思い出10 乗り換えてきた車の思い出
三重大学は、近鉄電車で四日市駅から約30分の江戸橋に位置し、工学部は海岸側にあり、徒歩で約15分の場所にあります。
車で行くと、約30分で到着します。当時は校内で車を自由に移動できたので、1年の後半からは車で通学することになります。
受験終了後、自動車学校で免許取得に取り掛かりましたが、そこでもわがままな一面が現れました。当時は、教官の中にはバスなどの運転手を兼ねる方もおり、その中には横柄な態度の教官も多く、場内技能講習がなかなか進まず、何度か挫折を経験しました。
学校には入学後、仮免許を取得するまでの期間が6ヵ月という規定がありました。そのため、お袋が裏から手を回し、同じ教官を指名して1日に2回の場内技能講習を受けることができるようになりました。
そのおかげで、すぐに仮免許を取得することができました。当時は短期や合宿取得の制度はありませんでしたが、近い様な手法を使って免許を取得したイメージです。
卒業検定までの期限ぎりぎりになりましたが、間に合いました。
免許交付は、運転免許センターに出向き、視力検査や学科試験に合格すれば、数日後に免許が郵送される仕組みでした。当時は即日交付はありませんでした。
私は、少しびっこを引いていたので、その免許センターで、別途ブレーキの適正検査を行なわされました。
教習所ではそのようなことについて聞いたことがなく、呼び出された時は驚きました。
2人の検査官が助手席と後ろに乗り込み、場内で急ブレーキ試験を数回行いました。何度か急ブレーキを踏むと、タイヤがキーキーと軋む音が響き、周囲の注目を浴びて恥ずかしかったですが、検査に合格し、無事に普通免許を取得することができました。
免許が8月に交付され、車の購入を検討することになりました。初めての車ということで、中古車が適しているだろうという結論に至りました。
この時、中学や高校時代にお世話になった家庭教師の方とは、大学の選択など様々な相談に乗ってもらうお兄さんのような関係になっていました。
また、家庭教師の友人が市民ラリーを行っていることもあり、車に詳しく、車の購入についても相談に乗ってもらいました。
実際に、家庭教師の誘いで市民ラリーに参加したことがあります。
ロールバーは付いていましたが、その他はノーマルのマークⅡクーペでした。
家庭教師が助手席でナビを行い、私は特別に後ろに乗せてもらいました。
どの車もロールバーは、入っていましたが、足回りを強化して車高を上げた車がほとんどでした。また、シートをラリー仕様に変えて、4点シートベルトと言う車もありました。
市民ラリーですので、地図に合わして、公道を走り、予め設けられた区間タイムと実際に走行したタイム差の合計を争う公道ラリーです。
家庭教師の誘いで市民ラリーに参加したことがあります。その際、私たちの車はロールバーが付いていましたが、その他はノーマルのマークⅡクーペでした。家庭教師が助手席でナビを行い、私は特別に後ろに乗せてもらいました。他の参加していた車は、ほとんどがロールバーを付け、さらに足回りを強化して車高を上げたものでした。また、ラリー仕様にシートを変更し、4点シートベルトを装備している車もありました。
市民ラリーは公道で行われ、地図に合わせて予め設定された区間でタイムを競うイベントです。参加者は予め設けられた区間タイムと実際に走行したタイムの差を競います。
市民ラリーでは、事前に8つの区間が設定され、各区間で設定された制限速度内でのタイムが競われます。過度なスピードで走行すると、設定されたタイムとの差が広がるため、交通ルールを守ることが重要です。地図には各道路の制限速度と距離が記載されており、道路名や地名は一切なく、交差点の記載のみです。そのため、道に迷わないためにはナビゲーションが重要です。
現在はナビゲーション装置が普及しているため、どのように変わっているかはわかりませんが、市民ラリーはスピード競争ではなく、和気あいあいとして楽しむことができる催しでした。
そして、スペシャルステージ(SS)という、山道を全開でタイムアタックする時間勝負もありました。
通常は入れない特別許可を得た山道を使用していたと思います。その道は舗装されておらず、凸凹の道で、後部座席のシートベルトをしていないと頭がぶつかるほどでした。
また、広場で、タイヤ交換の速さを競う競技も行われます。
広場を一周回って、ジャッキアップして、タイヤを一度外して、手前に寝かせておき、再度取り付けて一周して、ゴールする時間を競うレースでした。
