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潤沢さで希少性を駆逐する

今日は、ジェレミー・リフキン氏(文明評論家・経済評論家)による書籍『限界費用ゼロ社会 - <モノのインターネット>と共有型経済の台頭』より「割高な化石燃料」という一節を読みました。一部を引用してみたいと思います。

維持管理費が膨らむ一方の中央集中型の電気通信や、化石燃料エネルギー生産、内燃機関を用いた輸送に依存する、古い第二次産業革命のマトリックス(しかも、そのコストは日ごとに増えている)と、劇的にコストが減っている第三次産業革命のコミュニケーション/エネルギー/輸送のネットワークとを比較すれば、後者のほうが将来性があることは明らかだ。
インターネット通信はすでに限界費用がほぼゼロで生み出され、シェアされており、何百万という初期利用者にとって、太陽光や風による発電についても同じことが言える。そして将来は、自動化された輸送とロジスティクスも、限界費用がほぼゼロに向かってゆくだろう。
まだ十分な理解が浸透していないが、化石燃料エネルギーはけっして限界費用ゼロに迫ることはないどころか、近づきさえしない。それに対して、再生可能エネルギーはすでに何百万という初期利用者にほぼゼロの限界費用を実現している。
地球上のすべての人がグリーンエネルギーを生み出し、IoTを通してこれまた限界費用がほぼゼロでシェアできるよう、再生可能エネルギーの規模を拡大することこそ、資本主義の市場から協働型コモンズへ移行しつつある文明にとって、次なる重要課題なのだ。

コモンズ(Commons)とは「共有資源」を意味し、その起源は近代以前のヨーロッパにおける資源を共同管理する共有地(牧草地など)に遡ります。

1968年、アメリカの生物学者であるギャレット・ハーディンがサイエンス誌に「コモンズ(共有地)の悲劇」という論文を発表し、コモンズという概念が広く認知されるようになりました。

牧草地の例で言えば、複数の農民が共有で管理する牧草地に牛を放牧すると、(自分の利益だけを追求する、つまり利己的だと仮定される)それぞれの農民が自分の利益を最大化しようとして多くの牛を放牧します。

その場合もし自分が牛を放牧しなければ、他の農民が牛を増やしてしまい、利益が減ってしまうので、資源がなくなるまで際限なく牛を放し続けます。もし私有地であれば、その土地をできる限り長く使い続けられるように適切な努力を払って管理をするでしょう。

このように「コモンズの悲劇」とは共有地を自由に利用する結果、全利用者が被害を受けてしまう状況を指します。

なぜ「コモンズの悲劇」が生まれてしまうのでしょうか?

前提を紐解けば「各人が他者に配慮しない利己的な存在であること」そして「共有資源が有限であること」という二つがあります。

「地球上のすべての人がグリーンエネルギーを生み出し、IoTを通してこれまた限界費用がほぼゼロでシェアする」という将来像は「共有資源の有限性」から解放されることを示唆しているように思います。

そして、限界費用ゼロでのシェアとは「自己中心的な(結果的に)利他」を意味しているように思います。自分で消費するためにエネルギーを生み出したけれど余ってしまったから「おすそ分け」します、というイメージです。

「資本主義の市場から協働型コモンズへ」

もしも、全人類が使い切れないほどに、グリーンエネルギーが限界費用ゼロで潤沢に生み出される時代が到来するならば、エネルギー取引による生産者利益は消滅することから、利益の永続的成長を運動の原動力とする資本主義は行き場を失ってしまう。

そのように考えていると、しばしば「悪貨が良貨を駆逐する」という言葉で表される「グレシャムの法則」のことを思い出しました。

これは、売り手と買い手の間に「情報の非対称性」が存在し、買い手からは売り手の商品の品質が不確かな場合は平均的な品質で評価する他ないため、買い手は平均的な品質に対する評価額しか支払わないことから良質な製品を提供する業者が市場から退出してしまうことを意味します。

「良貨で悪貨を駆逐することはできないだろうか?」という逆の発想を援用してみると、もしかしたら「潤沢さで希少性を駆逐する」ことがあるのかもしれない。

そのようなことを思いました。

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