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年末年始の挨拶は3500文字も書いて地球をなんとかしたい気持ちで愚痴っぽくなってしまった。


普段の生活では滅多に見ないSNSを入院してからたまに見るようになって、年末になり、仕事納めをする人たちの、今年を振り返った内容をSNSに投稿してる人を沢山目にしました。


それを見ながら、ああ、私もこの時期になると毎年同じように一年を振り返って一年の感謝と来年も宜しくお願いしますと言う言葉で締めくくっていたなと、遠い日を見るような気持ちになりました。

今年も去年に引き続き、ゴミを出さない暮らし方を色々と考えた一年でした。

自分の家でゴミを出さないようにすること以外にも、それを持続していくことの難しさや、人に伝えることの難しさ、根本的な社会のシステムの問題など考えることはつきませんでした。

来年はまた新しい気づきと変化を起こしていけるよう、日々精進していきたいと思います。


正直なところ、12月31日が1月1日に1日変わるだけなのに世界中の大半の人々が生まれ変わったような気分でその時を祝い、喜ぶってすごいよなあと思います。

普段は離れて暮らす家族に会いに行ったり、普段は思い出しもしない神社に初詣に行ったり、あるいはここぞとばかりにごろごろする人もいるだろう。
とても象徴的で集団意識の塊なんだろうけど商業的コントロールもすごい。

それは消費者側だけがコントロールされてるというわけではなく、
サービスを提供する側も、「お正月なんだから」と思っていて、サービスを受ける側も「お正月なんだから」と思っている、なんともピッタリと合意した気持ちの上でサービスが売買される、両者にとって最高の取引日和なのがお正月って言われるものなんじゃないかなとさえ思います。

初売りや福袋を企画する側と、それを心待ちにしてる消費者がいる。それはものすごい合意の上の需要と供給が実にマッチした売買の美しい姿なのかもしれない。


入院生活の中で外の世界のお正月を傍観してみると、「お正月だから」って理由でとてつもない量のゴミが出るんだろうなあって思います。

日本に帰ってきて1番びっくりしたのはビニール袋の使いっぷりでした。
パン屋さんに行くと種類が同じだろうが1個1個をビニール袋に入れてくれる。

思わず手を出して止めてしまった。私は大丈夫ですって。

これは大袈裟じゃなく、嫌われてもいいからはっきり言うけど異常だと思う。

「コロナだから」とはもう言えない。だって袋に入れずに売られていて、お会計の時に個別に袋に入れるんだもの。

あるお店で袋要りませんよって言ったら、「いいのいいの!サービスだから気にしないで!」と言われ、口を挟む間も無く袋に入れて渡され、ああ、私を喜ばせようとしてビニール袋をくれようとしてるのね。と理解しつつ受け止めながらも受け入れられなかったことがあった。

スーパーの野菜もそう。

何度も言うけど、嫌われても何してもいいからはっきり言うけど袋使いすぎなのは間違いない。
これは世界一だと思う。もちろん悪い意味で。

そもそも「使い捨て」を普段から基本的な選択肢の一つにしていることが、異常だと思う。
非常事態や医療機関が必要とするのはわかるけど普段から捨てることを目的に使うのは間違ってる。

逆に「使い切る」ということの美しさを人は知らなすぎる上、残ってる部分をちびちび使う事をみっともないという目で見る人さえいる。

私は「穴の空いたお気に入り」の服を、穴と穴がくっついて大きな穴になって大きな穴が裂けて袖がなくなったような服を泣く泣く感謝して雑巾にしてその寿命を終わらせる夫のそういう姿がとても好きです。人によってはみっともないと言うかもしれないけれど、「なんでまだ着れるのに捨てるの?」って言う質問に誰もが答えられない。

話を「使い切る」に戻しますが、使い切るって美しい。
それなのに使い切れないように作られた「使い捨て」のものが多すぎる。野菜をスーパーに並べるためだけに使われたビニール袋を再利用する人がどこにいるのしょう?魚や肉を買うたびに増えるプラスチックトレーを全部再利用出来る人がどこにいるのしょう?