この時に、初めて十字レンチを見ました。くるくると回すのがカッコ良く、憧れました。
車を買った時に、十字レンチも購入しましたが、一度も使わなかったと思います。
各レースの合計点を合算して、順位を付けて表彰されるという市民ラリーでした。その順位発表と表彰は、東海地方では有名な「レストランあさくま」で行われました。
実際の合計点は、各レースの掛け率をうまく調整して、初心者でも上位で表彰されるようなシステムになっていました。
皆が喜べるほのぼのとした市民ラリーでした。
確かに、現代では様々な規制があり、スポンサーがついた許可を得たラリー以外は存在しないと思います。これも昭和の良き時代だったと思います。
最近では、実態に即していないAV新法、世界から遅れている入国審査など、政治家の点数稼ぎで、発展を停滞させる規制が作られています。
住みづらくなっている日本の将来に憂いを感じている今日この頃です。
車の購入の話に戻しますが、家庭教師からは、運転しやすく、若者向けであるため、定番のカローラかサニーが良いだろうと勧められました。
最終的に、価格も考慮して、中古車の紺色のサニー2ドアクーペエクセレント1400ccのツインキャブが初めての車となりました。
改造は行いませんでしたが、車の外側にシールを貼ったり、アルミホイル付きの太めのタイヤに変えたり、アームレストやムートンのシートカバーを取り付けたりと、当時の流行を取り入れたアレンジを楽しんでいました。
初めて家の駐車場に入れる時にぶつけています。
家の前の道は、一方通行で、バックで入れる事になりますが、道幅が狭く(当時の感覚)前方に当たらないように、駐車場に入れる角度が甘くなり、斜めに入っていきました。
一度、切り返せば済むのですが、なぜか初心者らしくそのままバックします。ハッチバックであり、当然バックモニターも無いので、壁から出ていたガスメーターにぶつけました。
車の方は何ともなかったですが、メーターが曲がり、ガス臭が漂ってきました。ストップ栓が見当たらず、ガス屋が来るまでは、気が気ではなかったです。
初めて家の駐車場に入れる際に、ぶつけてしまいました。家の前の道は一方通行で、バックで入れることになりますが、道幅が狭く感じられ、前方が当たらないようにしようとして、斜めに入ってしまいました。一度切り返せば済むところを、そのままバックし続け、壁から出ていたガスメーターにぶつけてしまいました。バックモニターは当然なく、ハッチバックの車であるため、見づらさも要因でした。
車には軽い傷がついただけですが、ガスメーターが曲がり、ガス臭が漂ってきました。ストップ栓が見当たらず、ガス業者が来るまで、気が気ではありませんでした。
外で起きたため、すぐに拡散してしまいましたが、安全面では大丈夫だと思います。ただ、ガスに添加されているメルカプタン臭が漂い、臭かったです。
この出来事で、駐車場に入れるタイミングやバックする感覚はある程度掴めました。一度ぶつけると覚えるということも実感しました。最近は、バックモニターに頼りがちです。
初めて車でガソリンを入れに行った時に、謎のSさん(小学校時代の思い出4)と遭遇し、幻滅しました。
車両代や保険代などの費用は、すべて親が出してくれましたが、必要経費として落とすために、おもちゃ屋名義だったと、想像しています。
ちなみに、赤字経営で火の車になって、店の借金を肩代わりする40歳くらいまで、私の車はおもちゃ屋名義で、保険も会社名義でした。
40歳の時、自分で初めて自動車保険に入りましたが、等級割引がない状態で、かなり高額でした。また、一度事故も起こしており、そのため自動車保険の料金は高いままです。
その中古車のサニーには、大学1年夏から就職2年目の5年間乗り、新車登録から8年で買い替えることになりました。
初めての車であるサニーは、1400ccのツインキャブで、エンジンをかける時には、チョークの引き具合とアクセルの踏み込み具合でガソリン混合割合を調整する必要があり、コツが必要でした。エンジンが温まるまでは、ガソリン割合が高くなり、ノッキングしてエンストすることがありました。
た。
特に、車検に出すと所定の回転数が900回転にされてしまうため、エンストしやすくなります。購入したところで、1000回転ぐらいに再調整してもらっていました。現在は電子調整になっているため、バッテリーさえ生きていればエンジンは簡単にかかります。そのため、チョーク時代の苦労が懐かしく感じる昭和の世代です。
