モ8391


土佐島の鏡市内の路面電車に乗ると古いので低くうなるような駆動音とともに滑るように町を走る。
モ8391という車体番号で呼ばれている、かなり年季の入った路面電車は鏡市内の幾人もの人々の人生と生活とともにあった。
足がおぼつかなくなっている人がモ8391に鏡駅前から乗ってきてかわせみ橋で降りて行った。
車が渋滞し過ぎてどうしたものやらと思っていた鏡市の人々が車に乗る頻度を低めて路面電車を利用し始めて渋滞が少しマシになった。
路面電車は未来の乗り物と言われている。
低振動に身を任せる心地よい一時をただ移動するだけで味わえる路面電車という魔法の乗り物に乗って宇宙に行く妄想を何度となくやっているような人々がモ8391に揺られている。振動とともにチンチンと音が鳴り、チンチン電車とかチン電とか呼ばれているのが路面電車である。路線距離はそれほど長くはなく、どの路面電車のある町でも市内中心部を通る交通手段で、それが路面電車にアーバン感がみなぎっている最大の理由である。鏡市内もかわせみ橋の辺りが最も繁華街でかわせみ橋から西に堀留、大通、鏡城と電停が並ぶ。かわせみ橋で鏡駅から鏡港に向かう路線と交差する。その辺りが鏡市内の繁華街である。鏡城からかわせみ橋にかけては日曜日の朝に朝市が立つ。イノシシ汁や唐揚げ、鰹(かつお)のタタキを売る屋台が出てそれらと酒や柚子(ゆず)ドリンクで人心地つくと、かわせみ橋から路面電車に乗るのである。
一瞬の判断ミスが引き起こす間違いというのは人間には付き物で人間はしょっちゅう間違える。路面電車を運転する人間が間違いを起こすと重過失になることもある。
モ8391が堀留電停の付近で車と接触し乗客と車の運転手が怪我をした。
モ8391が青信号に従って発車した時に前方確認が不十分で軌道上に居た車を避けきれなかった。
現場検証の後にモ8391の運転手が取り調べを受けて書類送検された。
モ8391はそういうわけで修理の為に移送されてしばらく路面を走らなかった。
鏡市内を再びモ8391が走った日はとても晴れて穏やかな冬の日だった。

