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シンガーソングライター 辻井貴子に会った_2

 ゆっくり話を聞きたいと思っていた人がいた。さりげない振る舞いや、ふと発する言葉に惹かれた。自分の場所で生きているように見えた。どんな来し方をしてきたのだろう。覗きたくなった。そんな人たちの探訪記「あの人を訪ねる」。
 第三回には、辻井貴子さんに登場していただきました。

 2024年1月1日に、ソロ・アルバム「わたしのうた」を発表する辻井貴子さんへのインタビュー後編です。
 ソロ活動を選んだ経緯、歌づくりの方法、次作の展望など、"やぎたこ"その後のあれこれについて、語っていただきました。

 前編はこちらからご一読ください。

イラストレーション ツトム・イサジ


歌ってる時の方が、私は私なんだなって思った。

大江田 やなぎさんが、突然の逝去をされた。このことについてお話をうかがってもいいですか。

辻井 はい。

大江田 やなぎさんが、亡くなられた。驚かれたと思います。

辻井 途方にくれました。2月に亡くなったんですけど、ゴールデンウィークまでもう予定が決まっていました。1人でできるかどうか、わからなかったので、やぎたこのライブを全部キャンセルしました。
 やなぎさんと一緒にツアーをするなど、やぎたこ以前からお付き合いのあったよしだよしこさんのライブを聴きに行った時には、「歌ったらいいじゃないの」って背中を押してもらいました。毎月お世話になっていた百合ケ丘にあるBLACK CAT TIGER 永吉 ROCK'N ROLL HOUSEのママには、食事をご馳走してもらって「ちょっと、そんな痩せてる場合じゃないわよ」って励まされて。4月初旬のBLACK CAT TIGER 永吉 ROCK'N ROLL HOUSEのライブと、やなぎソロとやぎたことの両方でずっとお世話になっていた長野県松本のマイ・シャトーで歌わせてもらったのが、新たなソロ・デビューになりました。
 歌うことを辞めるっていう選択肢は無いなあと、頭ではそう思った。でも、歌えないんじゃないかとも、思いました。ステージで泣いちゃうとか、そういうことが起こるんじゃないかと思って、すごく不安だったんです。でも逆でした。ギターを持ってステージに立ったら、絶対に冷静でいなきゃいけないという、師匠やなぎさんの教えが体に入っていました。「叙情詩になってはいけない、叙事詩でなきゃいけない」という教えもありました。「あわれな移民」みたいな史実を扱う歌では、淡々とうたわなければいけない。歌う側が感情的になってはいけない。こうしたことを、やなぎさんから叩き込まれていたんです。自分でも驚きました。すごく冷静でいられたし、正気に返った感じでした。

大江田 なるほど。

辻井 歌うことで救われた感じでした。歌ってる時の方が、私は私なんだなって思った。普通の私に戻れたっていう気がしました。

「珈琲ふう」にて(2022)

大江田 その後、ソロ活動が1年半ほど続いています。自分の成長とか変化とか、手応えなどは感じてますか。

辻井  最初よりは上手くなったと、思います(笑)。10年後に「ソロを始めた頃は、もうどうなるかと思ったよね、ホントーに下手だったよね」って、笑い話になったらいいなって思いながら始めたんです。そもそも、やぎたこがそうだったんですよ。「10年前に始めたときは、本当にひどかったよね」って言われながら、気がつくと10年経っていたので。同じことがソロでも起こるんじゃないか、起こせるといいなと思って。だから下手であることはわかっていたけど、あんまり気にしませんでした(笑)。
 今もそうですね。下手な楽器でも人前でやるのは、そういうことです。すいません(笑)。

大江田 自分が至らないことを自覚するというのは、ミュージシャンなら誰にでもあることだろうと思います。どんなに上手な人でも、そうした想いを抱えながらやっていると思う。ひとまずそれはそれとして、去年に比べて少しずつ出来るようになったなと思うことはありますか?

辻井 やぎたこの時には、喋ることも演目も事前に決まっていたし、お客さんがどんなに騒ごうとも、何を言ってこようとも、どうやって次の曲に持っていくかしか考えてなかったんですよね。その曲の説明をする内容は決まっていたし、歴史的事実が多いので間違えてはいけなかった。私は覚えてきた内容を話すことに、集中してました。
 やなぎさんは、自分のソロのライブでは、お客さんの様子を見ながら上手に持っていくことが出来ていたと思います。私もソロのライブの数を重ねるうちに、その日その場所に来てくれたお客さんに、自分を伝えるにはどうすればいいのか、そうしたことを考えるようになりました。お客さんに対して、正直に喋ることができる瞬間を、持てるようにもなった。それは去年には無かったし、今までのソロライブではありえなかったことですね。

