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思い出13 楽しい大学生活の卒業と就職活動 3

大学時代は、遊ぶことに夢中で、勉学に励んだ記憶はありません。しかし、3年生の後半から卒論と就職活動が始まり、忙しさに追われる日々を送ります。
大学2年生の時、北海道旅行で知り合った奈良短大女子の学園祭に行く事になります。
私たちは名古屋に住む友人A君と共に、3台の車で学園祭に向かうことになりました。
携帯電話やナビゲーションシステムがない時代で、私たちはテールツーノーズで連なりながら、青山公園を抜ける山道を通り、奈良に向かいました。
この道は走り屋がよく利用するルートで、私たちの3台の車が並んで走ると、かなり目立っていたと思います。
ある時、先頭のA君が突然 横断歩道前で停車しました。
そのため、後ろにいた私たちも急ブレーキを踏み、タイヤの騒音が響き渡りました。
私は3台目だったので、ぎりぎりの状況で止まれました。
法的にはA君の行動は正しかったかもしれませんが、私は彼に後ろの状況を確認してから止まってほしかったと不満を漏らしました。
その後、私たちは車間距離を少し空けるようになり、安全運転を心がけました。
学園祭では、女子の方も気を利かせて1人追加し、3対3で楽しい時間を過ごしました。
その後は2人ずつに分かれて夜遅くまで食事やドライブ観光を楽しみました。
再会の約束もしましたが、残念ながら実現することはありませんでした。
このような事はありましたが、私の大学生活は女性関係に縁がないものになりました。

お互いの家を行き来して遊んで中学校からの友人であるM君は、高校も大学も違いましたが、ずっと仲良くしてくれる唯一の親友です。
M君は180cmの高身長で、母子家庭で育ったため、しっかりしており、面倒見がよく、何でも任せられる頼もしい存在で、彼と一緒にいるときはとても楽です。
彼は私のわがままにも寛容で、ずっと友達として私を受け入れてくれています。
M君は一年間浪人した後、京都の大学に進学しますが、夏休みには戻ってきて、よく一緒に遊びました。
私は免許を取得し、車を購入していたので、湯の山スカイラインや伊吹山、奈良のドリームランドなどによく出かけました。
ちなみに、ドリームランドはディズニーランドと同様のスタイルの遊園地であり、奈良と横浜に存在していました。
奈良ドリームランドは日帰りで車で行ける距離にあり、私は子供会の旅行や親戚の従妹たちと子供の頃からよく訪れた大型遊園地でした。
長島温泉は富士急ハイランドと同じ絶叫系のアトラクションが多いイメージですが、ドリームランドは子供から大人まで楽しめる音楽と融合された雰囲気で、ディズニーランドのようなパレードもありました。
中国の模倣ディズニーランドと同様に、ディズニーランドをパクった大型遊園地でした。

横浜ドリームランドは、ヨーロッパテイストが強く、近衛兵の装いをした2体の人形が特に有名であったと記憶しています。
特に、祖母に連れられて泊まったエンパイアホテルのことは鮮明に覚えています。
建物は五重塔のような和風の外観ですが、内部には金色のモザイクが施された立派なソファーやベッド、シャワー付きのモダンな部屋が配置されていました。
旅館にはよく泊まりましたが、ホテルは初めてで、その印象はとても強烈でした。
また、最上階の22階には回転レストランがあり、夜景を楽しみながら食事をすることができました。
奈良と横浜の両方には同様のアトラクションがありましたが、私が一番好きだったのは潜水艦と呼ばれるアトラクションでした。実際には水中に潜るわけではありませんが、窓からの景色が本当に沈んでいくような感覚を味わえ、子供の頃はワクワクしながら何度も乗りました。
大人になってからは、そのちゃっちさがかえって楽しい思い出となりました。
最新の技術を使った潜水艦のアトラクションがどこかで実現されることを願っています。
余談ですが、横浜ドリームランドは私の現在の妻との初デートの場所でもあります。この話については後日書くことにします。

