見出し画像

商業主義に「負けた」アマチュアリズム

 パリオリンピックは7月26日に開会式を迎える。私にとっての五輪といえば、1964年10月の東京大会が一番印象に残っている。大会期間中、授業が午後から休講になり、毎日テレビ観戦したことも一つの要因だが。

 この年は中学2年生だった。日本初開催とあって、新学期が始まると五輪関連が授業でよく取り上げられた。近代五輪の父と呼ばれるクーベルタン男爵の名前は、何度も聞かされた。彼の「オリンピックは、勝つことではなく参加することに意義がある」の言葉が書かれた紙が、教室の後ろの壁に貼られていた。やんちゃ盛りの生徒は、試験のたびに「テストはいい点を取ることではなく、参加することに意義がある」と、ふざけあった。

 今ではオリンピック憲章からも消えてしまったが、営利を目的としない「アマチュアリズム」こそが、オリンピックの理念なんだと先生らは強調していた。生徒らの理解は「プロ野球があるから正式なオリンピック競技に野球がないんや」「力道山が生きててもレスリングには参加できんのか」のレベルだったが。

 アマチュアリズムを掲げた五輪も、今では大会がビジネスショー化し、スポーツ組織や企業が、収益を最大化するための絶好のビジネスチャンスになった。関係者の汚職まで生みだしている。

 今春、テレビドラマの「不適切にもほどがある」が話題になった。宮藤官九郎の脚本で、昭和と令和のコンプライアンスやジェンダー問題のギャップに一石を投じるような物語だった。クーベルタンは草葉の陰で、五輪の商業主義への変節に「ふてほど」と眉をひそめていることだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?