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遊びの両義性(面白さと危険性)

ミゲル・シガール氏による書籍『プレイ・マターズ - 遊び心の哲学』を読みました。今日は「遊びと中毒性」について。「1章 遊び」より一部を引用してみます。

[第四に] 流用的であることの帰結として、遊びは撹乱的である(disruptive)。遊びが文脈を乗っとるとき、それは当の[もともとあった] 事態を破壊する。(中略)わたしたちは、遊び心を発揮して正常な事態を撹乱させる。それができるからこそ、わたしたちは、ある文脈を使って - そしてその内部で - 遊ぼうという意図のもとにそれを流用する際に、たんに楽しむ以上のことができるのである。そして同時にそれは、わたしたちが置かれている文脈の隠れた仕組みを暴露することでもある。
遊びの撹乱性は、さらに危険な領域に広がることもある。遊びは、わたしたちの心の平穏をかき乱すものにもなりえるのだ。遊びはギャンブルを通じて中毒になることがある。たとえば、宝くじを買うとか、スロットマシーン - 計算ずくの勝ち負けバランスによって人間の根っこにある衝動をそそのかすべくデザインされた機械 - をプレイするとかいうケースである。
遊びの撹乱性が示しているのは、わたしたちが遊びのレンズを通して見ているものが実は世界ではなく奈落の底 - わたしたちのもろい心が背負っている深い矛盾と危険 - である場合があるということだ。

遊びを考える際に重要なのは、「何で遊ぶか」よりも「どのように遊ぶか」であり、「快」の感情をもたらす営みと捉えるのがよいのでした。

「遊びはギャンブルを通じて中毒になることがある」

「快」の感情をもたらす行為は、時として危険なものになりえる。たしかにそのとおりだと思いました。

私自身の体験として、通っているホットヨガスタジオで開催されていた「50日連続チャレンジ」というイベントに参加したことを思い出しました。

50日間連続で通い続けたのですが、継続するなかでストレッチが深くなって心地良かったのは事実です。しかし、毎回発汗し続けることで内臓に疲労が蓄積してしまい、50日チャレンジの終盤ではヨガを終えても心地よさを感じることができなくなってしまったのです。

「ここまできたら引き返せない」
「何がなんでも50日達成したい」

そのような義務感が先行してしまい、自分の体調を客観的に捉えることができなかったのだと思います。本来は自分の心身を整えることが目的で、自由に休みを入れてもよいはずなのに、「きっと体調は戻るはず」という思い込みとともに、いつの間にか通い続けることが目的化してしまったのです。

たとえ目的がなくても、遊びは「それ自体が楽しい」という意味では日々の生活に充実感をもたらす行為として大事にしていきたいと思う一方、盲目的に続けることで自分や他者を傷つけないように、「自分を(相手を)労わることができているだろうか?」という問い、冷静さも持ち合わせていたい。

そのように思いました。

遊びにも「冷静と情熱のあいだ」ですね。

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