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空だけが広い、この社会を憂う / 映画『すばらしき世界』の感想にかえて

前作『永い言い訳』を5人目の子どもと呼ぶ西川美和監督が、5年ぶりに産み落した『すばらしき世界』。刑務所から出てきた主人公の三上は、殺人を犯した元ヤクザである。

名もなき人間が、システムのすき間を埋めている

旭川刑務所での13年の刑期を終えた三上は、東京の下町で暮らし始める。予想通り「社会」は彼に不寛容だった。社会とはシステムのこと、そしてシステムに従う無数の人々のことだ。

しかし、何人かは違った。スーパーの店長、身元引き受け人の弁護士とその妻、役所のケースワーカー。常識やルールを超えたところに、彼らの本当の人間性があったのだ。

古い知り合いのヤクザの女将が、三上をこう諭す。

この社会(表の社会)は我慢ばかりだが、空は広い、と。

ついに三上は、我慢を覚えた。義理を引っ込める瞬間だった。同時にそれは三上という人間のアイデンティティを失うことでもあった。

人間の心をもって三上を支える数人の「名もない人々」の振る舞いは、とても瑞々しかった。輝いていた。その輝きは、生粋の正直者である三上に照らされているようだった。

まさに広い空にいる星のようだった。映画の名シーンの一つに、彼の門出を祝って『見上げてごらん夜の星を』を皆で歌う場面がある。映画は明らかにこの歌の2番を重ねていると思う。

見上げてごらん 夜の星を
僕らのように 名もない星が
ささやかな幸せを 祈ってる

ただし「ささやかな幸せ」で終わらせないのが西川作品に通じる怖いところであり、また本領というものだ。この映画も、ウェルメイドな美談で着地するタイミングが、少なくとも2つはあった。しかし、心安らかに幕は降りなかった。

ルール>義理

義理とは何か。

立場の弱い人を虐げる者を眼前に見れば、危険を冒してでも止めること。

偏見や差別をする者に同調を求められれば、意思をもってそれを批判すること。

「義理」とは、人として正しい道のことだ。

いつの時代から、不完全なルールたる法律のほうが義理よりも偉くなってしまったのか。

本当に良い映画は、世の中の見え方を変えてしまう。その意味で、今の僕にはまさに良い映画だった。

毎晩、夜通し号泣しているわが子がもう直ぐ1ヶ月になる。目に映るこの子の寝顔も変わって見えてきて、不思議な気分になった。

2021.04.01 Urano on my April Honesty's Day

【永い追記】死についての想像力と、文学の力について

僕がこの映画を知ったのはつい最近のことで、西川美和監督のファンとしてはお恥ずかしい限りだった。死刑制度をテーマにオンラインイベントを開こう、と持ち掛けてくれた大学生が最近観たと言って教えてくれたのだ。

予告編が良かった。すごく良かった。

僕の家から歩ける距離にあるシネコンでは、ギリギリ上映中(午前中に1回のみ)。その死刑制度についてのイベントが終わってすぐに観に行った。席はガラガラだった。

ちなみにイベントには、その主催側の大学生のほかに、本作を観た人がもう一人いた。今まで何度も読書会などで直接話したことのある人だった。放課後の雑談タイムで僕は踏み込んでみた。ヤクザ撲滅への違和感に話を向けてみたのだ。もちろん『すばらしき世界』に絡める形で。

その人は、次のようなことを言った。

「ヤクザには、弱い者を守る、仲間を大切にする、など独特の道理がある。それで表の社会が守られてきた面もある。表と裏の社会が共存してきたこの日本から、ヤクザだけを取り除こうとしたらバランスを欠くことになる。必然的に別の”裏”が生まれるだろう」

僕も同じことを思う。ただ若い仲間の一人は、まったく理解を示さなかった。その若者は「えん罪の可能性は死刑以外についても同じだから、それを死刑廃止の理由にするのは間違っている」とも言っていた。議論を交わした今でも、そう考えているに違いない。

僕には、はっきりと言える。

死だけは違う。

つまり死刑は、他のあらゆる罰とまったく別物だ。

彼に圧倒的に足りないのは、死についての観念だ。デジタル化した社会に生まれ育った世代だからか?それとも若くて人生経験が少ないから?いや、きっと違う。ちなみに若い彼は、本をたくさん読むが、小説をほとんど読まない。

彼は法治国家という言葉を何度か使っていた。望ましくない法律を「変えよう」という話に、この法治国家という言葉(または法の支配という言葉)は易々とは馴染まない(矛盾する、とまでは思っていないが)。それを前提にすると法律は「変えてはならないもの」だからだ。

人の命だけは、他の何とも違う。

その「観念」は実生活のみからたどり着く(つまり親や愛する人を失わないとわからない)というものでは決してなかろう。

文学の力が、そこにある。

文学とは、小説だけではない。僕にとって映画も文学だ。

これまでの全ての長編作品を自らの脚本で作ってきた西川美和監督が、初めて他人の原作を採用したのがこの映画である。紙の書籍が絶版になっていた佐木隆三の『身分帳』を知ったのは、『永い言い訳』の撮影中だった。佐木隆三の訃報記事がきっかけだったらしい。

西川監督の初期衝動は「この本が世の中で読まれるために私が映画にする」というものだった。

脚本を書く前に、役所広司にはすでにオファーを済ませていた。実は役所広司は、この地味な物語が映画になるとは思っていなかったそうだ。つまり企画が通らないだろう、とみていたらしい。

西川美和の過去の優れた作品がなかったら、映画にならなかったのだろう。

それを役所広司は「実績」と呼んでいた。

前作『永い言い訳』は、直木賞の候補にもなった。映画監督としてではなく、表現者として、西川美和は今回さらに実績を積み上げたと思う。

そして、役所広司はいうまでもないが、仲野太賀の演技が本当に素晴らしかった。

(永い追記、終わり)


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