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コーヒーチケット

 今日で最後の一枚。


 わたしの二十九歳の誕生日に、職場の同僚がプレゼントしてくれた十一枚綴りのこのコーヒーチケットも今日でなくなってしまう。

 行ったこともないコーヒー店なのに十一杯も飲まなければいけないというのはなかなのプレッシャーだったのだけど、結局のところ月曜から金曜まで週五回。そのうち一昨日は昼休みにも行ったからちょうど二週間で使い切ってしまうことになる。

 職場の最寄り駅からコーヒー店まで歩いて五分。店から職場までも歩いて五分。この距離もとても丁度いい。

 七時十七分。いつもと同じ時刻に店に着いたわたしは、些か緊張気味にガラスの扉を開ける。

「いらっしゃいませ。あ、おはようございます」

 マスターが容貌の印象よりも少し高いトーンの声で挨拶してわたしを迎えてくれる。

 さすがに平日に十日連続で来店すれば、地味な女性客の顔も覚えてしまうのだろう。
 

 わたしはコーヒーチケットを差し出して「本日のコーヒーで」と言った。

「かしこまりました」とマスターはそれを受け取って確認すると「ああ、今日でチケットがなくなりますね」と言った。

「新しいチケット買いますか」って聞いてくれればすんなり買えたのかもしれないけれど、正直な話わたしは迷っていた。十枚分の値段で十一杯。四千円のチケットは安月給のわたしにはちと厳しい。

 何かわたしの背中を押してくれる要因でもあれば、勢いで買ってしまいそうなものなのだけど。

 そんなわたしを尻目に、マスターは円錐形のドリッパーに紙のフィルターをセットし、それをさっと湯通しして豆を挽き、フィルターに入れてドリッパーの側面をとんとんと叩いて豆を平らにならし、わりと豪快に、しかし繊細な手つきでお湯を注いだ。

 しばらく待ってまたお湯を注ぎだす。ぐるぐるぐるぐる。渦を描くようにぐるぐるぐる。既定の量になったらドリッパーを外して、サーバーの中でコーヒーをくるくると撹拌してできあがり。

 カウンターの前で待っていたわたしの目の前にソーサーと空のカップを置いて、サーバーからコーヒーを注いでくれた。

「今日はイルガチェフェ・エチオピアです。ごゆっくり」と言ってマスターは微笑む。

 このイルガチェフェというコーヒーはわたしがこの店に最初に来た日に出してくれたのと同じものだ。

 マスター曰く「誰が飲んでも違いがわかる、いわばスペシャルティ・コーヒーの入門書のようなコーヒー」。

 ほかならぬわたしも、この入門書のおかげでまんまとスペシャルティ・コーヒーの魅力に心を奪われてしまったのだ。

 本当にこれを最後の一杯にしてしまっていいのだろうか。

 わたしは注がれたコーヒーの香りを嗅いで、口元から漏れる笑みを必死に抑えながらマスターに軽く会釈をしていつものベンチシートに腰を下ろした。それからもう一度イルガチェフェの香りを嗅ぐ。カップに注いだ瞬間には及ばないけれど、また口元が緩む。

 一口飲むと柑橘を思わせる甘酸っぱい香りが口の中に広がる。コーヒーなのにアールグレイの紅茶を飲んでいるような不思議な感覚。質感、というものがそう感じさせるらしい。一夜漬けの知識。温度が下がるとそれはさらに強調されて、さらにわたしの悩みを深くさせる。

  そしてわたしを悩ませる要因がまたもうひとつやってくる。

「おはようございます」

 マスターが迎えたその男性客はいつものように本日のコーヒーの種類を確認すると「じゃあ本日のコーヒーをワン・アンド・ワンで」と言った。

 ワン・アンド・ワンというのはエスプレッソと、それを使ったアレンジドリンク(アメリカーノだったり、カプチーノだったりするが、彼はいつもカプチーノを飲んでいる)を一杯ずつ楽しめるマスター一押しのメニューらしいけれど、彼以外に注文しているのをわたしは見たことがない。

 マスターは流れるような動きでポルタフィルタをマシンにセットしてボタンを押し、しばらくエスプレッソが流れてくるのを男性客と一緒にうっとりと見つめてから、スチームノズルを開いてフォームドミルクを作る。スチームが終わるとほぼ同時にエスプレッソの抽出が終わり、小さいカップを男性客に提供した。

 男性客はマスターがミルクピッチャーをくるくると回してささっとミルクを注ぐのを見ながらエスプレッソを三口ほどで飲み干し、カップをソーサーに戻すのが早いか遅いかマスターがカプチーノを提供した。

 二人の一連の流れはまるで名人同士の餅つきを思わせるほど滑らかで、わたしはどこか憧れにも似た視線でいつもそれを見つめている。
理由などは特に何もないのだけれど、なぜかこの男性客に好感を抱いている自分がいる。

 背が高くてルックスもまあ悪くはないけれど、取り立ててハンサムというわけでもない。一言も話したこともないからどんな人物なのかもわからない。ぱっと見たところ大学生にも見えてしまうぐらいだから、おそらく、いや九分九厘わたしよりも年下だろうし。

 それでも彼がマスターとコーヒーのことを短いながらも興味深く話している様子を見たり、カプチーノを飲みながら真剣な顔つきで何やら書き物をしているのを見たりしていると(いや、そんなにじろじろと見ているわけではないので。念のため)、なぜか胸の奥がじんわりと温かな気持ちになるし、彼が使っているであろう、いいにおいの洗剤の香りが漂うと、まるで彼に優しく包まれているような気分になるのである。