臙脂色(えんじいろ)の車体に川原質店という広告が踊る路面電車がかわせみ橋電停に停まった。
ドアが開き、電停に立っていた2人の男女が路面電車に乗り込んだ。
車内には老婆が3人、老爺が2人、中年男性が1人、女子高生が2人、インド人男性が1人乗っていた。乗り込んできた男女は窓と平行の隣り合わせ席に腰掛けた。
大通電停で路面電車は停車し男女は降りて、市街地へと歩いて行った。路面電車の両側面にはモ8391とナンバリングされてあった。
コンビニと牛丼チェーン店の交差点を入っていくと1辻目に商店街のアーケードがあった。男女は商店街に入ってしばらく歩くと、3つ目の交差点の右角に賑やかな居酒屋フードコートがあった。おたべ市場という大きな看板が入口に掛けられ、入口の手前の露店とイベントステージがあって漫才師が漫才を演じていて客が座っていて笑い声が響いていた。
おたべ市場は詰めかけた客で混み合っていた。いくつもの露店が建ち並びカイロかイスタンブールのバザールのような洞窟空間となっているおたべ市場では、鰹(かつお)のタタキや肉巻きおにぎりやじゃこ天、鮪(まぐろ)の天ぷらや鯨(くじら)の天ぷらなどや、日本酒や焼酎やビールや檸檬(れもん)サワー、鏡茶や柚子ドリンクが売られていた。
男女は八幡丸の露店に並び鏡茶と鰹のタタキ定食と鶏からあげを注文して露店の群れが囲むテーブル席の一角に座った。
「久しぶりに来たけど相変わらず賑やかね」
「ああ」
男はスポーツ刈りでブラックブラウンの一体フレームメガネをかけてオックスフォードシャツにジーンズ、黒のシェフシューズを履いていた。女はイエローコットンのワンピースに黒のレギンス、黒のシェフシューズを履いていた。
女はスマホで鰹タタキ定食と鶏からあげと鏡茶を載せたトレイを撮影してイオスタに上げていた。男も同様のトレイをスマホで撮影していた。
鶏からあげを口に入れた女が「むむう」とうなって咀嚼(そしゃく)し言った。
「鏡は鶏も旨いのね」
その後、鰹のタタキを口にして「おおう」と男女でうなった。
「やっぱり鏡のおたべ市場に来たら鰹のタタキだよ」
「そうよね。旨い」
2人はおたべ市場を立つ時トレイを返そうとした。するとスタッフの小太りのおじさんが「そのままでええきに。片付けるけん」と明るく言った。
大通電停まで2人は歩き、モ8391がやって来た。
「行きもモ8391だったけん」
女がそう言った。
「よく見ちょる」
車内に入ると2人しか乗客はいなかった。
「この前いきなり電話で呼び出しあって堀留に行くと指定された喫茶店にオネエがいた」
「オネエなの?」
「オネエ」
「よく働いてくれたねこれ取っといてって言って封筒出てきたんで受取してカバンに入れた」
「35歳。これ免許証って言って免許証出してきた」
「ふーん」
「しばらく雑談になってオネエが私ドルオタなの。推しはハシモトカンナとカミキリュウノスケって」
「あんたもじゃん」
「オレはハシモトカンナは推しじゃないけどカミキリュウノスケは推しだよ」
「言ったのそれ?」
「カミキリュウノスケは言った。するとさ、じゃ信用できるって即答するんよオネエ」
「そのオネエ相当頭良くない?」
「たぶんそう」
「オネエと別れて封筒を検(あらた)めると諭吉14人」
「まじか」
「まじ」
モ8391がかわせみ橋で左折して鏡駅前に向かった。
レールの軋(きし)む甲高い音が響いた。
「そのオネエに時々仕事まわしてもらったらええが」
「二度はなさそうだし、ああいうオネエが一番恐ろしいタイプだけん」
「そうなん」
「ただ」
「ただ?」
男はふうと一息ついてこう言った。
「忘れたころに電話鳴ってこの前渡し忘れた残りあるんよってのならありそう。そういうのもいきなり電話鳴ってだと思う。そういうの心臓にちょっと良くないけどな」
「そういうのなら貰っとけばええきに」
「そうやけどな」
女は珍しいものでも見るような目をした。

2週間後
男と女が堀留のスタバで話をしていた。
「よく考えたらあのお金、悪いことして稼いできたの?」
男は一瞬黙った。
「普通の就労じゃないけどちゃんと働いて得たお金だよ」
「東京行って推しに会っておいでって言ってこの前東京行きの旅費出してくれたやん。あのお金もそうやって稼いできたの?」
男は黙っていた。
女は「ふう」と一言言って男をじっと見た。
「私は普通のお金で推しに会いにもいけない人なの?」
「そういうわけやない」
女は出されたコーヒーに手を付けず席を立ち言った。
「今まで本当にありがとうな」
そう言って女はスタバを出て行った。

扶桑国では賑やかなやつは肩身が狭い。公共の場では静かにしてくださいとマナーを求める。
路面電車の車内はそういう空気の濃厚な空間で、狭い空間では音が癇に障ることが多いからである。
比較的に狭い空間のスタバも声が大きいと店員がお静かにと注意しにくる。
人間は生き物で感情というものを制御しろとされやすい社会なのだが時々それは無理な話なのである。女は声が生まれつき大きく感情も豊かなので男といると感情が溢れてスタバで大声を出して店員が注意しにくる。
男はスタバに謝罪に行くが内心で人間には感情があるんだからいつも理性的な人間の方が人間らしくないよなと思っている。

