校閲
古文書解読のふりがなに「ママ」というものがある。
著作物というものは作者の意図に反する改変は出来ないことになっているので、組版の段階での出版物は原稿通りに文書を組んでいくのが基本であって、客観的事実の誤謬でもない限り校閲して内容を変更するということは出版ではしない。
識字率と文書の正確性というものは反比例することが古文書解読から明らかになっているのであるが、識字率の低かった室町時代の方が残されている文書は正確に表記されているものが多く、江戸時代ぐらいになると識字率が上がって文書の誤字や誤用が増えてくる。漢字もかなも江戸時代の文書では崩し方が筆順通り崩されていないとかその文脈ではその文字ではないという文字が記されていることがあって、後の時代にその文書に校閲で「ママ」と振ったのである。
現代でも電子文書で変換誤植や予測変換による誤植というものが頻繁に起きるので、それがなぜ起きるのかを考えてみたところ、ある文書を作成する作成環境に於いて使用する辞書機能に団体や組織によって扱いがちな用語というものがあって、例えばヘイトスピーチを人権侵害事案として記録するPCで文書を作成すると辞書がヘイトスピーチを学習していて、変換誤植の内容が差別的表現に予測変換で置き換わってしまいがちになり、そういう文書に校閲を加えないと、ヘイトスピーチ誤植が出版されてしまったりするのかもしれない。学習機能でAIがネトウヨに成長してしまったという事例もあったことでもあるし、ゲバ文字表現をアジビラで組むPCとかで文書を組むと変換誤植で体制打破とか市民団結とかが誤植されやすくなってしまうのかもしれない。
古文書解読に於いて明らかに誤用でもママと振って原文を書いた人間の表現を保存しているので書いた人間が誤用や誤字を記してもその誤用や誤字は校閲されることは基本ない。
漱石枕流という四字熟語があるが、漱流枕石ではないのか、と指摘しても誤用とは認めなかったということもある。(夏目漱石の筆名の由来になった故事)
文芸作品では新聞記事とは違う校閲をするので、分かりやすく言えば、小説で難局大陸に調査に行ったと表現されていたら原文ママであり、新聞記事で難局大陸にアデリーペンギンを見に行くとなれば、南極大陸と校閲して表記を直す。
行政文書で表記不統一のものが散見されて、「い」や「の」のフォントが文書中で不統一だったり、日付の表記が3/3と3月3日が併存している、というのは作成ミスであって本来、公開前に校閲して表記統一を施す性質のものである。
文書中でフォントを変更して内容のメリハリやメッセージを強調するときでも文章の途中で一文字だけゴチック他は明朝ということを創作の意図で行うことは小説ではあっても行政文書ではあまりない。文脈から読んでもその一文字の強調を行う文脈でもないのにフォントが違うのは作成ミスである。サッポロ一番しおラーメンの袋書きに「切り胡麻」だけが違うフォントで、それは意図がすぐには伝わらなくてもフォントを変えて強調する何らかの理由があったのであろうとはすぐに推定されるものではある。