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敵を愛する

批判される事は嫌いではありません。むしろ自分の限界を教えてくださるので、なにくそと頑張るモチベーションになります。

ですから、私は私の敵を愛します。

「高貴な人間はその敵にすら、どれほどの畏敬を抱いていることだろう!─そしてこうした畏敬の念は、すでに愛への懸け橋なのである……。こうした人間は自分の敵を求めるが、それはみずからを際立たせるためである。には、軽蔑すべきところのまったくない敵、尊敬すべきところが非常に多い敵でなければ、耐えられないのだ!」ニーチェ『道徳の系譜学』中山元訳、光文社古典新訳文庫 p.112-113

単なる侮辱、誹謗中傷は、相手にしないでいると、大抵去っていきます。まあまともに相手をすると、多くの人は白旗を上げて、降参してしまいます。そしてやはり去っていきます。礼儀も道理も弁えなくて、他人を攻撃するだけの人は、自分が攻撃されると弱いのです。その程度の人にはなるべく時間をかけない事です。

学生の頃は大勢の中に入っていく少年ではありませんでしたが、成績もそれなりに良く、学級委員なども勤めていましたので、周囲からも一目置かれていました。少数ですが、話せる友人もいました。読書が好きで、図書館に通ってばかりいましたので、独りが辛いこともありませんでした。子供たちの中にも政治というものはあって、不良の子などがいるのですが、私の両親は気にしないし、私も良くわかっていないので、普通につき合います。つき合うと、根は良い子である事が多いのですね。

社会人になって、職場でも、派閥のようなものはありましたが、私はどこにも属さないで、それなりの仕事をしますし、叱られてもへこたれずに頑張りますので、やはりそれなりの敬意は払われるようになります。片方の派閥の人が、対立する相手に対して「あいつをなんとかしろ」と私に言って来ます。「あいつとは話せない」というわけです。良く聞くと、その相手の子は、対立する相手には高慢で、攻撃的な態度を取るらしいのです。ところがその子は、私に対してはしおらしくて、話も聞くのですね。その子自身も問題は認識していて、なんとかしたいと頑張っているのですが、空回りばかりしていました。私も応援したいと思って、一所懸命にアドバイスなどもしていましたが、結局うまく行かずに、去ってしまいました。

意識してこのようなポジションを取ろうとしているのではありませんし、むしろ周囲に望まれる事をやっていると、不思議とこのような立ち位置になっているのです。それが私のキャラクターで、また要求される事に応えられる能力もあるという事なのでしょう。

似たようなポジションの方を探すと、官房長官時代の菅義偉首相を思い浮かべます。菅さんが内閣総理大臣になったのは、自民党内部の一部の派閥に後押しされての事でしたので、内閣総理大臣になってしまった時点で、菅さんは御自身の強みを失ってしまったのではないでしょうか。

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菅義偉 第99代内閣総理大臣


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