当時は、登録後10年で1年車検という制度があったため、次の車を探し始めました。
1978年には、ジウジアーロデザインのピアッツァがいすゞから発売されました。
いすゞは主にトラックのイメージが強いですが、当時はDOHCエンジンを搭載したスポーティな車種である117クーペが人気を博していました。117クーペは、特に車に詳しい人々の間で支持される車種でした。
ピアッツァは117と同じエンジンを搭載しながら、当時としては空力特性を最大限に考慮したCD 0.36という驚異的な数値を実現し、これまでになかった流線形の車として注目されました。
そのユニークなヘッドライトの半開きのデザインや、デジタル表示の各種メーター、ハンドルの両側に配置されたすべてのスイッチなど、未来的な装備が施された運転席は、まさに未来の車を実現したような印象を与えました。また、高出力のエンジンもあり、すべての夢を叶えてくれる車として多くの人々の心を捉えました。
おもちゃ屋の景気が好調であり、また私が埼玉での就職を果たしたことで、実家を離れることになりました。そうした状況下で、車の購入費用は親が全額負担してくれることになりました。
子供の頃からお金には苦労したことがなく、購入費用については全く考えませんでした。確かに、当時、車両価格は約300万円だったと思いますので、現在の価値に換算すると約900万円に相当します。今考えれば、普通のサラリーマンには手の出ない高価な車であったことがわかります。
そのような事で、人目を引く車でした。
車で通勤していたため、初めて会社に乗り入れた際には、周囲の人たちが集まってお披露目会が開かれました。ちょうどその時、会社では初めて1千万円を超える自社製品を出荷するという大きなイベントがありましたが、そちらは一旦忘れられ、皆が私のピアッツァに注目していました。まだ、30名ぐらいの工場でしたが、ほんわかした懐かしい時代の出来事でした。
また、アパート住まいで、囲いが無い、路上に近い場所での駐車でしたが、傷を付けられたり、部品が盗まれたりすることはありませんでした。
首都圏でありながらも、通勤県内の新興住宅地に位置していましたが、地元民が多く残り、治安も良好で、皆が優しい昭和の良き時代でした。
当時、ピアッツァの空気抵抗は明らかに低かったです。180km/hの速度リミッターが装着されており、それを超えると燃料供給が止まり、速度が落ち、少し速度が落ちると再び供給されて速度が上がるという状況でした。
加山雄三がCMしていたレパードと並走している際に、空気抵抗の差で徐々に前に出て抜き去るのは気持ち良かったです。
それでも、あっと言う間に、リミッターの無いポルシェに抜かれてしまいます。
正月で、トラックが走っていない、交通量の少ない東名高速道路での出来事でした。
空気抵抗は、明らかに低かったです。当時は、180kmの速度リミッターが装着されており、180km超えると、燃料供給が止まり、速度が落ち、少し速度が落ちると、燃料供給され速度が上がります。その繰り返しになります。
加山雄三がCMしていて、スポーティ高級車のレパードと並んで走っていると、空気抵抗の差で、徐々に私の方が前に出て抜き去りました。
その後、リミッターの無いポルシェに抜かれました。
正月でトラックが走っていない、交通量の少ない浜名湖付近の東名高速道路での事でした。
車は、180kmでも安定して走行でき、パトカー以外は怖くありませんでした。
リミッターがなければ、200km/h出せたかもしれません。
その後、今まで燃料カットによるリミッター経験はありません。
ランサーターボGSRで、メーター上では180km/hを示していましたが、エンジンブレーキが効かなかったので、実際にはそこまで出ていないと思います。
子供ができてからは、ファミリーカーに乗り換えたため、150km/h程度しか出していません。
高速走行には最適な車でした。
ただ、デジタル表示、オートエアコン、パワーウィンドウ、ステレオ放送といった当時の最新機能がすべて揃っていたのが原因かもしれませんが、とにかくバッテリーが弱かったです。エンジンをかけていても、駐車しておくとバッテリーが上がり、周囲の人にお願いしてケーブルで充電してもらうこともありました。
また、ピアッツが2ドアのハッチバックだったため、2人目の子供が生まれたこともあり、4ドアセダンに乗り換えました。
2回目の車検後に車を買い替えることになりました。
