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摩擦の再発見。つながる、歩く、すべる。

ふと、「摩擦は存在しないほうが望ましいのだろうか?」という問いが浮かんできた。なぜそのような問いが浮かんできたのかは自分でも分からない。とにかく浮かんできたのである。

デジタル技術によって、世界の様々な物事が相互のつながりを深めている。「つながりあるところに摩擦あり」だと思うわけだけれど、では摩擦は存在しなければよいのかというと、日常的な体験からそうでもないことは実感を伴って分かる。

たとえば、「歩く」ことはできるのは、地面と足の間に適切な摩擦が働いているから。逆に、雪や氷の上を歩いていて「すべる」とき、足と足場の間の摩擦がなく、足を踏み出すための引っ掛かりを失う。「歩く」という行為を支えている要素の一つは「適度な摩擦」である。

この「摩擦」という概念は、たとえば何かを学ぶ時にも生じているかもしれない。たとえば、本を一通り読み流し、書いてあることが「頭に入った」として、「では、それで分かったことになるのか?」と言われると、必ずしもそうではない。

どの程度意識しているかはともかく、「どういうこと?」「どうつながっているのだろう?」などの問いが浮かびながら読み進めていると、その問いが心のフックになって、書かれたことをつなぎ止めていくような気がする。

摩擦は言うなれば「引っ掛かり」であり、引っ掛かりがあるからこそ「何かと何かがつながる」とすれば、私たちが自然と有用な意味を引き出している「摩擦」を再発見することは大切なことなのかもしれない。

余談であるけれど、摩擦を研究するトライボロジー(摩擦学)という学問が存在することを知った。あくなき摩擦の探求が日常生活を支えている。

トライボロジー(摩擦学)とは、2つの物体が互いに滑り合うような相対運動を行った場合の相互作用を及ぼしあう接触面、およびそれに関連する実際問題についての科学技術の一分野である。

Wikipedia

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