言葉とは「人それぞれの思いを受け入れる器」なのかもしれない

今日は蔵本由紀さん(物理学者)による書籍『新しい自然学 - 非線形科学の可能性』より「明晰判明さとあいまいさ」という一節を読みました。一部を引用してみたいと思います。

多分にあいまいさを含んでいる点で日常言語は科学的記述に不向きではあるが、反面それがもつイメージ性は、直感や無意識にじかに働きかけてくる力をもっている。その力が科学的な意味の把握をしばしば格段に容易にするのである。さらに、日常言語のもつあいまいさは、まだ明確に意識化されていないさまざまな想念へとつながるチャネルを保障している。
たとえば、「滑らかな曲面」という言葉はまず誤解の余地のない幾何学的意味をもっているので、科学用語としてまったく適切である。しかし、この言葉に触れて喚起される意味はこのような公共的なものだけではなく、さまざまな私的想念が湧き起こって当然である。昨夜テレビで観た丘陵地帯の風景や、台所の食器類がちらりと頭をかすめるかもしれない。個人の過去の経験や置かれた状況などによって触発される想念はいろいろであろう。
暗黙の意味はこのようにさまざまであって、それらが異なった人々に共有されることはまったく期待されていない。しかし、その言葉が共有可能な確定的な意味の芯さえもっていれば科学の言葉としては合格である。(中略)まったくあいまいさなくとらえることのできるこの世の事象はごく限られている。明晰判明性に病的に固執すれば、科学的自然描写の可能性はひどく狭いものになる。

「言葉のあいまいさにある両義性」

この言葉に触れたとき、なんだか胸がすくような感覚を覚えました。

「曖昧(あいまい)」という言葉を聞いたとき、どのような印象を受けるでしょうか。理解の欠如、もどかしさ、不安。私は自然とどこか後向きな印象を受けてしまうことに気づきました。

科学的な態度とは誰もが共通の理解に至る厳密さが求められ、その上に知が重ねることで体系として発展しています。そして、その恩恵を受けることで私たちの日常生活は成り立っています。

「明晰判明さの追求」とは「解釈の余地を極力なくす」と言えますが、一方で、言葉の周囲には、その言葉から連想される個人的な体験や経験という、人それぞれ違う「空気」のようなものをまとっているように思います。

その具体的な「何か」が自分の考えを前に進める糸口になるかもしれないですし、同じ言葉を使っていても、それぞれのニュアンスが異なるからこそ、お互いに違う視点や可能性に気づくことができるのかもしれない。そう思うと「あいまいであるとは、かたまりきっておらず自由であること」と捉え直すことができます。

「言葉とは、人それぞれの思いを受け入れる器なのかもしれない」

そんな言葉が降りてきました。

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