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できるかぎり同じ時間と空間を共有したい

今日は蔵本由紀さん(物理学者)による書籍『新しい自然学 - 非線形科学の可能性』より「『知ること』と『科学的に知ること』」という一節を読みました。一部を引用してみたいと思います。

言うまでもなく、科学的に知ることは「知ること」全体の中での一部でしかない。(中略)久しく会わなかった知人の顔を見て、直ちにその人とわかる。しかし、どうしてそのように判断できたかと問われても説明できない。(中略)その表現しがたい「何か」が暗黙知である。
言語というものからして、その意味を言語そのものによって説明しつくすことはできないだろう。最終的にはその意味が暗黙的にしか了解されないのが言語というものではないだろうか。たとえば、「痛い」という言葉の意味を私たちは直ちに了解するが、それはこの言葉をいろいろな文脈のなかで、さまざまな人たちとの間でこれまでに何千回となく使ってきた、そのような経験を通じて社会的に形成された意味がそこに込められているからではなかろうか。
科学的言明のユニークさは、その意味するところが完全に一義的ではないにしても、不確定性の幅がきわめて小さいことであろう。科学用語の意味は、たとえ文脈依存的であるとしてもまずあいまいさがなく、そのような言葉が誰にとっても同一の意味内容をもつ論理の規則に則って配列される。どのような状況においても、科学的言明がひどく違った意味に受け取られることはまずない。というよりこの条件を満たさない言明を科学的言明とは普通よばない。

「知識とはなんだろう?」
「そもそも知るとはどういうことだろう?」

たしかに自分が感じている、知っているのだけれど、言葉でどのように表現すればよいかは分からない、あるいは言葉で説明したとしても、全てを伝えきれていない気がする。誰しもが、そのようなもどかしい思いをしたことがあるのではないでしょうか。

言語化が困難な知識は「暗黙知」と呼ばれ、言語などによって説明・表現できる知識を「形式知」と対置されます。

言語にもさまざまな言語があります。今回読んだ範囲では、科学言語、日常言語、観察言語が登場しました。「文字」だけではなくて、図形や数式なども事象を描写、表現して伝えるための手段であり、言語と捉えることができます。

また、何かを言葉で伝えるとしても、言葉を伝える側と受け取る側で解釈の仕方が異なり、その場では分かりあったつもりでも後で認識が違っていた...という経験をしたことがある人も多いのではないでしょうか。

「その言葉が本当に意味することは何だろう」

このように自問してみると、同じ言葉、文字や単語を使っていたとしても、その人の価値観、経験や文化的背景などから自然と微かなニュアンスの違いが含まれてしまう気がするのです。言葉がまとっている見えない「何か」があるのです。

それでも何とかして誰かにその「何か」を伝えたくて、もっともらしい言葉を探してみる。単語が見当たらなけば絵や図を描いてみたりする。それでも伝わらないかもいしれないけれど、その過程で「この人は何かを伝えたい」と感じ取ることはできるかもしれないし、その「何か」を一緒に探りたいと思うこともあるかもしれません。

数字、数式というのは、「言葉」の中でも解釈の余地が少ない「言葉」だなとあらためて感じます。解釈の余地の少なさは「抽象度が高い」「論理演算が明確に定義されて厳密である」「測定できる」などに裏付けられていると思います。

一方で、伝えたい「何か」というのは往々にして個別・具体的であることが多いように思います。「全てを伝えているとは限らない」と思いながら数字や言葉にする過程で削ぎ落とされてしまった「何か」に意識を向けることも忘れないようにしたいです。

その削ぎ落とされてしまう「何か」を相手と共有したいから、できるかぎり同じ時間と空間を共有したい。そのように思うのです。

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