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権門と日本社会

権門という用語はかなり基本的な用語なので、人間集団の権勢ある勢力のことを指し、その民族門地宗教職能は多岐に渡る。黒田俊雄が定義した事柄でさえきっと本人も意識してなかった広い概念に敷衍できると言っている人を管見の限りで見なかった。
黒田俊雄の権門体制論によると古文書に権門という言葉が多く出てきて、皇室(王家)、東大寺、春日大社、興福寺、比叡山、高野山、宇佐神宮、伊勢神宮、幕府、藩、武家、公家、などが権門だったらしい。
日本は複数の権門が複数の連合王国を構成する国で権門は新しい時代に生まれた権門も存在していて、宗教団体、政党、企業、総合商社、自動車メーカー、鉄道会社などが権門だと考えられる。
日本各地に城下町があり城下町は権門の存在するところである。城下町は近世城下町と企業城下町とが現代では存在する。大学城下町や病院城下町などもあり、そのように各地の多種の複数の権門が連合王国を構成しているのが日本である。
中世では権門と権門の勢力圏の境目に関所が存在して関銭を徴収していて関所が権門の出入国ゲートだったと考えられるので、関銭は出入国税だったとみられる。
不破関を発掘調査すると多数の古銭が出土しており古代からこの不破関は存在していたので明銭なども出土している。関銭として支払われたものだったと考えられる。比叡山や高野山は僧兵という軍隊も有していて出入国ゲートである関所を封鎖したり強訴という軍事行動を取っていた。それは比叡山や高野山が権門だったからである。
現代は中世ほど暴力で解決はしないが権門の意向は通りやすく複数の権門の利害を調整する役割を議会が担っている。トヨタは豊田市にパソナは淡路島に企業城下町を作っている。
権門は財力と軍事力と生産力を持つ性質がある。

日本社会が形成された縄文時代以降、農耕が行われてきているが、農耕が財や富を生みその分配で貧富の差が生まれて、弥生時代にその富を多く持つ集団が権門の原型となる。
縄文人は南太平洋に拡散したラピタ人と風貌が似ており、拡散のもともとの年代から推定すると1万年前まで東南アジアに存在して水没した大陸のスンダランドから南北に拡散したと推定され、スンダランド人は椰子とバナナを栽培していて椰子の実を器としており、南北に拡散した北の縄文人は温暖な縄文時代の前半には椰子とバナナを栽培していて椰子の実を容器にしていたが寒冷化で椰子の実を容器に使えなくなったら縄文式土器を作り出し椰子とバナナを栽培できなくなった後はマメとドングリの栽培をして、南に拡散したラピタ人は椰子とバナナとタロイモを栽培しラピタ土器を作る。縄文人の日本渡来が4万年前、ラピタ人の遠洋航海が3500年前とみられる。
マメ栽培と穀物栽培はマメ栽培が縄文人、穀物栽培がヤンシャオ人・ロンシャン人由来でマメ栽培と穀物栽培は朝鮮半島で合流し朝鮮半島から中国へとマメ栽培が、朝鮮半島から日本へと穀物栽培が伝わったと推定される。縄文時代にははっきりとした権門はまだ日本には存在していなかったが、弥生時代には穀物栽培の集団が日本に来て権門の原型となり波状的長期間にわたり海洋民に伴われた騎馬民族がやって来てまたそれぞれ権門の原型となり墳丘墓や前方後円墳を作っていく。

