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一つ世界のさまざまなあり方を知ることは、それだけ豊かな生を生きること

今日は蔵本由紀さん(物理学者)による書籍『新しい自然学 - 非線形科学の可能性』より「力学の再発見」という一節を読みました。一部を引用してみたいと思います。

幼児にとって世界は意外性にみちているが、成長とともに事物は次第にしかるべき位置にそれぞれ収まり、それらの相互関係も安定したものになる。実際、身の回りの事物が思惑に反した意外な挙動や反応を次々に示すならば、成人にとってまともな社会生活は営めないであろう。
ほとんどの事物があらためて意識する必要のない安定したものとして個人の了解の下にあるおかげで、心的エネルギーを他の生産的な活動に振り向けることができる。このことは心の健常者にとって誠に感謝すべきことと言わなければならない。
しかし、このようにして安定化した世界は、また惰性化した世界でもある。決まりきったやり方でしか世界を見ないのではなく、一つ世界のさまざまなあり方を知ることは、それだけ豊かな生を生きることである。惰性的に分節化された世界が世界の唯一のあり方ではないこと、事物間の距離概念は決して一義的ではないことを新しい自然学は教えている。惰性化された世界像に揺さぶりをかけ、精神の新しい地平を切り開く機能はもっぱら芸術によって担われると考えられているが、まったく別の角度からとはいえ、現代科学もまた類似の機能をもちうるのである。それは現代科学の一部に顕著に見られる述語統一的性格に負うところが大きい。

「安定に向かう不安定を繰り返しながら生きている」

そんな言葉が降りてきました。

たとえば、じっと真っすぐに立っているよりも、自然なペースで歩いているときのほうが身体のバランスを取るのが楽だな、と思います。左足と右足を交互に動かしながら前に進んでいると、ある一定の幅の中に流れやリズムが生まれ、その中に自分の中心軸がおさまっていると落ち着くのです。行きと帰りを繰り返す振り子のゆれのように。

「決まりきったやり方でしか世界を見ないのではなく、一つ世界のさまざまなあり方を知ることは、それだけ豊かな生を生きることである」

「安定化した世界は、また惰性化した世界でもある」

こうした蔵本さんの言葉を受けて「自分はどれだけ世界の見方を知っているだろうか」と考えてしまいました。

「インターネットで検索すれば大抵のことは分かる」との声も聞かれますが、「世界のさまざまなあり方」というのは検索すれば簡単に分かるようなものではないような気がします。

得てして「生活に刺激が足りない」と思うと、芸術に触れたり、旅をしたりと新しいモノやコトに触れて、その欠けた部分を埋めようとすることが多いのではないでしょうか。

一方、「現代科学もまた類似の機能をもちうるのである」という蔵本さんの言葉は、安定化した世界、惰性化した世界でも、新しい発見や感動に気づいていないだけだ、というメッセージのように思えました。

事物をシンプルに抽象化して、そのふるまいや性質、つながりを見い出してゆく。

世界のあり方を様々に捉えられるよう、見慣れた物事の新しい側面を見出せられるよう、学び続けてゆきたいと思いました。

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