話は横道にそれましたが、M君との話に戻ります。
特に、四日市祭りでは一日中、M君と一緒に盆踊りや夜店で楽しい時間を過ごしました。
M君は京都の大学で同好会にヤリマンのお姉さんがいて、何度もヤラしてもらえると言っていました。
京都に行けば紹介してもらえると言われましたが、結局その機会はありませんでした。
彼は色々なことを相談できる心優しい親友です。
私が埼玉に就職する際には、初めての車での関東移動でしたが、彼が地図を見ながら私をナビゲートしてくれました。
彼の支えがとても心強かったです。
帰りはM君だけが新幹線で帰ることになり、お世話になりました。
また、私は出来ちゃった婚で結婚式は挙げられませんでしたが、M君の結婚式には帰省して出席させてもらいました。
昔ながらの友人たちとも再会でき、楽しい時間を過ごしました。
その後、M君の家族とは四日市の実家で一度会いました。
M君の長女と私の次女は同じ年齢で、まだよちよち歩きの1歳を過ぎた頃でした。
しかし、M君の長女は離乳食を食べていましたが、私の次女は離乳食ではなく、チョコレートなど普通の食べ物を食べていました。
1人目の子供の時は哺乳瓶を滅菌し、様々な離乳食を作り、熱が出たら病院に連れて行ったり、一生懸命育てましたが、2人目の子供の時は丁寧な滅菌もせず、離乳食も与えず、普通の食事を与え、お菓子も長女と同じものを与えていました。
嫌がると口から吐き出し、少々お腹を壊しても気にならなくなっている事を改めて確認できました。
子育てあるある話です。
その後、コロナ前の61歳の時に同窓会があり、35年ぶりに再会しました。
35年のブランクを感じずに、昔懐かしくもあり楽しい一時を過ごせました。

大学2年生までは、代返などで遊び惚けていましたが、3年生からは、専門授業や実験が始まり、真面目に大学授業に出て、レポート作成などを行うようになります。
当時は、ワープロもなく当然パソコンも無い時代のため、手書き文章でした。
うちの研究室では、鉛筆は修正改ざんできるので、消せないボールペンでの提出になります。間違うと1ページすべて、書き直しでした。
通常、鉛筆で下書きして、その後、ボールペンで上から書き、鉛筆部分を消しゴムで消す形でしたが、何回も書き直する汚くなるので、清書版に行き着くまでが大変でした。
一番大変なのは、グラフの作成でした。
細くて、均一の線が引ける製図用ロットリングペンを使いグラフの線を描き、プロットや数値などは、英語数字が抜いてあるプラチック製のテンプレートを使い記入します。
修正インクは許されなかったので、失敗するやり直しになります。
結果をグラフにまとめる事が多く、一つの論文で、5種ぐらいのグラフを書く必要があり大変でした。
今では、エクセルで簡単に作れるので、楽になりました。

実際の実験結果が理論から逸脱したり、予想通りにならなかった場合には、実験ミスの可能性があり、繰り返しの検証が必要となります。
そのような事もあり、実験研究が始まる3年生になると忙しくなり、卒業研究の始まる4年生では、徹夜作業も生じていました。
一番大変だったのは、私ら学生の実験に付き合う助手の方だと思います。
卒論が佳境になってくる4年生の後期からは、午前様は日常茶飯事で、徹夜で実験して、朝日も見ながら海岸で、朝釣りをすると言う事もありました。
当時助手だったK先生(後に教授になって退官)にはお世話になりました。

当時は、修士課程進学者の定員が40名中2名であり、少なく、そのまま博士課程へ進むことが一般的でした。
しかし、現在では、研究・開発職に就くためには修士号が必須であり、理系大学では2~3割の学生が修士課程へ進学する傾向にあります。

正味半年程度の研究では、論文を発表するほどの成果は得られません。
そのため、途中結果をまとめて報告書にし、それを発表することで卒業検定を受けることになります。
報告書が適切に作成され、発表ができれば不合格になることはありません。

工業化学科では、教授4名、助教授4名、助手8名、4年生40名、修士生16名の前で、10分の発表に5分の質疑が付く卒業検定が3月前半の3日間にわたって行われます。
一部の学生は、卒業式後に再度報告書を提出することもありました。
卒業研究の内容によりますが、論文化された場合には、論文として製本され、それが贈られてきます。
論文の中で自分の名前が記載されているのは、非常に嬉しいものです。
現在では、ネットで名前を検索すれば簡単に見つけることができますが、当時は化学分野専門の有料検索サービスで調べる必要があり、かなり大変でした。