栽培ダイズが縄文式土器に圧痕を残したことを検証した研究を以下に引用する。

最近の我が国における古民族植物学の調査成果は、ダイズやアズキが縄文時代に栽培化したことを明らかにした。筆者らは、二〇〇七年十一月、長崎県島原市大野原遺跡から出土した縄文時代後期中頃の太郎迫式土器の底部内面から検出した、カキの種子のような大きく扁平な圧痕が栽培ダイズであると発表した。それまでダイズは、農学や考古学においても、その起源地は東北アジアにあり、それが弥生時代になって稲作とともにやってきたと考えられていた。
このカキの種子のような扁平な圧痕がダイズであえうことを明らかにできたきっかけを作ってくれたのは株式会社パレオ・ラボの佐々木由香氏である。佐々木氏が二〇〇七年一月に熊本大学を訪れた際、それまで種不明のイネ科種子と考えられていた「ワクド石タイプ圧痕」をササゲ属の種子ではないかと述べたことに始まる。この「ワクド石タイプ圧痕」は熊本県菊池市にあるワクド石遺跡で初めて確認され、熊本県を中心とした縄文時代後晩期の遺跡一〇ヵ所ほどから発見されていた。私は、すぐにその前年に調査した長崎県大野原遺跡のカキの種子状圧痕を思い出した。そのレプリカをよく観察してみると、その側面にたしかにワクド石タイプと同じヘソのような部分が認められた。そこで、このカキの種子状圧痕はマメの一種であると予測した。佐々木氏が帰った後、穀物屋からありったけの種類のマメを買ってきて、ヘソの形を見比べてみると、ワクド石タイプのような、長さ四〜五㍉の長楕円形で、周囲が土手状に盛り上がり、中央に細い縦溝があるヘソはダイズにしかないことがわかった。ダイズの祖先種であるツルマメも入手して観察すると、サイズは小さいが同じ形のヘソがあることが確認できた。これはダイズの仲間に違いないと思ったが確信はなかった。
私のダイズのイメージは丸く黄色いダイズであり、長くても枝豆サイズ止まりであったからである。あれこれ悩んでいると、佐々木氏が東北地方で栽培されている、クラカケやクロヒラマメなどと呼ばれる、扁平なクロマメがあることを教えてくれた。ただ、これを見ても、やはりあのカキの種子のイメージとは違う。そこで思いだしたのが、煮豆のように、マメは水分を吸うと膨張するということであった。購入したマメをすべて水に浸けて膨らませると、なんと、ダイズ属の種子だけが縦方向に伸び率が幅や厚さのそれにくらべ格段に大きいことがわかった。水を十分に吸って膨潤したクロヒラマメの姿は、サイズこそ大きいものの、そのプロポーションは大野原遺跡のカキの種子状圧痕と瓜二つであった。
謎が氷解した。あの「カキの種子」は土器の粘土中に入り込んだ扁平なダイズの種子が粘土の水分を吸って膨張し、変形したものであったのである。この膨潤状態と思われる圧痕ダイズを乾燥状態に復元した場合でも長さが一㌢を超えており、野生ツルマメのサイズを大きく上回っていた 
栽培されたダイズであると確信し、熊本大学発見のダイズならぬ「クマダイ」と名づけ、世に送り出した。
(タネをまく縄文人 小畑弘己 吉川弘文館 2016年)

縄文人がマメ栽培をしていたことが縄文式土器から知られている。スンダランドに関しては以下に引用する記述にスンダランドから南部九州への移住説がある。

南部九州になぜ、最先端の文化が花開いていたのだろう。東南アジアの幻の大陸・スンダランドからやってきたのではないかとする説がある。
 スンダランドはマレー半島東岸からインドシナ半島にかけて、寒冷期に実在した沖積平野で、地球規模の温暖化によって海水面が上昇して住める土地が減少していった。すると住民の一部が五万~四万年前に北上し、東アジアや日本列島にたどり着いている。彼らが日本列島の旧石器人にもなった。さらに、ヴェルム氷期(最終氷期)が終わって海面がさらに上昇するとスンダランドは水没を始めた。
 小田静夫は、この時、スンダランドを脱出した人間の中に、黒潮に乗って直接日本列島にやってきて、南部九州に定住した人びとがいたのではないかと推理している(『遥かなる海上の道』青春出版社)。
 証拠になるのが拵ノ原(かこいのはら)遺跡(鹿児島県南さつま市)から出土した鋭利な磨製ノミ、拵ノ原石斧(丸ノミ形石斧)だという。
 磨製ノミがあれば外海を航海できる。丸木舟を外洋航海用に作ることが可能になる。それが一万二千年前ごろの薩摩灰地層の下から見つかっている。石を磨いて丸ノミ状にしたもので、丸木舟を作るための海人の貴重な道具だった。海人の分布域でもある宮崎県、長崎県、沖縄県でもよく似た石斧が見つかっている。
 また、小田静夫は、この石斧は南方の黒潮流域に広がっているため、スンダランドからもたらされたのではないかと推理したのである(『遥かなる海上の道』青春出版社)。
(海洋の日本古代史 関裕二 PHP新書 2021年)

スンダランド人が南部九州に移住してきたと推定すると縄文式土器の栽培ダイズの圧痕などから縄文人となっていったとみられる。縄文人はスンダランドから移住してきた当初は椰子とバナナを栽培していたとみられる。寒冷化で椰子とバナナが栽培出来なくなるとマメ栽培やドングリ栽培にシフトしていったとみられる。縄文人は温暖な縄文時代前半には椰子の実の器を使用していたが使用出来なくなって縄文式土器を発明したとみられる。

