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疲れたとき、大変なときこそ適度にストレスをかける?

今日は『反脆弱性』(著:ナシーム・ニコラス・タレブ)から「競馬で勝つ方法」を読みました。

成功、経済成長、イノベーション。これらはいずれも、ストレスに対する「過剰補償」によるものだと著者は述べているのでした。「過剰補償」とは一体どのようなことなのでしょうか。

飛行機で大陸間を移動してくたくたになったら、休むよりも、ジムで少し運動したほうがいい。また、こんな有名な裏技もある。大急ぎでしなきゃならない仕事があるときには、会社でいちばん(または2番目に)忙しい人に頼むのがいい。ほとんどの人は暇な時間を無駄にしてしまう。暇な時間があると、人は機能が低下し、怠け、やる気をなくすからだ。忙しくなると、ほかの仕事もがむしゃらにこなすようになる。これも過剰補償の一例だ。

疲れたときにダラダラ休まず、軽く運動する。アクティブに休むことの効用は私も実感しています。週末は朝早く起きて家を出て、ヨガやトレーニングで汗を流してから一日をスタートする。

習慣化しているので、「少し身体が重いな…」と感じるときでも自然と家の外に出ます。ストレッチしたり負荷をかけると、血流が良くなって身体が温まり、気分も晴れやかになります。そのあとの時間も有意義に使えることが多く、自分に向いている時間の使い方なのだろうなと思っていました。

「過剰補償」とは適度に負荷やストレスをかけることで、消耗を補ってあり余る力が生まれること。自分事として捉えることができました。

マフィアのボスと同じで、有力なトレーダーほど声が小さいのだ。だから、聴衆が話を聴こうと耳をそばだてるくらいに、声を抑えたほうがいい。そうすれば、彼らの脳はフル回転になる。この注目のパラドックスについては、少しばかり研究が行われている。実際、「口下手」の効果を示す経験的証拠がある。聴こうという精神的な努力をすることで、脳はフル回転し、より活発で分析的な脳のメカニズムがオンになる。

「注目のパラドックス」という言葉は初めて知りました。「能動的に意識を使う」ということだと思いますが、頭に浮かんできたのは音楽です。特に、クラシックコンサートで、今にも消え入りそうなほど繊細な音の響きに包まれる。鳴っているのか、止んでいるのか分からないほどに繊細な音。

物理的には鳴り止んでいるかもしれないけれど、自分の中ではまだ鳴っているように感じられる。息を飲むように、時間が止まったかのように感じる。そのとき自分の意識はコンサートホールのステージ上に、奏者に、音に確かに向けられている。

エネルギーが強ければ勝手に飛び込んでくるわけですが、それは受動的である(意識を使っていない)ことに他ならないのだとすれば、むしろ「自ら探していく、見つけにいくような行動・姿勢の中にこそ意識が立ち現れる」と言えるのかもしれません。

周囲にちょっとだけ雑音があるほうが集中できるというのも、似たような過剰補償のメカニズムのひとつだ。まるで、そういう雑音を打ち消そうとする行為そのものが、私たちの精神の集中を研ぎ澄ますかのようだ。また、人間には、混雑するバーの雑音をシャットアウトし、騒々しい会話が飛び交う中から、信号のみを聞き分けるという、並外れた能力もある。つまり、私たちは過剰補償する力を持っているだけでなく、雑音を必要とするときもあるのだ。

「騒々しい会話が飛び交う中から、信号のみを聞き分ける」という言葉から思い出したのは、以前『触楽入門』を読んだときに出会った「確率共鳴」という言葉です。

雑音がある環境下では、弱い信号が確率的に雑音と共鳴し、強い信号として検知されるという現象です。もし雑音がなければ、弱い信号は強くなることはなく減衰していくばかりで、検知される可能性は下がってしまう。

たとえば、誰かが遭難したときに、その人を探す状況を考えます。自然界は雑音にあふれていますから「もしかしたら自分を呼んでいるかもしれない」と、雑音の中に声が聞こえないか意識を集中して耳を澄ませ続けながら探すのではないでしょうか。

雑菌、雑音、雑多など。「雑」と付くものを極力なくすことが望ましいと考えてしまうことがあるように思いますが、必ずしもそうではない。雑というのは「多様である」こと。多様だからこそ、互いに共鳴しあう中で個の存在が際立つのだということを忘れないようにしたいと思います。

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