図書館と本

わしの育った家は図書館にもない本が普通にあった家で、あるから読みますわな。図書館にある本というのがもっと一般的な教養で、カルトな用途は期待されていないとわかってくるわけです。司書は仕事で本を扱う。図書館は利用者のためのもので司書のためのものではない。
赤木氏のやったことを司書の支持者が多いというが図書館は利用者のためのもので司書のためのものでは断じてなく除籍は職分として許されているだけで人類の叡知を知る機会を司書ごときが奪ってはならない。除籍は細心の注意で残すものは残さないといけない。
司書側の意見が赤木氏のやったことでは支配的で情報の鮮度と情報の保存との匙加減が司書の資質だという基本を度外視して赤木氏のやったことを免罪符にはできない。あれは知るということを軽んじている。
その目の前の本がある年齢の人向きのものということを言う人間が教師ばかりか物書きにまでいて、本とは読んで理解できるものばかりではなくわからないことをずっと考えて一つひとつ知っていくタイプの人間が知ることを図書館は助けるところでそこで恣意的な情報の選別などせず叡知を置いておけ。
情報の鮮度が学校図書館では大事ということを言うが新しいことがいつも正しいわけではなく人間は間違いだらけのことをしてきて多少ましなものだけが文明を蓄積してきたのであり、過去の叡知の水準の高いものや過去の間違い、そういうものを除籍で除くのは最低限にせねばならず、新しい知見しか知らず現代の価値観で歴史を処断することは厳に慎まなければならない。
赤木氏のやったことで過去の行政地図の除籍というのがあり、それで間違いを覚えるというが最新の行政地図だけを置いておくのは歴史を知るきっかけを奪う最悪の行為である。
文学作品を軽視し偏狭な自説で除籍をしたこともわかっており、学校図書館と公立図書館の機能分担を免罪符にしていいことではない。最初の本だけで科学技術の変遷の姿はわからない。学校図書館ではその入口でいいから必要最小限でいいというが古い学校は図書館がどこも書庫の割合が大きい。
子どもが何から学ぶのか何に興味を示すのかについては景山民夫が遠い海からきたクーの中で博物学者の父の書斎の本で恐竜の本だけぼろぼろにする息子というのが登場する描写でよく描かれている。
文学作品を軽視していたらこういうこともわからない。
図書館の情報鮮度ってのを言っておるが図書館は情報の保存倉庫でもある。フレッシュさに主眼を置きすぎて保存倉庫の役割を制限したのが赤木氏で、保存倉庫の意味を考えるなら永久保存の本もある。