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森達也監督が『愛について語るときにイケダの語ること』評で書かれた大きな不満、「死者は監督になれるのか?」ということについて。

現在発売中の「週刊金曜日」で森達也監督が、私が共同プロデューサー・構成・編集を担当している『愛について語るときにイケダの語ること』についてコラムを書いてくださっています!
私は映画制作者になる前から森監督作品を観ていて、特にフジテレビNONFIXで作られた『職業欄はエスパー』には衝撃を受け、後に自分もNONFIXを目指し、『バリアフリーコミュニケーション』を作ったということもあり、とても光栄です。。

このコラムの表題にある森監督の「大きな不満」というのは読まれる方もいると思うので詳細は省きますが、作品の内容についてではなく、本作の「監督」としてクレジットされているのが、編集前に既に亡くなっている池田英彦さん(企画・主演・撮影)という点です
(実は、その辺、公開中に販売するパンフレットにも「監督は誰だ?」というタイトルでプロデューサーの真野勝成さんと対談しているのでご興味ありましたらそちらも是非!)。

森監督は[編集が最終的に作品を支配する]ということで暗に佐々木(私)が監督ではないか、と指摘しておられていて、そして、我々が監督のクレジットを池田さんにした動機を[死んだ者への形式的な善意]として[それは作品で描いていることと真逆の行為なのでそれは違うのではないか]と、そういった内容のことを書かれています。

おそらく森監督は色々理解した上で、あえてこう投げかけられたとは思います。
なので、反論、ではなく、私の視点でこの件についてちょっと語ります。

自分で思っているだけかもしれませんが、私は特に善意の人間ではありません。
障害を持った方が出てくる作品をよく作っているので誤解されがちですが、弱者(と勝手にカテゴリーされる方たち)に優しい人間でもなく。
作る動機は、基本、面白そうだから、です。
そこに悪意はないですが、善意もないです。

今回、私は池田さんが始めたことが面白そうだから引き継いで編集しただけです
去年の今頃、自粛期間中に、この作品の編集を部屋にこもって一人黙々とやっていました。
その時期の厭世的な気分もあるかもしれませんが、私は一度しか会っていない死んだ池田さんと対話するような気持ちで彼が命がけで残した映像を、その想いと意味を探りながら全力で繋ぎました。
それは客観的に、でも憑依して、という不思議な編集作業でした。
一人でやっているけど、池田さん、そして真野さんと一緒にいるような、遊んでいるような。
珍しく編集しながら泣いたりしちゃって、そんなこんなでいつの間にかできてました。
池田さんが納得するような形の作品ができた、と心から思いました。

だから、これを自分の監督作とは呼べない。
それだけです。

善意でもなんでもなく、クリエイティブの観点でそれが当然だと思っています。

しかし、これはあくまで共同制作者である私の視点であり考えなので、どう捉えられても構いません。

ちなみに私の前作「ナイトクルージング」は生まれついての視覚障害者が映画を監督する、という作品でしたが、今作は既に亡くなっている人が監督した映画。
言ってみれば「映画を作るとは何か?監督とは何か?」シリーズで、もちろん偶然、、、ではないです。

というわけでいつもの物議を醸す予感がしてきました。w

池田英彦監督作品「愛について語るときにイケダの語ること」、6月25日(金)アップリンク吉祥寺にて公開です!
https://ikedakataru.movie

よろしくお願いいたします!!


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