走り屋への憧れが強く、羊の皮を被った狼であるカリーナセダンを購入しました。この表現は、初期の箱型4ドアセダンのスカイラインGTRのことを指します。これらの車は高出力のエンジンを搭載し、車両重量が軽いため、スポーツカーを追い抜いてしまうことからこのように表現されるようになりました。カリーナセダンもその一つとして位置付けられています。
1800ccのDOHCエンジンは電子制御されており、広い回転域でパフォーマンスを発揮しつつも、燃費も良いエンジンでした。また、これが初めての前輪駆動のFFモデルとなりました。
これまで後輪駆動が主流でしたが、アクセルを踏み込み過ぎると後輪が先に滑り出し、コントロールが難しくなり、少しの雪でもすぐに滑ってしまう面白い車でした。アクセルとハンドル操作には気を使う必要がありました。
一方、FFは狭い場所でも簡単に進めることができ、市街地や高速道路などあらゆるシチュエーションで運転がしやすく、速くて安定していました。
トヨタの名車としてその実力を発揮していましたが、個人的には、つまらなくて、あまり記憶に残っていません。
結局2回目の車検前に車を変えてしまいま結局、2回目の車検前に車を乗り換えることになりました。当時はラリーが全盛期で、三菱ランサーが圧倒的に強かった時代でした。そこで、私もランサーGSR 4W 1600ターボに乗り換えることにしました。
子供を乗せることを考えて、レボリューションではなく4ドアセダンを選びました。ちなみに、ピアッツア、カリーナ、ランサーと、私が乗った車はすべて白でした。当時は会社でも洗車できたので、自分で月に1回ぐらいは手洗い洗車していましたが、白の車でも汚れが目立たなかったです。
ターボのスタート加速感は半端ではありませんでした。4輪駆動と相まって、スタート時には4輪のタイヤに力が加わり、シートに押し付けられる感覚が凄かったです。常にターボを利かせるような回転数でギヤアップをすると、サードギアであっという間に100km/hを超えました。速度超過になりやすく、車両重量が重く制動距離も伸びてしまい、ブレーキングが遅れることがよくありました。まだABSが一般的ではない時代で、急ブレーキを踏むとタイヤが4本ともロックして制御不能になります。
雪が積もった時、ノーマルタイヤでも坂道では皆が立ち往生している横を抜いていけましたが、下りでは全く止まれず、制御不能になり、赤信号でそのまま突っ込んだことがありました。もし、その時に車が来ていたら、今生きていないかもしれません。
そのような経験から、ランサーGSR 4W 1600ターボは楽しめる車でしたが、一番上の子供が小学校になり、3人目も大きくなってきたので、3列シートのファミリーカーに乗り換えることになりました。
そして、三菱シャリオ クリスタルルーフ 4W 7人乗りに乗り換えることになりました。
これまで、すべてマニュアルミッションでしたが、初めてオートマ車に乗ります。
これ以後は、ミニバンになり、濃い色の車になりました。
家族の人気はありませんでしたが、私が一番好きな紫色にしました。
ここまでは、すべておもちゃ屋名義での購入になります。
全面ガラス仕様のハイルーフで、前席の頭上はチルドアップガラスルーフになっていました。私はヘビースモーカーでしたので、このチルドアップは重宝しました。
全席の横ウインドウだと後席に煙が行きますが、チルドアップだと上に抜けていきます。
斜めに上がるだけのチルドアップで、上がり具合は調整できたので、開けていても雨が降り込むことはなく、高速道路でも我慢できる範囲の風切り音でした。
このチルドアップガラスルーフは、とても気に入っていましたが、今では採用車がないのは残念です。
高価になるし、衝突強度の問題や花粉症の蔓延もありますね。開閉式のルーフも見かけなくなり、窓を開けることも減りましたが、ぜひとも、チルドアップルーフを復活してほしいと思います。
3列シートで、シートアレンジもでき、後ろをフルフラットにして、子供たちは寝そべったり、皆で遊んだりできる空間が作れて重宝した車でした。
実家に帰る時は、夜に出発して朝に着くというパターンです。子供たちは寝ていて、静かで良かったし、高速道路の夜間割引も含めて便利でした。
到着した日は、母が孫たちを連れ回してくれるので、私は寝て、疲れを癒していました。
今では、道路交通法により、高速走行中は後部座席でもシートベルトの着用が義務付けられ、年齢によっては専用のチャイルドシートが必要とされ、フルフラットに転がって遊ぶこともできなくなりました。