 こんなことばかり言っていると、わたしが彼に恋心を抱いて妄想ばかりしている痛い女だと勘違いをされるかもしれないが、それは断じて違う。まあ、好感を抱いていると言う以上、恋心に発展しないとも言い切れないけれど、わたしは特に何かを望んでいるわけでもないし、何か行動を起こそうとかいう気もない。

 ただ、最高のコーヒーを飲んでいるとき、特に最後の一杯を飲んでいる今日のような日は、隣の席に座るのは彼のように好感を抱いている人であればなお良し、というだけの話なのだ。

 わたしは右側のベンチシートをちらりと横目で見た。空いている。
 他に空いているのは窓際のカウンター席と、ゆったりと大きなソファ席。窓際の席は隣に女の人が座っているし、いつもテーブルで書き物をしている彼にはふんぞり返ってしまうソファ席は少々不向きだ。この中ならわたしの隣の席を選ぶのが自然だと思われる。

 特に重要なことなど書かれていないスケジュール帳を両手できゅっと握りしめて、その向こうにいる彼を覗き見る。いつものようにマスターと少しばかり言葉を交わして振り返り店内の空席を確かめる。彼はもう一度マスターの方を振り返って何か一言発すると、こちらにめがけて真っ直ぐ向かって、テーブルにリーフの絵が描かれたカプチーノを置いてわたしの隣の席に座った。

 そしてカプチーノをすうっと一口すすって軽く頷いて「うん。今日は本当に大当たりですね」と言った。その言葉は行き場もなくふわふわとあたりを彷徨って、しばらくしてから宛先に届いた。

 それはどうやらわたしに向けて発せられた言葉のようだ。

 わたしは慌てて手帳を手元に置いて声の方向に目を向けると、彼はわたしを覗き込むように見ながら微笑みながら言った。

「イルガチェフェ。飲んでるんでしょ?」

「え? ああ、はい」

「今日の豆は特別おいしく焙煎できたんだって、マスターが言ってた」

 わたしは狼狽してしまってろくに言葉も返せなかった。何が起こっているのかさえいまひとつ理解できていない。

「すいません、突然話しかけてしまって。迷惑ですよね」と彼は言った。

「あ、いや、そういうわけじゃないんですけど驚いちゃって。何て返していいかわからなくて。すいません」

 わたしの慌てぶりに彼も戸惑ってしまって「本当にすいません。今日のコーヒーがあんまりおいしかったから、なんか嬉しくなっちゃって」と明らかにテンションが下がってしまった感じになってしまった。これはまずい。

「たしかにおいしいですね、今日のイルガチェフェ。わたし、あんまり専門的なことはわかりませんけど、なんていうかいつまでも飲んでいたいって言うか……」

 いつまでも飲んでいたいって言うのはまあ、この店のコーヒーもこれからも飲みたいっていう意味も含まれていたのだけど、それを聞いた彼は少年のように目を輝かせた。

「ですよね。あんなクリーンなエスプレッソはそうそうお目にかかれない。クリーンで甘い余韻が続くからいつまでも飲んでたくなりますよね。いやあよかった。わかってくれて。毎日この店に来てる貴女ならわかってくれるんじゃないかと思って話しかけちゃったんです。毎朝ここに来ると貴女がここに座ってて、幸せそうにコーヒーを飲んでる。何ていうか仲間っていうか同志っていうか、勝手にそんな風に思って一緒にコーヒーを飲んでるような気になってたんです。だから……」

 素直に嬉しかった。わたしのことをちゃんと認識してくれていて、しかもわたしが思っているのと同じように感じている人がいてくれたのが、何より嬉しかった。

「でもわたしなんか全然素人なんで。コーヒーの違いもよくわからないし。ただここのコーヒーがおいしいってだけで」

「それで充分じゃないですか」と彼は言った。

「え?」

「細かい知識や味の違いがどうのこうのとか、そんなのどうでもいいじゃないですか。ここのコーヒーはおいしい。僕たちお客にとってはそれだけで最高に幸せなことだと思いますよ」

 そう言って彼はまたカプチーノをすすった。そして本当に幸せそうなため息とともに「うまいなあ」と言った。

 わたしはふと思った。

 この店に毎朝来て、ほとんど毎朝顔を合わせている常連の人たちも同じような気持ちなのかもしれない。いつも窓際のカウンターで外を見ながら煙草を吸っているあの女性も、もう少ししたらやってくるソファ席でスポーツ新聞を読んでいるあのおじさんも、冬でもアイスコーヒーを飲んでいるあのサラリーマンの人も。

 みんなこの店のコーヒーをそれぞれの付き合いかたで楽しんでいる。みんな同じものを飲んで幸せな気分になって、仕事に出かけていく。とても素敵なことだ。

 わたしはできるだけ余韻を楽しみ、店内をゆっくりと眺めながらコーヒーを飲み干した。最後の一口までクリーンなコーヒーだった。

 隣の彼はいつの間にか、いつものように書き物に没頭していた。わたしは彼の顔を覗き込んで「じゃあすいません。お先に」と言った。

 彼はペンを置いて顔を上げると「ああ、どうも。じゃあいってらっしゃい」と笑って言った。いってらっしゃい。いい響きだ。

 わたしが立ち上がると、コーヒーカップを拭いていたマスターが気づいて

「ありがとうございます」と声を掛けてくれた。

 わたしはマスターのもとに歩み寄って、レジの前に立った。そして「新しいコーヒーチケットをください」と言った。

 マスターはベンチシートで書き物に没頭している彼のほうにちらりと目をやり、「ありがとうございます」と微笑んで机の抽斗からコーヒーチケットを取り出した。

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