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世界を包み込むように捉えるということ

今日は蔵本由紀さん(物理学者)による書籍『新しい自然学 - 非線形科学の可能性』より「主語と述語」という一節を読みました。一部を引用してみたいと思います。

前節で述べたように、同一不変なものを基軸にして、人は変転と差異にみちた現象世界を理解しようとする。しかるに、同一不変性として二つの基本的カテゴリーが考えられる。人がものごとを理解するとき、その基本的なパターンは「何」が「どのように」あるかという形であろう。
「何」を基軸にしてものごとをながめることで、現象の多様性が単一のモノにまとめて認識される。程度の差はあっても、モノは概して安定している。一本の庭木は苗木から大木に成長し、季節とともにさまざまな姿を現すが、一本の木としての同一性を保持するものとして人は見ている。(中略)モノの同一不変性にもとづいたこのような世界把握の様式を以下では主語的統一とよぶことにしよう。
一方、「どのように」を基軸に現象世界を見ることもできる。これはモノと属性との間の主従関係を逆転して、さまざまな異なったモノが同一の状態に「於いてある」と見る見方である。夕陽もバラの花弁も炎もすべて赤いという状態に於いてある。「赤い」という性質が一つの場所を作っていて、そこに夕陽やバラや炎が包まれるというイメージである。個物が互いにばらばらではなく、さまざまなつながりをもってこの世界を構成していることが知られるのはこのような見方、つまり述語的統一によっている。

「主語的統一と述語的統一」

とても印象深い言葉です。現象とはどのように理解されるのでしょうか?
そもそも現象とは何でしょうか?

現象とはなんだろう?

広辞苑を引くと以下のように定義されています。

1.  観察されうるあらゆる事実。
2. 本質との相関的な概念として、本質の外面的な現れ。
3. (カントの用法)時間・空間やカテゴリーに規定されて現れているもの。
4. (フッサール現象学)純粋意識の領野に現れる志向的対象としての世界。

「観察されうるあらゆる事実」という定義は比較的理解しやすいと思いますが、その他の定義は一筋縄ではいきません。

「同一不変なものを基軸にして、人は変転と差異にみちた現象世界を理解しようとする」との著者の言葉を目にしたとき、現象とは「混沌から屹立する何か」と言えるのではないだろうかと思いました。

もし「変転と差異」が存在しなければ、変化も差異も見られない渾然一体とした世界が広がっているのでしょう。その混沌から「他と区別できる何か」が生まれる、というよりも見い出される。それが「現象」ということではないでしょうか。

生態心理学における「アフォーダンス」つまり、環境中に存在する「行為の可能性」にも通じます。

世界を包み込むように捉えるということ

観察する時の自分を思い起こしてみます。

言われてみれば、自然と「何」に注目していることが多いように思います。物体、行為の主体。「体」に意識を向けています。その「体」は変わることはないという信念に立脚して世界を眺めています。

たとえば、視覚や聴覚などの感覚器を通じた「見る」という行為は主語的な現象理解のように思います。

一方、気になるのは「述語的統一」という現象世界の理解の仕方です。一体どのようなことなのでしょうか。

「個物が互いにばらばらではなく、さまざまなつながりをもってこの世界を構成していることが知られる」との著者の言葉を借りれば、「つながり」や「共通項」を見い出すこと。

「つながり」とは、例示されているように特質(色や形など)であったり、行為や運動、応答などに現れる何かのパターンだったり。

「何」に意識を向けた主語的な捉え方はどちらかと言えば「閉じている」のに対して、「どのように」に意識を向けた述語的な捉え方は「開いている」ように思いました。多様な広がりがある。

「どうすれば現象世界を述語的に捉えることができるのだろう?」

そう考えると「意識を留めない」「重ね合わせてみる」という言葉が降りてきました。

「何」に注目しているときは、そこに意識が留まっているように思います。

また、「それ」だけに閉じた世界には、外から何かが入り込んでくる余白がありません。そこで、たとえば自分と「それ」の関係性に意識を向けてみてもよいわけです。

心地よい風が自分のまわりを通り抜けたとき、鬱々とした気持ちが晴れやかになったとしたら、風と自分の気持ちを重ね合わせたときに「流れている」という共通項を見い出すことができます。

意識を留めない・重ね合わせてみると書きましたが、「自分の意識を広げて包み込むように捉える」と言うほうが何だかしっくりきました。

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