当時は、就職活動は大学4年生になってからが一般的でした。オイルショックの影響がまだ残っており、特に化学関連の就職は困難な時期でした。
各企業の工場見学がありましたが、ほとんどの企業では営業分野の募集はあるものの、人気の高い開発などの部署では、名古屋大学、大阪大学、京都大学などの旧帝大出身者しか採用しないと明言されていました。
そのような状況から、公務員が人気でした。
お袋は県庁に入れたがっていました。
一次試験に合格すれば、コネで内定を取れると言っていました。
しかし、私は1,2年時代に遊び惚けていたため、試験成績は最悪でした。
三重大学出身者でこのような低い成績は過去に例がなく、コネで引き上げられることもなく、あっさりと落ちました。
この結果に関しては、お袋は珍しく嘆いていました。
それで、私が勉強嫌いであることを考慮し、お袋の兄で化学薬品商社の社長であるK叔父さんに、コネでどこか入れる会社を紹介してもらうことになりました。
K叔父さんからは、本社が新宿にあり、工場・開発拠点が埼玉にあり、九州、大阪、名古屋、横浜に営業所を持つ化学関連会社であるG社を勧められました。
G社は設立10年目で、社員数は約80名で、平均年齢が30代という若い会社で、今後の成長が期待されているとのことでした。
分析機器と言うマイナーな分野で、上場もしていないG社は私にとって完全に未知の存在でした。
当時は週休2日がまだ珍しい時代でしたが、G社は完全土日と祭日が休みの会社であり、初任給も魅力的であったため、他に就職先がなかった私は何も考えずに応募することにしました。
K叔父さんのコネにより、応募から3日後にはG社の会社見学と専務との面談が実現しました。
G社の本社は、新宿駅から歩いて約30分の場所にある3階建ての古い貸しビルでした。1階は駐車場、2階が入口と総務事務所、3階が事務所兼倉庫でした。
面談では、営業担当役員である専務と会いました。営業ならば、採用できるが、開発希望は、すでに1名の修士卒が決まっているため、試験を受けてもらい、検討させてもらうとの話になりました。
新宿で専務らと飲食した後、当時、寮の隣に住んでいたT所長に案内され、所沢近郊の寮に一泊することになります。
髪が長い、太り過ぎなどの容姿の事や、6カ月間は試用期間で、3年で一人前になるなど、今では考えられない昭和時代の話を延々と聞かされました。
今の時代ならば、絶対に訴えられていると思います。
私は一人っ子であり、周囲には常に大人が多く、また幼少期から外見について言われることには慣れており、それほど気にしませんでした。
後に会社に入ってから知りましたが、T所長は有名なパワーハラスメント上司でした。
お客様には信頼され、仕事上ではお世話になることもありました。
翌日、寮長Nさんの車に乗り、G社の工場を訪れることになります。
途中で山田うどんで朝食を取ることになり、生まれて初めて色が濃いのに味が薄いうどんを食べました。
私は麺類といえばスガキヤのラーメンや、近所の駄菓子屋で作ってもらう焼きそば、または隣のレストランで出されるナポリタンスパゲティが好きでした。
うどんといえば、味噌煮込みか、色の薄い鰹だしのきしめんか、あるいはうどんに直接醤油をかける伊勢うどんぐらいしか経験がありませんでした。
そんな私にとって、濃い見た目と違うコクの無いうどんには驚きでしたが、安価ながらも普通に満足できました。
所沢から車で約20分の郊外に、G社の開発兼工場があります。
2階建てのプレハブ建築で、総務・工場棟と開発棟の2棟が建っていました。
見た目は、本当に工場かと言う感じでしたが、中は、観た事が無い装置が所せましと置いてあり、汚いながら活気だけは感じられました。
当然、特に惹かれるところはありませんでしたが、コネ無しで、他の企業に就職する自信もなく、結局G社を受けることにしました。
入社試験は高校レベルの一般教養でしたが、全く覚えていなかったため、結果は惨憺たるものだったと思います。
面談も行ったと思いますが、筆記試験が悪かった記憶しかなく、面談相手のことは覚えていません。
結局、K叔父のコネ力により、私は希望する開発部門に入社することができました。
K叔父からは、何があっても1年間は、辞めずに務めるようにと念を押されました。

結局、G社での私のキャリアは、正社員としては37年間、定年退職後は契約社員やパートとして44年間にわたりました。
昨年、会社員としてのキャリアを終え、卒業しました。
このG社での経験は、私にとって非常に意義深いものであり、その終了時期がおとフラ解散と同時期というのは何かの縁を感じずにはいられません。
昨年からは国民健康保険に加入し、今年初めて確定申告を行い、年金生活を送りながらも、紗倉まなさんの推し活動を楽しんでいます。
現在、G社は設立から56年を迎え、私が配属された開発兼工場では、隣の土地を購入し、3階建ての2棟と2階建ての3棟を持つしっかりした建屋に発展し、約5倍の規模となっています。
現在では、総合技術センターとして機能しています。
また、本社は、新宿で2回移転し、現在は30階建てのビルの最上階に位置しています。
営業所は国内8カ所、アメリカ1カ所に拡大し、約450名の従業員を擁する資本金12億円の上場企業となっています。
実際に勤務していると、福利厚生の充実や様々な規定の増加ぐらいで、大きな変化を感じることはありませんが、学会発表や海外出張、本社移転、単身赴任、地鎮祭、50周年記念パーティなど、様々な経験を通じて充実した時を過ごして、楽しかったです。
R叔父さんがG社を勧めてもらったおかげで、楽しい推し活もできており、叔父さんには、手を合わして感謝しています。
以上が、あっと言う間に過ぎ去った大学3年から、就職までの思い出です。

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