確かに安全性は非常に重要ですが、規制がますます厳しくなり、楽しみが制限されることに対して寂しさを感じます。
そのうち、75歳以上の方々に対して、自転車や自動車の利用が危険とされ、外出が禁止される可能性があるのではないでしょうか?また、ソイレントグリーンのように、高齢者が安楽死させられ、その身体が食料として利用される時代が迫っているのではないかと心配しています。
ミニバンのシャリオは、全面ガラスルーフ、2.4Lエンジン、フルタイム4WD、電動スライドドアを備えており、そのため車両重量が重く、燃費が非常に悪いと記憶しています。毎日約15分程度の近距離通勤や週1回程度の近所の買い物、月1回程度のレジャーに使用する際、カリーナの燃費はピアッツアと同じくらいで、9~10km/L程度でしたが、1600ccのランサーは4WDでありながら、8km/L以下でした。それに対して、シャリオの燃費は6km/Lでした。実家など遠出する際には、どの車も10km/L以上の燃費でした。
その頃、おもちゃ屋が借金まみれになり、高利貸しから実家が担保で取られ、それでも足りなくて私が援助することになりました。
さらに私も福島へ単身赴任中で、四日市の実家に帰省する機会はなくなっていました。
家族旅行も東北地方への旅行に変わっています。
私が気に入っていたシャリオも10年目を迎え、三菱自動車のリコール隠し事件もあり、乗り換えることになりました。
前年にはオートマチックトランスミッションフルードが壊れ、単身赴任の福島から埼玉まで、3速しか使えずに帰ってきたこともあり、修理したばかりでした。
10年目の車検を受けるつもりでしたが、ふと立ち寄った日産ディーラーでは、テレビCMでよく見かけるリバティの期間限定の特別仕様車セールが行われていました。
シャリオの下取り金額について気になり、何気なく商談に入りました。
相手は新人の営業マンで、特別仕様車であり、安く設定されており、値引きができない旨を伝えられました。
下取りについても価値が付かないと言われましたが、最終的に数万円の上乗せでの話になりました。それでも、何度も先輩に相談に行き、親身に対応してもらいました。
年配の営業マンがその状況に不満を抱いたのか、割り込んできて下取り査定はゼロ円で値引きも無理と上から目線で対応されました。その横柄な態度に少しイラつき、帰ろうとしました。
その時、店長らしき人が現れ、下取り込みで10万円という区切りの良い値引きを提示してくれました。
この提案に心が軽くなり、その横柄な年配の営業マンのしかめっ面に留飲を下げて、その場で購入を即決しました。
これが私が自ら名義で購入する初めての車となりました。自動車保険も初めて加入することになり、保険等級が低いため、保険料は非常に高かったです。その車は、芦田愛菜がCMで「パパ・ママ・リバティ!」とアピールしていた、リバティ・FF・2Lスライドドアの7人乗りです。
還暦を過ぎて、芦田愛菜から名前を取った紗倉まなさんの推し活をしているのは、何かの縁かもしれません。
新しいミッションであるハイパーCVTが装備され、機械式変則ギアでありながら駆動ロスを起こさないと言われています。切り替えショックもないとされています。要するに、スタートから巡航速度になるまで変速の遅れがなく、スムーズに速度が上がり、ロスがないので燃費も改善できるというわけです。
室内装備やシートアレンジは、お気に入りのシャリオと同様で、左側のみが電動スライドされ、FFで排気量も2Lになり、小回りも利き、運転しやすくなりました。
確かに、オートマ特有の遅れは感じず、燃費も9km/Lということで、10年ほど乗るつもりでした。
ところが、車検を1カ月後に控えた時に、私は一時停止を無視して事故に遭ってしまいました。
その日は飲み会があり、急いで家に帰ろうとしている最中でした。道が混んでいたので、今まで通ったことのない裏道に入りました。高架下を抜け、道路を横断して真っ直ぐ走ろうとしていたところで、後方から衝撃が走り、横滑りしながらスピンして反対側を向いてしまいました。相手側の車は前面の左側が大破し、右側に弾き飛ばされ、私の車は左の後ろが大破し、左回りにスピンして反対向きで停止しました。左前輪のタイヤが潰れており、ホイールから外れそうになっていました。左の前輪が持ち堪えていなければ、完全に横転していたかもしれません。