大江田  トークが、ずいぶんお上手になりましたものね。

辻井 (笑)。

左から木崎豊さん、辻井貴子、北村謙さん。京都亀楽にて。(2022)

共感してもらえることを、私は歌いたい。

大江田 去年、あなたがひとりで活動を始めたときに、みんなすごく心配をしました。

辻井 そうですよね。

大江田 大丈夫だろうかって心配する気持ちを持ち、何をやっても応援してくれる仲間のようなお客さんがいる。そういう支えられ方をして来たけれども、そこだけにとどまってるわけにもいかない。

辻井 そうそう。

大江田 あなたの歌で、お客さんが笑うことがありますね。

辻井 あっ、 最近そうかもしれない。

大江田 「となり町の味噌屋」や、ヨシタケシンスケさんの絵本が元になってできた新曲の「シッパイ イッパイ もうイッカイ」などで、お客さんがつられて笑います。
 やぎたこの時には、笑いは起きませんでした。お客さんはリスナーだった。今の辻井さんのライブでは、お客さんが歌に参加をしている。辻井さんの歌が、お客さんに波紋を呼び起こしている。そういうことが始まっている気がします。

辻井 歌の受け取り方って、皆なそれぞれ違うんだなって、それはすごく痛感します。初めの頃は歌の生まれたきっかけをお喋りしていたんですけど、しない方がいいなって思うようになりました。歌詞のモデルがいて、そのモデルの人の物語とまた違うお話とがドッキングしたりして生まれる歌が多いんです。種明かしは出来る。でも種明かしをしない方が、聞いている方のものとして、歌が入って行きやすい。歌ってそういうものかなって、思うようになりました。
 すごく賑やかなお店で歌うこともあるんです。場末のスナックみたいな場所です。忙しく動いていて、聞いてくれていたようには見えなかったお店のママが、歌のタイトルまで覚えていて「『ふたり』って歌が良かった」とか言ってくれたりするんです。「しかめっつらの親父が笑うと価値がある」ということわざがありますけど、そういうのは嬉しいですね。あの歌に、彼女の心のどこかに響くものが入っていたんだなって思うんですよ。誰でも思い当たる節のあることが歌の中にあると、それはその人のものになる可能性を秘めてるんだろうなって。

大江田 そういう歌をうたいたいという気持ちを持つようになったんですね。

辻井 はい、そうありたいと思います。
  昔から好きだった作家の福永令三さんの本のあとがきに、「童話作家は何を書くべきかと考えることがある」というような意味の文章があったんです。「生まれた子供を崖の下に落として成長させるライオンでさえ、生まれたばっかりの赤ちゃんライオンには、とてつもなく優しい、とろけるような表情を向ける。それを見たときに、自分はこれだと思った。これから生きていく上で一番大切なのは優しさだと、母ライオンがわが子に教えている姿なのだと。子供を産んで育てるのは、優しさがないとできないことだ。優しさがないと、生き物は生き残っていくことはできない。その優しさというものを、ボクは書こうと思った」といった内容の一節だったように記憶しています。小学生の頃に読んだはずのその後書きが、今もずっと心に残っています。歌もそういうものなんだろうなって、私の中では思っているんです。
 誰もが経験し、誰もが感じる感情というのがあると思うんですね。それは優しさだったり、愛おしさだったり、悲しさだったり、苦しさだったり、いろいろだと思うけど、そういうものを思い起こさせるような言葉とかメロディーとか、そんな粒々が入っている歌は、共感を呼ぶと思うんです。みんなに共通すること、共感してもらえることを、私はうたいたい。歌が自分のものになったときに、歌が寄り添ってくれることもある。「ああ、そうだよね、そういうことあるよね」って思ってもらえる歌にしたいって、願っています。

伊豆修禅寺「琴茶庵」にて(2022)


歌は、勝手に成長すると思うんです。

大江田 シンガー・ソングライターと言われている人たちの多くは、特にやなぎさんはそうだったと思うけど、自問自答の歌を持っています。これでいいのか、どこへ行けばいいのか、帰る場所はどこか、そういう歌です。やなぎさんは自身への自問自答を、厳しさを持って言葉にしている。さらに言うと、人を指さす歌をうたうと、批判の言葉はいつか自分に跳ね返って来ることも知ってる。そういう歌を書くときは相当の覚悟を持っていたと思うし、基本的には言葉を自分に向けていた。だから自問自答の歌が多くなるんだろうと思って、ボクは見てました。
 辻井さんの歌の場合は、少し違うと思うのです。「つま先立ちしてた頃」には、つま先立ちしていた少年の姿が映っているし、「ふたり」では"とあるふたり"の関係を描いている。「ひだまり」にも、おそらく誰かの姿がにじんでいる。自分の歩んできた道筋を歌っている「旅路」では、出会った人や出会った町が登場し、風景として浮かび上がります。こうして見ていくと、自分ではない「何か」が歌に描かれている。これは意図していますか?偶然ですか?