黒田俊雄の提唱した権門体制論に権門勢家の3類型があって、この3類型を現代状況に当てはめると、日本は古墳時代以降この権門勢家の原型の複数の勢力が国土にまんべんなくあって前方後円墳を作っていて、以降一貫して日本には時代の変遷とともに新しく権門勢家が生まれ続けて古い権門勢家でなくなったものもあって現代でも権門勢家は複数存在する社会が日本社会である。
権力機構と秩序を構成する複数の権門勢家の合議制度として議会も機能している。権門勢家の代表者は議員か、企業か社団の代表者を務めている場合が多い。
固関の研究で有力な権門勢家の代表者(天皇・上皇・法皇・女院・摂関・大臣)が死去した際は固関が行われたこと(病死や疫病での死亡を除く)が判明している。
1869(明治2)年に廃止はされたが権門勢家の勢力圏の境目には関があって出入国の際は出入国税を取り軍事衝突の際は防衛拠点となった。不破関では壬申の乱、青野ヶ原の戦い、関ヶ原の戦いの3度の戦いが起き、恵美押勝の乱の際は恵美押勝軍を律令政権が愛発関で阻み、幕末維新の騒乱である戊辰戦争では庄内藩は薩長軍を数ヶ月、念珠ヶ関で阻んだ。江戸時代の藩もそれ自体が権門勢家であった。

日本の地政学的位置は東アジアの先端で海洋アジアに接続していく位置にある。日本は海洋アジアである。
海洋アジアという用語を管見の限りではあるが最初に言及したのは西村眞悟である。西村眞悟は海洋アジアとは感性での表現であると述べていた。
海洋アジアと呼べる地域は以下の地域である。
樺太、千島列島、朝鮮半島南部、北海道、本州、佐渡、隠岐諸島、四国、対馬、壱岐、九州、種子島、屋久島、奄美群島、沖縄諸島、八重山諸島、台湾、フィリピン群島、インドネシア、マレーシア、内南洋。
古代に古代マレー人が船により拡散した地域の一部にあたり日本列島にはインドネシアからの直接の海路で東海道に接続する。日本と外国との東海道での国境ゲートは三関の1つである鈴鹿関である。平安時代に東海道に足柄関が設置されて国境ゲートは複数の仕様となる。
日本を始めとする海洋アジアに東アジアから波状的に海洋民とともに騎馬民族がやってきていた。
江上波夫の騎馬民族国家を参照し以下の引用を付す。

東北アジア系の騎馬民族がまず南鮮を支配し、やがてそれが弁韓(任那)を基地として、北九州に侵入し、さらには畿内に進出して、大和朝廷を樹立し、日本における最初の統一国家を実現した。
私の見解は、従来まったくなかったというのではなく、なかでも早く大正年間に、喜田貞吉氏が発表された「日鮮民族同源論」(『民族と歴史』第六巻第一号ーー鮮満研究号所載)に、大筋のところはすこぶる一致しているのである。というよりもむしろ、私の見解は喜田説の現代版といってよいものかもしれない。
胡族の文化は、北アジアの騎馬民族の文化と中国の漢族の文化が、北シナ・満州方面における両民族の接触・混住の結果、一体化してできあがったもので、中国化した騎馬民族文化ともいうべきものである。
(騎馬民族国家 江上波夫 中公新書 1967年)

日本列島周辺の海流をみると日本に人間が定住する際に通って来た海路は①樺太・千島・北海道ルート②沿海州・朝鮮半島東岸・島根半島・丹後半島・能登半島ルート③中国南部・台湾・沖縄・朝鮮半島南岸・九州・四国ルート④インドネシア・フィリピン・九州南岸・四国太平洋岸・紀伊半島・渥美半島・遠州駿河・伊豆・相模・房総半島・三陸ルートの4ルートである。
この4ルートを通り長期間波状的に日本に海洋民とともに騎馬民族の集団が上陸して定住したと見られその集団が権門勢家の原型とみられる。

