連れられていきました。
そこには、お袋が居て泣いていました。お袋が泣いている姿を観たのは、この時だけだと思います。その姿を見て、悪い事をしたと言うことを初めて認識し、泣いて心の底から謝りました。
心の底から後悔したのは、この時と、大学での実験ミスで、先輩らに迷惑をかけた時だけと思います。
先生に何で学校に来なかったかをしつこく聞かれて、いつもつるんでいたボス的友人にイジメられていたような適当な事を言ったと思います。
その後も関係は変わっていなかったので、問題なかったと思います。
その日は、途中で食事してそのまま家に帰ったので、3時間のプチ家出でした。

おもちゃ屋の一人息子として生まれたわがまま爺の小学校時代の思い出でした。

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