役立つことをしないこと

かなりはっきりとしていることですが、労働は力学で発生し、その力学の向きによって労働の対価がもたらされるようになっているのが資本主義社会です。

人の役に立つことをしない人間に、誰もお金を払ったりはしないのです。アカデミーというものをかじっている大学院修了生ですら、自分の研究成果を金銭換算出来たりはしなくて、知識の集積行為に寄与して研究成果を挙げているということですら、その社会で社会に役立つ研究にしかお金は払われません。知識というものを蓄積してその行為をオタッキーに深めていって大学院を修了はしたが、ポスドクになっちゃったんです、研究職の口がないんでコンビニバイトで糊口をしのいでとりあえず大学と大学院で借り倒した奨学金の返済を迫られているから働くかあ、となったって結局は破綻して体を壊すか失調するかということになり、そうなると奨学金返済はまあモラトリアムとなっていくとしても、生活設計というものは見事に立たなくなりその日食べるご飯にも事を欠く始末となります。

別段その出た大学院が文系だったからと職にあぶれているわけでは必ずしも誰もがそうではなくて、そうでなければ文系の学問、哲学や文学の研究職でご飯を食べていけている人が居る一方で、そうではないポスドクが数多いるということは、学術は物書きや絵描きと基本構造が同じ力学で成り立っている産業であるからに過ぎません。数多の食えていない大勢と食べていけているほんの少しがいるということです。間違っても大学院の指導教官のやっていることを真似して食べていけるはずはありませんよ。学術で食べるには登竜門をくぐらないとお金は舞い込みません。又吉直樹の小説と同じように登竜門をくぐらないと。

明らかに英知の集積行為において人の業績を断りもせず借用して、コピーアンドペーストして論文を書いて博士号を付与されてもその業績が再検討されると博士号を剥奪ということがあったのは理系学問の生物学の分野ではなかったでしょうか。何も研究領域で食える学問、食えない学問というものがあるというわけではなく、研究をして食っていけるかどうかということがなし得る人間の総数が恐ろしく少ないだけのことです。

自分の学歴を看板にして仕事が来るような甘い世界で食べていける人間はそれこそお花畑の住人です。だいたいにおいて学校を出た状態は最初であってそれで完成ではない。そこをわたしはどこそこの大学院でこのような研究成果があります。だからつきましては月30万円の給料で私を雇い研究をさせてもらえないかという人間にいったいどこのだれがお金を払って研究をさせるというのでしょうか。就職活動というものが不十分というより成果など出もしない就職活動というものをせっせとして職を得てわたしは勝ったということを本気で思っているならそれこそお花畑です。だから大学院を修了したならその経歴は鍵を掛けてしまい込んでおいてわたしはこういうことをして産業活動に参加します。役に立つよう努めますから仕事をさせてくださいと頭を下げて回ってようやく職を得るような事だと思うのです。労働は力学で成されます。動き回れば動いただけなにかしらのお金は手にできます。

問題は自分が何がしたいか、何なら人の役に立つことが出来るのか、それを突き詰めたことがあるかどうかと言うことです。歴史学の研究で人の役に立ちたいならそれこそ寝る間もご飯食べる間も削って研究ですよ。だから大学院を出たのでということを看板にして業績を人が、自分が言う前に口をついて「君はこういう研究をしていましたね」と誰も言わないような状態の人間が中途半端に大学院修了の学歴を誇ったところでそれでご飯は食べられないでしょうね。何もそれが文学や哲学だから食えないんだと言うような人間の論文を誰が時間を割いて読むでしょうかね。力学を生む論文で経営学なら誰でも知っているピーターフォードドラッカーの1939年出版の経済人の終わりという著作は政治学や経済学というばりばり文系の著作ですよ。大学院修了生でもそういうことを見事に知らないで大きな顔を出来るからサル化した社会という言葉が出てくるのです。

以上は主に今から大学に行って研究をして食べていこうかと思っている人に向けての言葉でした。無料公開します。