黒田俊雄が権門体制論を提唱した中世の国家と天皇の記述を以下に引用する。

権門勢家(けんもんせいか、けんもんせいけ)という言葉が直接意味するものをみると、とくに用例を列挙するまでもなく、つぎの点が指摘できるだろう。(一)直訳して「権勢ある家門」すなわち「権威・勢力をもつ門閥家」の意味であるが、その権威・勢力は多少とも国政上におけるものを指すのであって、特殊な地域や階層の内部でのことではない。(二)官職または官制上の地位を意味しない。権門勢家が実際には大臣・納言・官大寺等々であったたとしても、その側面についていわれるのではなく、むしろ制度外的側面について用いられる。(三)権門勢家は、一個の門閥家についてもいわれないこともないが、言葉自体に複数の意味をもち、事実、不特定多数のものの概称である。そこで、以上のことを総括すれば「国政上に権威・勢力をもついくつかの門閥家があって、それらが、権威・勢力のゆえに、国政上なんらかの力をもちえた」ことを意味するといえよう。
十二世紀以降、権門勢家は、およそつぎのような類型に分けられ、それが国家の一つの秩序とされていた。
1 公家 皇族および王臣家、すなわち、個人としての天皇・上皇・法皇・女院・親王・摂関・大臣・納言等々の顕貴の貴族の家であって、「公事」を司どる文官的為政者の家柄であることを本領とする。詩歌・儒・暦などの学問を家学とする者も、この類型の権門の一部に包含されている。
2 寺家 南都・北嶺その他の社寺であって、神仏習合の状況のもとでは、いわゆる社家もこれと区別はない。鎮護国家を標榜し、公家の「王法」に対置して「仏法」の国家的性格を主張し、またほとんどは公家の「氏寺」「氏神」であった。寺家・社家は、国政に発言しうるだけの隠然たる勢力をもつが、直接政権を掌握することがないため、一見権力機構から疎外されているようにみえる。(ここにいう寺家とは、それゆえ当時の僧侶一般ではない。遁世や遊行の聖(ひじり)や、同じ背景のもとに成立した専修念仏の行者の非権力的性格が、この点で鮮やかに対比される)
3 武家 いわゆる武士の棟梁として、武士を私的に組織する者で、源義家・平清盛・木曾義仲・源頼朝・藤原頼経など、おもに源平両氏によって代表される。武家の権門としての特色については、ほかならぬ鎌倉幕府の御家人制を根幹とした機構が、その窮極の形態である。
(中世の国家と天皇 黒田俊雄 岩波講座 日本歴史6 中世2 1963年)

小林惠子によれば日本には東アジアから突厥の王などが過去にやってきたことがあるという。

騎馬民族の突厥可汗(とっけつかがん)(部族の長)、達頭(タルドウ)は東突厥を統合して大可汗となり、五九九年にコンスタンチノープル(イスタンブール)のローマ帝国に親交を求める書簡を送った。その書簡で達頭は「七ヵ国の王」を名乗っている。
しかしその年の後半、勃興した隋の煬帝(ようだい)と戦って敗走し、渤海(中国の東北沿岸。八-十世紀の渤海国とは違う)から高句麗(こうくり)、百済(くだら)を経て半島を通り、北九州から瀬戸内海を通ってその年の暮れ、明石に上陸した。突厥可汗達頭が倭国に一歩、足を踏み入れた時から七世紀が始まり、倭国にとって波乱の一〇〇年間が始まったのだ。
達頭は、海外にいる時から親交を結んでいた倭国の実力者、蘇我一族の推古天皇と結婚し、倭王となった(中国名はタリシヒコ、倭名法王大王、『日本書紀』では聖徳太子)。
(聖徳太子の真相 小林惠子 祥伝社 2018年)

江上波夫、黒田俊雄、小林惠子の上記の説を踏まえると以下の仮説を設定できる。

日本には4つの海路を通り海洋民とともに騎馬民族が長期間波状的にやってきて定住した。それらは各地で権門勢家の原型として集団を形成していた。権門は民族門地宗教職能が多岐に渡り、弥生時代以降現代に至るまで生まれ続け、達頭(聖徳太子)の権門のようになくなった権門も存在する。権門の中には突厥王の達頭(聖徳太子)なども居て権力闘争を繰り広げてきている。
黒田俊雄の定義した権門勢家の3類型から進めて、黒田俊雄が提唱しなかった第4類型に職能家がある。第4類型は現代企業のトヨタ・三井・三菱・伊藤忠などを始め複数が該当する。
弥生時代から古墳時代にかけて全国に作られた墳丘墓や古墳は権門勢家の原型の生産力と財力と政治力と軍事力を顕(あらわ)し、前方後円墳は権門勢家の代表者の墓であることが多く、被葬品の代表的な3つが剣・鏡・玉である。奈良市の富雄丸山古墳を発掘調査すると剣と鏡が出土した。富雄丸山古墳は築造年代を地層から推定すると四世紀後半の築造で、神武天皇と戦った長髄彦の墓と推定される。神武天皇は騎馬民族の王で、長髄彦の一族も沿海州から丹後半島を経て大倭に定住していた騎馬民族の王であるとみられる。神武天皇も長髄彦もそれぞれ権門の代表者であるとみられる。
神武東征は実際の出来事で日本書紀に記述のある神武天皇が橿原で即位した辛酉年というのは富雄丸山古墳の被葬者を長髄彦と仮定すると361年の出来事であると推定される。小林惠子は神武天皇即位年を外国の史料との比較検討から265年とし欠史八代の天皇は実在したとしている。