電話もラインも繋がらず。長文のいっぱいでラインメッセージに男は普通の就労でなかったのは役所に召し上げられるからだった。女の芸術活動が20年でお祝いを男はしたかった。そう書いているうちに長文ラインになった。
モ゙8391に男が大通電停から乗ると女が乗っていた。女の隣に男が座った。
かわせみ橋まで2人は無言で、かわせみ橋で女は降りて行った。
男は鏡港行きのモ3193に乗りかえた。
鏡港電停を降りて鏡港に行く手前に税理士事務所があり、男は事務所を訪ね所長に面会を求めた。
所長は出てきて言った。
「古原さんじゃないですか。お元気でしたか」
「お久しぶりです」
「今日はどうされたんですか」
「年末のご挨拶に」
「そうですか」
男は古原と呼ばれて、所長と話をした。
「もう30年になりますかね。私がまだ税理士じゃなかった頃ですか」
「そうなりますか」
軽く税務相談や雑談、信条や今やってることの話をして古原は税理士事務所を失礼した。
鏡港電停で路面電車を待っているとモ8432が来たので古原は乗り込み座った。
かわせみ橋でモ8432を降りて鏡城方面で路面電車を待っているとモ8391が来た。
車内には女が乗っていた。
「幾原」
古原が女に声をかけた。
「ああ」
幾原の隣に座って古原は車窓を見た。
繁華街の街並みがゆっくり流れて行った。
「このあと時間ある?」
幾原がそう言った。
「ある」
古原はそう言って目を開いた。
2人は堀留電停でモ8391を降りて土佐島音楽学校の入っているビルとラーメン屋の間の筋を入り商店街を歩いてスタバに入った。
ドリップコーヒートールアイスグラスを2つ手に持って古原は幾原の座っている2人席に着き、グラスを置いた。
「東京行ってきた」
「推しには会えた?」
「会えた。ありがとうな」
「あのお金は就労の仕方が変わっているけどコツコツPCで作業したのをオネエが良くやってくれたって言ってくれたものやきに」
「そうなの。最初からそう言ってよ」
「ごめんなさい」
幾原は小動物のように可愛く笑った。

人間にはいいも悪いもない時があり、結果として義理を欠き縁が切れてしまうこともある。リセット不可能なゲームプレイなのが人生なので失敗しても次に行くしかない。
幾原は事情を抱えている。とても大変な毎日で、のんびりお茶どころではないこともある。そんな中いつも一生懸命生きている。そういう大変な中で古原とはよくモ8391で会う。そうやって交流している。その縁などふとしたことでいつ切れてもちっともおかしくない。古原は誰とでも一期一会のようなものだと思っていて、幾原と何度も会えるのは奇跡だと古原は思っている。
古原はかわせみ橋からモ8432に乗って鏡港に行き、畿内島の茅渟港へ行くフェリーに乗っていた。
フェリーが茅渟港に着いて、茅渟港電停からモ1000に乗り、瀧見不動電停で降りて瀧見不動尊を参詣した。拝殿で賽銭を入れて長い祈りをした古原は眼病平癒のお守りを買った。
瀧見不動尊を出て古原は瀧見不動電停から茅渟港へとモ391に乗った。
途中大きな里山の横を過ぎた。
「王墓は里山みたいやの」
古原は車窓から里山のような王墓を眺めて呟いた。
茅渟港から鏡港へのフェリーの船内で古原は蕎麦(そば)を食べた。

怒らせることもよくあって古原は後から間違いにいつも気がつく。幾原にいつ見限られても全然おかしくない。
明日は会えるのかな。古原は幾原と別れてモ8432に乗って家に帰る車窓がちゃんと見えない日もある。
今夜は満月が綺麗に輝いていた。モ8391は満月に照らされて光り、幾原が座席に座っていた。
「月が綺麗ですね。古原」
モ8432も満月に照らされて光っていた。古原が座席に座っていた。
「月が綺麗やき。幾原」

堀留のスタバで古原と幾原がコーヒーを喫(の)んでいた。
「オネエから呼び出しあってかわせみ橋の喫茶店に行くと、この前渡し忘れた残りって言って封筒出て来たんでカバンに入れて、後で検(あらた)めると諭吉が16人」
「まじか」
「まじ」
「伊予島の大須温泉に行こか」
「いいの?」
「いいよ。行こか」
「温泉か。土佐島ほかほか温泉はよく行くけど伊予島の大須温泉って一度行ってみたかったの」

