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「しっくりくる」

今日は『生活工芸の時代』より「朝食とケメックス」という節を読みました。コーヒーメーカーの佇まいからにじむ美しさ。一部を引用してみたいと思います。

朝のコーヒーには、ケメックスのコーヒーメーカーを愛用しています。(中略)それから一年ほどしてからです。ある雑誌の取材で、僕の愛用品としてケメックスが掲載されたことがありました。それからでした、「あのケメックスの取手が欲しい」という問い合わせをいただくようになったのは。でも、取手は元々ついているのですから、使う分にはなにも問題はないはずです。それでも、僕が感じたのと同じように、取手部分の仕上げや素材感が気になる、と感じていた人がたくさんいらした。僕はそのこと、素材と仕上げに対する感覚を共有できたことが嬉しく、またそこから新たに教えてもらったように思いました。
ケメックスの取手のことから、僕はふたつを学んだように思います。ひとつは木工の可能性についてです。木の取手は部品のようなものですから、いわゆる工芸の範疇には入らないし、かといってプロダクトの仕事にもならないものです。胸を張って作品とはいえないような、作家としての満足感も持てないような品物だと思います。でも、なんというのでしょうか、作品と商品の中間のような、隙間のようなところにある仕事に対して、多くの人が賛同し、求めて下さった。それは木工のひとつの可能性ではないか、と思ったのでした。
それからもうひとつ感じたのは「共感」による広がりということ。ここで思ったのは、声高にアピールしなくても、自分の「好き」を素直に伝えれば、そこに「共感」という広がりが生まれ、それを受信するひとが必ずいるということ。(中略)でも生活の中の小さな気付きや発見を大切にしながら、ものを作っていけば、(実/意味のあるものであるなら)それに「共感」するひとがどこかに必ずいてくれる。

ケメックス(CHEMEX)のコーヒーメーカー、本書を読んで初めて知ったのですが、そのシルエット、フォルムの美しさに思わずため息が出ました。

ガラスの緩やかな流線形、つややかでふくらみのある木の取手の温かみ。
自分の心に「スッと入る」というのか、いつまでも見ていられそうです。
触れても心地よいのだろうな、と伝わってきます。

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木工デザイナーである三谷さんは、CHEMEXのコーヒメーカーを使っているうちに「元々付いていた取手には、木というよりは草の一種のような素材が使われ、仕上げも表面をウレタン塗料でべったり固めてあるところが不満だった」そうで、木の取手部分だけを桜材で作り直したそうです。

「取り替えると、形は同じだけれど見違えるようによくなった」とのことですが、自分事としてとらえると「日常生活の中で、モノの素材感や仕上げに違和感を覚えることが、はたしてどれだけあるだろうか」と。「その違和感はどこからくるのだろうか」と思ってしまいました。

作り手の方々は何のために、どのような想いで作ったのだろうか。そうしたことを考えながら、ていねいに時間をかけて観察してゆく。その積み重ねが自分の中で違和感に気づくモノサシとなるのかもしれません。

そして「共感による広がり」について。

「利他をさまたげるものは作意である」という言葉を思い返してみますと、今回のエピソードの共感は「自然と湧き上がってくる」というか、押しつけがましくないなと感じました。

「取手部分の仕上げや素材感が気になる」と感じる方々が三谷さんの他にもいらっしゃったということですが、三谷さんの自然体での「しっくりくる」が伝わったというところが素敵だなと思うのです。

「好き」や「こう思う」よりも「しっくりくる」

「しっくりくる」という言葉の穏やかで落ち着きのある響きが、心地よいです。

日常生活の中にある自分の「しっくりくる」を見つけて、言葉にしていけたらと思います。もっと自由に。

「声高にアピールしなくても、自分の好きを素直に伝えれば、そこに共感という広がりが生まれ、それを受信するひとが必ずいる」

この言葉が胸に残ります。

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