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本来は潤沢なはずなのに、なぜか希少になっているものは何だろう?

今日は、ジェレミー・リフキン氏(文明評論家・経済評論家)による書籍『限界費用ゼロ社会 - <モノのインターネット>と共有型経済の台頭』より「極限生産性とモノとインターネットと無料のエネルギー」という章のイントロダクションを読みました。一部を引用してみたいと思います。

もし私が二五年前にこんなことを言ったとしたらどうだろう? 四半世紀後には、人類の三分の一が、何億もの人から成る巨大なグローバル・ネットワークで連絡をとり合い(音声や動画、テキストをやり取りし)、世界の知識の総体に携帯電話からアクセスでき、一個人でも同時に一〇億人を相手に、新しいアイディアを投稿したり、製品を紹介したり、考えを伝えたりできるようになる。しかもそれにかかるコストはゼロに近い、と。
また、無料に近い情報で無料に近いグリーンエネルギーが管理されるようになり、インテリジェントなコミュニケーション/エネルギーのマトリックスとインフラが造られたらどうだろう? そうすれば、世界のどんな事業者も接続し、大陸エネルギー・インターネット全体でエネルギーをシェアでき、今日のグローバルな製造業大手がつける価格の何分の一かで財を製造・販売できるようになる。
さらに、あらゆる産業や職業分野、専門分野の働き手にインテリジェント・テクノロジーが取って代わり、企業が文明世界のビジネス活動の多くをより安く効率的に行えるようになり、財とサービスの生産と流通における限界費用がほぼゼロまで急落したらどうだろう?

「限界費用」という用語は経済学や戦略論で用いられますが、この「限界」という言葉がわかりにくいですよね。

英語では"marginal"となります。何かを追加で生み出すときにかかる費用、追加的な費用と考えれば十分です。

「財とサービスの生産と流通における限界費用がほぼゼロまで急落したらどうだろう?」という問いが著者から投げかけられていますが、この問いの背景には「デジタル化」があります。

デジタルコンテンツは一度作ってしまえば、無料で・瞬時に・大量に・複製(=追加生産)・配信(=流通)ができます。時間も労力もかかりません。

「限界費用がゼロに近づく」とはどういうことか、身の回りの事例を考える上でのヒントになると思います。「費用」は金銭的支出を伴うものに限らずかかる時間や手間暇など広義の費用として考えてみるとよいと思います。

「限界費用ゼロ社会とはどのような社会だろう?」とイメージしてみると、「潤沢に生まれた何かが摩擦なく流れ続ける社会」ということなのではないかと思います。

摩擦というのは「自分だけでは自由に処分できない」というニュアンスを込めているのですが、他者との「取引」が介在しないとも言えるかもしれません。

「取引」には、対象の価値の真正性を評価する、対価に見合うかを考えるなど、何かしらの手間暇が発生します。その手間暇は何かが流れる上での「摩擦」なのではないか。そのように思ったのです。

「潤沢に生まれる何か」というのは、本書でも取り上げられているような、情報(文字、音声、画像、動画etc)、アイデア、エネルギー。

フリー(Free)という言葉には「無料」と「自由」の2つの意味があるわけですが、その無料と自由の源泉は「潤沢さ」にあります。もしその何かが希少であれば「所有」あるいは「利用」に対価の支払いが発生します。(希少なものでも無償で与える営みは取引というよりも交換、交換よりも贈与と考えるほうが良さそうです)

身のまわりに潤沢にある「きれいな空気」を吸うことには、毎回対価を払っていません(きれいな空気が希少かつ私的所有がされていれば別ですが...)。そんなことをしていたら、いくらお金があっても足りないでしょうし、そもそもそのような社会は生きるに値しない、未来に残すに値しない社会だろうと思います。

話は横道にそれましたが「限界費用がゼロになる」という言葉の裏側にある「潤沢さ」に目を向けたいです。あらゆるものを「希少」にして「対価」を要求する社会、というのは、はたして健全な社会なのでしょうか。

もちろんデジタルではないリアルの世界には物質的な希少性がありますし、時間的な希少性などもありますから「希少性をゼロにする」ことは非現実的と思われる領域もあると思います。

「本来は潤沢なはずなのに、なぜか希少になっているものは何だろう?」
「潤沢さを取り戻すにはどうすればいいのだろう?」

いま一度、考えてみたい問いです。

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