『古事記』と『日本書紀』(以下『記紀』)で神武即位後、綏靖(すいぜい)・安寧(あんねい)・懿徳(いとく)・孝昭(こうしょう)・孝安(こうあん)・孝霊(こうれい)・孝元(こうげん)・開化(かいか)の八代にわたる天皇には、即位年代と后の名くらいしか記載がないので、「欠史八代」といわれている。しかし『記紀』は神武の即位年を紀元前六六〇年とし、しかも年月日を干支で表記しているから正確な年代測定ができない。そこで私は外国の史料と比較検討して、六〇年で一巡する干支(かんし)を年月日に換算する方法で「欠史八代」を解釈した。すなわち「欠史八代」とは神武の二六五年から五世紀後半の雄略まで、八代の倭王のことである。
(聖徳太子の真相 小林惠子 祥伝社 2018年)

剣・鏡・玉の3つは王権を表し権門勢家とはそれらがそれぞれ王権の王であって日本は複数の権門による連邦王国である時代が明治時代になるまで続く。皇室の所持するこの3つは後に三種の神器となる。
奈良市の富雄丸山古墳の発掘調査で剣と鏡が出土している。地層年代測定から築造年代は4世紀後半と推定され、被葬者は長髄彦とみられる。富雄丸山古墳は明治時代の盗掘跡があり、その時代の盗掘品に玉があったと考えられないだろうか。長髄彦は王権の証である剣と鏡と玉を持つ古代王と推定され、神武天皇との戦いである神武東征で死亡し富雄丸山古墳に葬られたとみられる。日本書紀の記述にある辛酉年とは361年と推定されるので神武東征が終わり神武天皇が橿原で即位した年とみられる。

黒田俊雄の権門勢家の第3類型である武家権門には征夷大将軍を代表者とする幕府も該当する。征夷大将軍は権門の代表者なので複数の王の1人のことであった。阿部比羅夫・坂上田村麻呂・源頼朝も征夷大将軍なので権門の代表者であったと推定される。
権門の勢力圏の境目には関(関所)があって出入国税を徴収し、軍事衝突の際に防衛拠点として機能したが1869(明治2)年に全国の関を廃止する太政官布告が出される。権門が表立って独立せず日本社会に集団としてそれぞれ存在する状態に変化していき、その状態は現代でもその様態で日本社会に権門が複数存在している。

日本社会が現代と古代とでその基本構造にさほどの相違がないのは、古代に日本社会において権門と中世に呼称される人間集団の原型が出来て、時代の変化とともに寺社家、公家、武家、職能家が、ある集団は生まれて現代まで継続し、ある集団は現代までのどこかで途絶えてきたのであって人間集団の形成のされるあり様そのものの雛形には大きな変化が見られない。
鉄道会社がそうであるように単体で財を生む集団が権門である。
前方後円墳を作った集団が権門の原型であり、その後の日本社会ではっきり集団が現れ、その後の日本社会で際立たぬ様子になっていっただけで権門は日本社会に複数併存し続けている。
権門の特性からみて集団が権力と財力とを持っているので日本社会における発言力は小さくなく、日本社会のあり様や意思決定に参画していて社会を機能させる応力を働かせている。権門は日本社会を決定付けている要素である稲作などに長らく関与していたが文明の進歩とともに新たに実用化された財をもとにした事業体としての側面を一部の権門は有するようになっていく。その最たる利器が鉄道と自動車である。鉄道と自動車の実用化された時代以降、これらを使用したり製造したりする権門が生まれて鉄道会社や自動車メーカーなどが権門の中に数えられていく。
現代日本社会において従来の権門である寺社家は引き続き権門としてあり、公家や武家は表向きは姿を隠したが権門としては存在し続けている。鉄道会社や自動車メーカーは職能家である。
人間集団と社会は時代の変遷で細かい様相は変化し文明の進歩とともに利器も多様化してきた。縄文式土器も鉄道も文明の利器であり、利器を用いて財と富を生んで分配で貧富の差が生まれてやがて富を多く持つ集団が権門の原型となる。
日本社会と権門とはその連続性で見ることが出来て敷衍すると財と富の体現された概念の用語として権門という用語を用いることが出来る。