1秒早ければ、ほぼ正面衝突で大事故になり、1秒遅れていれば、スタントシーンのようにお互いにぶつからずにすれ違っていたと思います。 最初は何が起こったか全くわかりませんでしたが、私が一時停止の標識を無視して、道路を横切り、横から来た車が、私の後ろにぶつかったことが分かりました。お互いに40kmぐらいの速度は出ていたと思いますので、本当に不幸中の幸いだったと思います。 相手は、急に私の車が横から出て来て、ブレーキを踏む暇も無かったと思います。
お互いに怪我もなく、相手は代車で自分の車ではなく、非常に温和な方でした。怒っておらず、保険屋に任せましょうというような話をしていました。ところが関係のない後続車の運転手が目撃者としてしゃしゃり出てきました。私も非を認めて相手には誤りましたが、当事者たちよりも、勝手にヒートアップしてきて私を責めてきました。ただ、私がびっこを引いているのを見て、人身事故と思ったようで、急に引き下がり目撃情報が必要ならばと相手側に連絡先を渡して帰っていきました。丁度お互いの車が両側の路肩に止まっていたので、道路の交通を妨げることなく、後続車は通行できていました。
10分ほど経った頃には、警察も到着しました。
私は、一時停止標識および道路に全く気が付かなかったのですが、警察には一時停止はしたものの、来る車に気が付かなかったと説明しました。
また、自走できない状態だったので、お互いにレッカーを手配することにしました。
私の方は、保険の窓口がディーラーになっていたので、ディーラーに連絡して対応をお願いしました。
夕方の6時頃でしたが、迅速に対応していただき、30分ほどでレッカー車が到着し、車はレッカーされていきました。
また、少し遅れて日産ディーラーの担当者も駆けつけてくれました。
相手側のレッカー車は、まだ到着しておらず、私は一緒に待つことにしました。20分ほど後に、レッカー車と代車屋がやってきて、相手と一緒に帰っていきました。
その間、ディーラーの担当者も一緒に待ってくれて、夜8時頃になってしまいましたが、最後に家まで送ってくれました。
さらに、翌朝、日産ディ-ラー担当者が再び家まで迎えに来て、会社まで送ってくれました。通勤の途中と言っていましたが、嘘も方便だったと思います。
そして、その日の夕方、会社まで迎えに来てくれて、ディーラーまで乗せてもらい、手続きやこれからの予定などを丁寧に説明してくれました。
購入時の担当者は辞めており、車検などで新たに担当者になった方で、元々は整備を行っていた方でしたが、説明が分かりやすかったです。代車として、その担当者が使用していた車をそのまま借りることができました。
そのおかげで、翌日からは通勤などに支障はありませんでした。お互いの修理見積も出て、過失の割合も決まって、事故処理は1週間ほどで終了しました。保険会社間で、私の過失が80%ということで決着しました。
100%私の過失だと思いますが、私の後ろ側に相手がぶつかっていたため、相手側の前方不注意も加味されたようです。
私の車の修理に関しては、シャーシ自体が歪んでおり、直したとしても事故車扱いで次の下取りも難しいだろうという話になりました。
そのため、修理せずに廃車にし、保険から出される修理代を頭金にして、新車に乗り換えることにしました。
その際、営業マンの助言を信頼し、リバティの後継車であるラフェスタ FF 7人乗りに決めました。
値引き10万円と、一部のディーラーオプションのサービスがついていたと思います。
他のメーカーの見積もりや営業所間の駆け引きなどを行えば、もっと値引きされた可能性はありましたが、ここまでの対応に信頼を寄せるしかありませんでした。
納期を優先し、在庫のある無難な紺色のメタリック車にし、事故から約1カ月後に納車されました。納車まで、担当者の車を貸してもらえました。
そのような事故もあり、保険料が等級ゼロで高額になりました。
自動車保険は、ディーラー経由の方がいざという時に親身に対応してくれるので便利だと思います。
2番目の次女と3番目の長男は、免許を取得して車を運転するようになります。
一方、1番上の長女は21歳でできちゃった婚をし、そのため免許を取得する暇がありませんでした。
私の妻は免許を取得しましたが、糖尿病による緑内症で視力および視野が狭くなり、運転免許を返納しています。
長男がなぜか運転が上達せず、結構な頻度で車をぶつけています。ドアやストップライト、前フェンダー、ボンネットなどの大きな修理は行っていますが、保険の関係で小さな凹みは放置しており、車は傷だらけの状態になっていました。
