「イメージに囚われない」ということ〜流れとしてのイメージ〜
「イメージは流動的であり、時には手放してしまうほうがよい」
そのようなことを思うわけです。
5月6日(月・祝)のクラシックコンサート本番に向けて練習、調整を進めています。「音を奏でる」というとき、その音がいったい何を描き出しているのか。楽譜に記された内容を理解し、イメージを持つことは演奏において大切な支えとなる一方、そのイメージに過度に囚われてしまうと演奏の妨げになるようにも思える。
固定的なイメージは諸刃の剣のようなところがあり、「過去の延長線上に未来を描く」、あるいは「決められた枠に現在を押し込める」ような側面があります。
一方、演奏は英語で「Live(生命・生きている)」と表現されるように、それは過去を再現するようなものではなく、相即相入、縁起の論理による流れであり、ゆえに予定不調和です。演奏がどのようなものとなるのかは、その瞬間になってみないと分からない。
複数人が一つの音楽を奏でるとき、一人ひとりの奏者の状態は時々によって違います。本番のステージで緊張が高まれば心拍の鼓動は早まるかもしれませんし、いつもよりも呼吸が入らないかもしれない。あるいは本番の空気が集中力を高めることにつながり、練習時とは比にならないほどに息が合った演奏になるかもしれません。
いずれにしても、指揮者と奏者、奏者と奏者の間の「有機的な協調」が必要になります。コンサート本番には本番固有の空気、音楽の流れがあり、ある瞬間の偶発的なインスピレーションが演奏に過去にない深みを与えることもあります。
イメージは持ちながらも囚われず、今にただただ集中して、その瞬間瞬間の響きを大切にする。その偶発性を受け取る「余白」を作るために練習を積み重ねる。
過剰な緊張は視野を狭めてしまいますから「何が起きても大丈夫」と思えるように、緩衝地帯、気持ちを切り替える場所を作っておくことが、「余白」が余白として在るために必要だと思うのです。
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