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「適切な量を測る」ということ。
植物が育つためには少なくとも「水・光・空気」が必要だけれど、これは人も同じではないかと思うのです。
当たり前のことのように思われますが、「ではどの程度の量があれば十分なのだろうか」と考えると、少なすぎても多すぎてもいけない、適切な量があるはずです。
水がなければ枯れてしまうし、与えすぎても枯れてしまう。光がなければ光合成ができず、強すぎる光は有害であるし、空気がなければやはり光合成はできないし、(二酸化炭素のように)多すぎても害となります。
この「適切な量」はどのように分かるのだろうと考えてみると、必要(需要)が先にあって、その必要を満たすのに十分な量(供給)がついてくる。
喉が乾いたり、空気が乾燥していると感じたりすることが起点となって水分を取ろうとします。適切な要素が適切な量だけ組み合わさる、つまり調和することで真に血肉化してゆく。
水・光・空気を例に出してみましたが、このように考えてみると、はたして自分は「あるものについてどれだけの量が必要なのだろう?」という問いが浮かんできます。
有形物であれば、そこには必然的に空間的な制約、上限が伴います。一方、現代社会においては物質的な物以上に、データ、情報、お金(概念、データとしての貨幣)などの(それこそ自己増殖し続ける)無形物にあふれているわけですが、それらは空間的制約、時間的制約はほぼ存在しないように思われます。もう少し視野を広げてみれば、地位や名誉、愛情といった事柄なども含まれるかもしれません。
とすれば、世の中にあふれ続ける「無形物」の一人ひとりにとっての適切な量の測り方が必要とされているのかもしれません。
自分にとっての必要は一体どこから生まれるのでしょう。自分の外から?それとも内から?あるいはその両方?
ああ、水!
水よ、そなたには、味も、色も、風味もない、そなたを定義することはできない、人はただ、そなたを知らずに、そなたを味わう。そなたは生命に必要なのではない、そなたが生命なのだ。そなたは、感覚によって説明しがたい喜びで僕らを満たしてくれる。そなたといっしょに、ぼくらの内部にふたたび戻ってくる、一度ぼくらがあきらめた能力が。そなたの恩寵で、ぼくらの中に涸れはてた心の泉がすべてまたわき出してくる。
本然というものは、立証されるものではない。もしオレンジの木が、この土地で、そして他の土地ではなしに、丈夫な根を張り、多くの実を結ぶとしたら、この土地が、オレンジの本然なのだ。もしこの宗教が、この修練が、この価値の基準が、この活動形態が、そしてそれのみが、人間に、あの充実感を与え、彼の心の中の知られずにいた王者を解放するに役立つとしたら、それはこの価値の基準が、この修練が、この活動形態が、人間の本然だからだ。では理論は?理論はちと自分で苦労して、人生を知るのがよいのだ。
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