ある晴れた冬の日、鏡港からフェリーで伊予島の山都港までの船内に古原と幾原が乗っていた。
山都港電停から路面電車モ1645に乗り大須温泉まで2人は行った。山都は鏡より大きい町で大須温泉電停から大須温泉本館までは商店街になっていた。
2人は商店街でじゃこ天と鯛めしを食べた。
大須温泉本館は温泉と客室があり、三階の角部屋のダブルを幾原は取ってあった。
2人は荷物を置いて浴衣に着替えてタオルセットを下げて温泉に降りて行った。
大須温泉本館は古い時代の文豪が泳いだという伝説がある。文豪は「月が綺麗ですね」と好きな人に手紙を送ったといい、前後の文脈から外国語の訳らしいとわかって、その外国語の表現を扶桑語では「月が綺麗ですね」と言うようになった。
大須温泉には男湯と女湯と混浴湯とがあり、2人は混浴湯に行った。混浴湯は男女連れだらけでそれぞれ一緒に湯船に浸かったり洗い合いっこをしたりしていた。盛り上がって重なっているのも居た。
「聞いてはいたけど凄いとこやね」
「そうやな」
「身体洗ってあげようか古原」
「いやいいよ幾原」
「そういや、私、のぞみって言うの」
「おれはさとる」
「そうなの、さとる」
「のぞみ」
「月が綺麗よ」
「月が綺麗やね」
湯船に2人は浸かった。

混浴湯と客室で泳いだ2人は、商店街に鰻(うなぎ)を食べに出た。
土佐島も鰻が採れるが伊予島も採れる。鰻重を2人食べてさほど話をせず、また2人は客室に戻って泳いだ。

翌朝
さとるが起きるとのぞみはもう起きていた。
バッグからさとるは瀧見不動尊の封筒を出してきて、のぞみに渡した。
「眼病平癒のお守りやきに」
のぞみは小さく「ありがとう」と言ってお守りを両手で握った。
2人は大須温泉からモ7705に乗り山都港へと向かった。
山都港でフェリーに乗ると潮風が吹いて汽笛が鳴った。
フェリーは鏡港へと向かった。

3年後
幾原さとると幾原のぞみはかわせみ橋電停で鏡港行きの路面電車を待っていた。
萌え娘のラッピングを施されたモ8391がやって来た。
「軌道むすめって言うんやって。土佐島は鏡さやこ」
さとるは目が笑っていた。
モ8391に2人乗って鏡港へ行き、桜島行きのフェリーに乗った。船内で鰻重を2人は食べた。
「3年前に堀留で運転していたモ8391と車が接触して怪我したことがあったやき」
さとるがそう言って右足をさすった。
のぞみは目を開いてしばらく黙っていた。
「その事故で路面電車と接触した車を運転していたの」
のぞみが静かにそう言った。
「あれは私の不注意よ」
「いや路面電車を運転してる以上、接触事故の責任は電車の運転手にある。」
「怪我は私は大したことなかったけどさとるは少し足があれじゃなかったの?」
「おれも大したことはなかったよ。ただ路面電車の運転手は辞めて貿易事務の仕事に変わった」
「それで鏡港行きの電車に乗ってるのね」
「鏡駅前のアパートから鏡港まで路面電車で通勤して仕事帰りにかわせみ橋で乗り換えて大通まで行っておたべ市場で鰹のタタキと日本酒ってのが多かった」
「私は事故の後、営業事務の仕事に変わって東町電停近くのアパートから大通まで通勤してたの」
「夕方によくモ8391で乗り合わせたのって縁なのかな」
さとるがそう言うとのぞみは薄く笑って頷(うなず)いた。
鏡城からかわせみ橋にかけては日曜日に朝市が立つ。鏡市の風物詩としてもう随分昔から脈々と続いている。
大通電停でモ8391を降り、さとるとのぞみは日曜朝市の立っている商店街より一本北の東西筋に出た。
イノシシ汁を食べながら一息ついた2人は黙って汁椀を口に運んでいた。
かわせみ橋電停で鏡駅方面の路面電車を2人待っていた。冬の鏡市内は少し肌寒く路面電車を待つ電停は吹きさらしなので寒い。2人はイノシシ汁の温もりで身体は冷え切ってはいなかったが「寒いのは寒い」とのぞみが言った。
モ8391が低い駆動音とともにかわせみ橋電停に滑り込んできた。
「来た」
のぞみがそう言った。
2人は開いたドアから車内に乗り込み座席に座るとドアが閉まりモ8391はのっそりと動き出して鏡港へと向かって行った。

著者注
モという電車記号はモータのことを指す。