1人暮らしの人はジャガイモ1袋もいらないし、大家族の人は2袋買うんだったら1つの袋にまとめて買えば袋が無駄にならない。
根本的に売る側がこの異常さに気がつかないといけないし、なんとなくいつも通り袋に入ったものを買う習慣も見直さなきゃいけない。自分にはジャガイモが何個必要かくらい自分で考えないと思考は停止してしまう。

そして「特別な日意識」も無くさなきゃいけない。

お誕生日だからとか、クリスマスだからとか、お正月だからとか、そういう特別な日だから「今日はいいよね」って気持ち。

今日も明日も特別な日も、お祝いにだからといってプラスチックをばら撒くのは地球にとっては何にも関係ないしお祝いだからって地球も喜ぶとは思えない。

でもそんなこと言っても誰もが今この社会でゴミを出さない暮らしができるわけじゃない。

ゴミを産むサービス提供者側が少しづつ変わっていってもだめ。

だって人間達は地球の美しさを取り戻すための美しい行動でさえもお金に変えようとするから。
オーガニック食品や、プラスチックを使ってない商品や、サスティナブル関連の製品はまだまだ特別値段が高い。

お金がある人しか地球に優しくなれないなんて馬鹿げてる。

日々なんとか生活してる人が、お気に入りのマイボトルを買おうと思うとは思えないし、何度も使えるシリコンバックだって、天然素材で作られた土に還るストローも曲げわっぱのお弁当箱だって、その分値段が高い。

女性が毎月使うナプキンだって、オーガニックコットンで作られた布ナプキンは安くはないし、月経カップも安心出来るブランドのものは安くない。

最近ではオーガニックコットンかそうじゃないか選べるシーンが増えてきたけど、オーガニックコットンの方が高い。

それはもちろんオーガニックコットンの栽培過程や糸にするまでの工程で綿の部分だけにするために農薬を使わず人の手で作業する分の時間に伴って賃金がかかる故にそういった製品の値段がそうじゃないものに比べて高いのは理解が出来るけれど、実際にその作業をしてる人が潤っているかというとそうじゃなく、商品として消費者に渡るまでの中間に入る業者が多ければ多いほど値段が上乗せされていっているのも事実で、今や企業戦略として「サスティナブル」を売りにしている企業もあると聞くと、そういった企業が増えてどんどん地球に優しいものへ商品が置き換えられて行くのは嬉しいけれど、心の底から思うのは、ただの流行で終わらせないで欲しいという気持ち。

サスティナブルな商品で高いものか使い捨てで安いものかの二択を消費者に提示するんではなくて、時間をかけてでも従来の商品をサスティナブルな製品へ改善出来ないかを考えて行くことの方が結果的には使い捨てを無くしていくことへ繋がるんじゃないかと思う。
消費者がお金を持ってるか持ってないかで地球の未来を左右するのはおかしいと思うから。

だからそもそも企業がどうあるべきかの前に社会のシステムを見直す必要が絶対にあるはず。

「経済を回していこう」と最もみたいなこと言うけれど、回すことばかりを目的としたらそりゃサービスを提供する側は使い捨ててくれた方が回しやすいと思う。また新しいもの、新しいものと次々と消費してもらえるから。

そのために失うものを見て見ぬふりして次から次へと新しいものを作り、売り、消費し、それを繰り返す事が経済を回すってことならば、経済なんて回すことよりもしかしたら他にもっと何か良い方法があるような気がするけど今の私には分からない。

そしてそう考えていくとそもそも賃金の安い仕事と高い仕事の差があり過ぎるのもどうかと思う。

賃金が安い分、しなくてはいけない労働時間が増えて、「手っ取り早く」が優先されて、結局使い捨てを選びたくなくたって選ばざるを得ない人だって沢山居るはず。

来年はここの部分のもやっとした自分の中の疑問ともうちょっと深く向き合っていきたいなと思います。

個人的にゴミを出さない暮らしと、根本的な社会のシステムをよく知り、何をどう改善していけば地球から奪うことばかりでなく共に生きて行くことが出来るのか。
私の考えるべきはそこなんだろう。


正直前々から思っていたけれど日本にいると日々疑問ばかり生まれます。
今までは日本以外に住むことでその疑問とは向き合ってこなかったけど、こうして病気をして日本に居るべき時間を神様か誰かに与えられた訳なので、とことん向き合う時が来たのでした。

ここで積極的に生きよう。



今年は沢山の人にご心配をおかけしました。
その度に応援してくれた皆様、本当にありがとうございました。

来年も、どうぞ宜しくお願いします。


AYUMI

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