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理論が先で実践が後?実践が先で理論が後?

今日は『反脆弱性』(著:ナシーム・ニコラス・タレブ)から「私が「鳥に飛び方を教える」現象の誤りを暴いたとき」「証拠がこっちを見つめている」を読みました。

「ハンマーを持つと全てが釘に見える」との言葉がありますが、何かの理論や枠組みを知る・身につけると、理論を現実とすり替えてしまうことが起き得るかもしれない。

「反脆弱性」「オプション性」という考え方は「このシステムは、脆いのだろうか?反脆いのだろうか?」という問いを立てる機会を与えてくれます。理論を使う際にも「その理論はどのような時に適用可能なのか?」という、前提条件を忘れてしまうと誤った使い方になりかねません。

実践家は書かない。実践する。鳥は飛ぶ。鳥の話を書くのは、鳥に教える人たちだ。(中略)違う。私たちは理論を実践するのではない。実践から理論を生み出すのだ。私たちが言いたいのはそれだった。この話からも容易に想像できるように、この種の取り違えはどこにでもある。治療は理論の母(ex tura theoria nascitur)であって、決してその逆ではない。

「実践から理論を生み出す」

先人たちが築き上げた理論を学ぶことも、もちろん重要だと思います。一方で、自分で試行錯誤した結果得られた学びが集まり、体系化していった先に自分なりの理論が生まれたとしたら、正しいか否かはあるにせよ大切にすべきものだと思います。

私たちはみな、公理に基づいて教科書から幾何学を学ぶ。たとえば、『ユークリッド原論』などだ。そして、現代人が家や大聖堂など、美しい幾何学形状をした建物を建てられるのは、幾何学を学んだおかげだと考えがちだ。その逆は考えづらい。(中略)蒸気機関は産業革命の2000年くらい前、ギリシアの人々によって発見され、作られていた。つまり、実用化されるものは、理論ではなく実践から生まれようとする傾向があるのだ。

建築や機械は理論から発明されたのではなく、実践から生まれている。これはつまり、実践を通じて「何かの理」を見出し、それを形式知化して誰もが使えるようになると、その応用先が広がり、社会を変えていく。

建物についても、試行錯誤しながら構造的安定性、美観のバランスを考えてゆく。「ここが最もおさまりのよい」と感じたところに落ち着けば、「なぜそのような状態の時におさまりがよいと感じるのか?」との問いが生まれ、その問いが触媒となってさらなる問いを生み出し、問いと問いがつながって理論に昇華されてゆく。

世の中には、師匠から弟子へと伝えられてきた、そしてそういう方法でのみ伝えられてきたノウハウというものがある。それは、淘汰のプロセスとして必要だからでもあり、職業の威厳を高めるためでもあり、その場その場で知識を教えるためでもある。だが、そういうノウハウは体系的に伝えられてきたわけではない。一方、体系的な知識の果たす役割がえてして過大評価されるのは、単純に目に見えやすいからなのだ。

単純に目に見えやすい体系的な知識は得てして過大評価されやすい。とすれば「目に見えにくい物事・知識にも意識を向けっよう」というメッセージでもあると思いました。

目に見えにくい物事・知識は「体験的・身体的」であることが多いように思うのですが、あらゆるデータがデジタル化されている昨今、自分の身体性に根ざした経験や感覚に意識を向ける機会は少ないのかもしれません。

知識や理論を学ぶ際には「なぜ成り立つのか?」「それはどのような状況で役にたつ・意味があるのか?」等、鵜呑みにせず健全に批判的に眺めることが求められるのだと感じました。

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