修理に関しては、日産ディーラーの担当者に保険料がなるべく上がらないように対応してもらっています。
9年目の車検の予約時に、下取りゼロになる見込みであるため、3列シートのミニバンである日産セレナへの買い替えが提案されました。
セレナの車両価格が300万円を超えることや、乗用車の車高がラフェスタに比べて高く、まだ小さかった孫の乗り降りが難しそうだと感じました。また、車が大きくなり息子が運転できるかが心配でした。
事故車に該当するような事はありませんでしたが、傷だらけだったため、下取りは期待できないと思っていました。しかし、10万円での下取り提示があり、買い替えを検討する動機になりました。
担当者には申し訳ないですが、他社の3列シート車も検討することに決めました。息子でも運転しやすく、できればスライドドアがある車を希望し、車検が来る2か月以内の納車を条件として考えました。
その日の午後に、ホンダ・フリード、ステップワゴン、トヨタ・シエンタ、ヴォクシーを回って見積もりを取りました。シエンタとフリードが手ごろな大きさで気に入りましたが、シエンタの納期が間に合わず、フリードが買い替え候補の筆頭になりました。
トヨタでの下取り査定が9万円でしたが、ホンダの下取り査定は5万円でした。値引きは車種によって異なりますが、10万円程度でした。
翌日、日産ディーラーの担当者がセレナを家まで持ってきて、息子に試乗させてくれました。息子は運転しやすかったようですが、私は小さな孫たちの乗り降りが気になっていました。
車両価格が300万円を超えるため、頭金の検討が必要ということで試乗会を終了しました。フリードが気に入り、ホンダディーラーに再度訪れて値引き交渉をしました。
少しでも値引きを引き出せれば購入を検討していたのに、ホンダの営業マンは誠意を見せず、態度も高圧的で不快でした。その結果、私は一生ホンダの車を購入しないことを決めました。
どうような事が自由化前のNTTでもありました。修理対応が悪かったため、私の家では、携帯を含めて、NTTは絶対に利用しないことを決めています。
人生の残り時間が限られているため、ホンダとNTTとの縁はもはや存在しないでしょう。
帰り道の途中、家の近くにあるマツダのショールームに立ち寄りました。
マツダにどんな車があるかは知りませんでしたが、3列シートのプレマシーがあることを初めて知りました。
このプレマシーは3ナンバーですが、横幅は少し広く、車高の低い3列シートのミニバンでした。
営業マンは、口達者で私の苦手なタイプでしたが、車検前で乗り換えを迷っていることを察してくれ、下取り20万円と値引き30万円の提示をいきなりされました。この金額には驚きました。
その時、同じ車が日産にOEMされることを知り、お世話になっている日産ディーラーの担当者にも確認しようと思い、ディーラーを訪問してOEM車であるラフェスタ・ハイウエースターの見積もりを依頼しました。しかし、マツダと同様の値引きは無理と言われ、その選択肢を断念しました。その後、マツダで在庫車の確認やオプション設定を決め、最終価格見積もりを受けて購入を決定しました。車検の話からわずか2日間で、乗り換えを決めたことになります。
日産ディーラーの担当者を裏切ることになったことが心残りですが、この買い物は良いものであったと感じています。また、マツダの担当者は1カ月後に支店長に昇格していました。さすがだと思いました。
このプレマシーも来年で9年目の車検を迎えますが、バッテリーやパワーウィンドウ、バックモニターの故障がありましたが、幸いなことに大きな修理は必要ありませんでした。問題なく元気に動いています。息子も慣れてきており、これまでぶつけることもありませんでした。
また、後3年で70歳となり、免許返納も検討すべき大きな節目が迫っています。退職金を切り崩しての購入しか方法がありませんが、これからはもう一度だけ乗り換えるか、このまま乗り潰すかが悩みの種です。
今では、一番上の孫が大学生で、これから先、孫5人が集まってどこかに行くこともないと考えられ、小さな車でも十分かもしれません。しかし、大きな荷物が運べて、いざという時には7人乗れるという便利さを知ってしまった現在では、小型車や軽自動車への乗り換えには抵抗があります。昔と違って、最近の車は壊れにくくなったため、乗り換えのタイミングが難しくなっています。
以上が、48年間にわたる私の車の変遷の歴史です。
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