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鬱を客体化する

Facebookを通じて米国のメリーランド大学から、アンケート調査の依頼が来た。コロナ禍の中で、どういう生活をして、どういう心の状態にあるか、を全地球規模で研究しているらしい。Facebookユーザーって何億人もいるから、そのうち半分が回答しただけでも数億件のサンプルが集まる。ぼうだい過ぎて、データ処理が大変そうだ。。。まあ、コンピュータがやるから、平気か。

長い自粛生活で、いわゆる「コロナ鬱」を経験する人も、多いと思う。眠れない、何もする気力がない、悲しくてしょうがない、など、いろいろ兆候が。

聖書にも、鬱の描写が、結構たくさん出て来る。詩編などがそうだ。鬱のきわみが、「わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」「なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか」という詩編22編2節(新共同訳)だ。

この箇所は、イエス・キリストが十字架の上で絶命する前に叫んだ言葉として、有名。アラム語で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」わが神、わが神、なぜわたしを見捨てるのですか、と叫んだと、福音書に記録されている。

捨てる神あれば拾う神あり、といわれるように、どんなダメダメ状態にあっても、必ず助けてくれる神がいるからこそ、それは「神」と呼ばれるのだけれど、聖書には、唯一最高の神であるはずの神に対して、「なぜわたしをお見捨てになるのか」と直言する表現が、ある。

頭では、神は全能・全知・慈愛に富み、必ず助けてくれる、とわかっていても、心には「見捨てやがってーっ」と悲嘆と怒りがあふれる、というのが、人間の正直な姿だと思う。その、ありのままの姿を、聖書は書き留めている。

それで、今日の聖書の言葉。

わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。 何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。 神を待ち望め。 わたしはなおわが助け、 わが神なる主をほめたたえるであろう。
詩篇 42:11 口語訳

この箇所がすごいのは、自分の「鬱」の感情を、自分そのものの中で切り取りだして、客体化しているとこだ。

ふだんの生活の中で、わたしたちは、自分と、鬱である自分とが、混然一体となっていて、だから全生活が鬱的になるわけだ。

だが、この聖書の箇所では、自分Aと、うなだれている自分の魂Bと、そういう魂Bをかかえて生きなければならない自分Cを、切り離してそれぞれ客体化している。

自分Aが、自分の魂Bに呼び掛ける:
「わが魂よ、何ゆえうなだれるのか」

自分Aが、自分Cを励ます:
「神を待ち望め」

そして、自分Aが決意表明する:
「わたしはなおわが助け、 わが神なる主をほめたたえるであろう」

ディズニー・ピクサーのアニメ映画『インサイド・ヘッド』では、人間の心の中のいろんな感情を擬人化して、その複雑なからみあいにより、人間が生きているさまを、おもしろおかしく描いている。ああいう発想の大もとが、もしかしたら、こういう聖書の考え方にあるのかもしれない。

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きょう、ちょと鬱っぽかったら、静かにすわって、自分の心をA・B・Cに切り分けて、役回りをわりふったら、どうだろうか。

絶望している自分B、絶望している自分を抱えて生きていかなければならない自分C、BとCに寄り添いながらも、あきらめないで生きるぞ、と決意する自分A。三人寄れば、なんとか、と言うじゃありませんか。


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