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能登地震で29年前の震災当日を思う

 元日は、前の晩から泊まっていた孫と娘夫婦で過ごした。昼前から食卓を囲んだ。小、中、大の三種の杯で飲むお屠蘇(とそ)からスタート。孫には「真似だけ。少しなめるぐらいはいいか」と言いながら、年少者から順に杯を回していった。穏やかな昼下がり、お節やアルコール類などを口にしながら世間話に花を咲かせていた。しかし夕方、見ていたテレビが地震速報の特番に切り替わると、お屠蘇気分は吹き飛んだ。

 能登半島地震はそれから連日、被災や支援状況が報道されている。ニュースを見ながら29年前の阪神・淡路大震災発生の1995年1月17日を思い出した。

 その日は、2人の娘の学校が振替休日で、妻ら3人は朝寝坊を決め込んでいた。彼女らが起きないようにテレビも付けず静かに朝食をすませた。大阪の印刷所に出張するためバスで空港に。空港のテレビで初めて関西地方の地震を知った。しかし、搭乗した大阪(伊丹)行きの飛行機は、何のアナウンスもなく定刻どおり離陸した。テレビ映像の火災は局所的なのかと思った。今なら、乗客の安全を第一に考え欠航になっていただろう。

 大阪空港は水道管に亀裂が入ったのか、水が壁面を流れ落ち通路が水浸しに。当時はスマホどころか携帯電話も普及しておらず、とにかく印刷所まで行こうと決心した。私鉄電車や高速バスはすべて運休。路面バスだけが走っていた。空港職員にバス停の場所を聞いて1㌔ほど歩いた。周りを見ながら進むと、古い民家の屋根や土壁が壊れ落ちていた。徐々に地震の激しさを実感したが、都市が壊滅していたとはまだ知らなかった。

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