辻井 私が描こうとしている風景を言葉にすると、自然とそうなります。自分と他人との関係を書きたいから。

大江田  自問自答ではない歌を書くのは、それなりの立場の取り方だろうなと思います。
 例えば、彼に振り向いて欲しいとうたう時に、「好きだったのよ あなた」って言いながら、彼のことをちょっとなじったりする。それは、外界を写し込んでいる自分の中の鏡を覗き込みながら、モノローグしているとも言えます。
 それに比べると辻井さんの場合は、もっと外に出てオープンにうたっていると感じます。

辻井 ああ、それは確かにそうかもしれないですね。「あなたのことを好きだから、振り向いて欲しいの」みたいな歌を、作ろうとは思わない(笑)。そう言えばそうですね。どうしてだろう?

大江田 「約束」にはこんな歌詞がありますね。「あなたの見てる海が見たい」。これは「見せてくれ」って言っているのではなくて、「あなたが見ている所まで自分が行く」、「そこまで私は行きますよ」という歌ですよね。

辻井 そう、そうそう。

大江田 「わたしのうた」では、「私は私に歌える歌を、いつかあなたに届くように」とうたう。「あなたは、あなたでいてください。私は、私がうたえる歌を自分で見出します。それをあなたに届けたい」という想いかな。そういう「私」という人に向けて、「頑張ろうね」って、うたいかけている歌に聞こえます。

辻井 そうですよね(笑)。いや、笑ってすいません(笑)。後から解釈すると、確かにそういうふうに出来上がっていると思うし、そういうメッセージになってるんですけど(笑)。
 歌が生まれたあとにも、今も生き残ってる断片とか使われなかった言葉や切れ端がいっぱいあって、何年も後にポッと出てきてまた別の歌になったりすることもあります。今はああいうカタチになっている「わたしのうた」も、最初っから「これ」が言いたいという風にして出来たわけじゃないんですよ。歌は、勝手に成長すると思うんです。
 今回のアルバム「わたしのうた」を聞いて、これはやなぎさんのことをうたっているんだろうと思う人は大勢いると思う。でも実はやなぎさんがいなくなるより前から作られていた歌ばかりだし、やなぎさんを具体的に想定して書いた歌ではないです。一方でやなぎさんという歌うたいは、きっとこういう人なんだろうなという、私なりのストーリーもある。だから「祈り」に出てくるあの"歌うたい"という人には、やなぎさんのイメージもあるんだけど、なんていうのかなぁ......。

大江田 「祈り」に出てくる"歌うたい"は、やなぎさんを超えていると思います。

辻井 うん、そういうふうにしたかったんです。歌が生まれるきっかけには、やなぎさんと同様にツアーをしてるミュージシャンを知り、それまで私が出会ったことない人生を垣間見たという経験がありました。いろんなことが重なって、それを普遍化すると「祈り」になる。普遍化したいと、いつも思ってる。だから全部が私の言いたいこととは限らない。

大江田 普遍化は、自分の歌を作る時のキーワードになってるのかな。

辻井 うん、そうです。それがうまくいったものをピックアップすると、11曲のアルバムになりました。

左から岡崎佳子さん、佐藤Gwan博さん、辻井貴子。東京下北沢ラカーニャにて。(2022)

君の荷物が、ほんの少しでも軽くなればいいけど。

大江田 もうひとつ気づいたことですけど、歌詞の中にたびたび「歌」という言葉が出てきます。「歌が残る」、「歌もいつか違う空のどこかへ」、「歌を携えて」、「この歌よ届け」、「私は私に歌える歌」などですね。「祈り」にある「歌うたいはいつでも 歌うしかできない 悲しみに耳を澄まして」、これはいい言葉だなと思います。こうしてみると、辻井さんが歌とは何かを考えながらうたっている、歌をうたう意味をうたいながら問うている。そういうプロセスを感じます。

辻井 そうですね。
 歌うということは、その人の感情を外に吐き出すことだったり、吐き出したものを誰かに共感してもらうためのツールだったりすると思うんですよね。「祈り」の歌詞にも出てくるけど、歌うというツールを持たない人もいます。自分では歌わないけど、聞くことで解決できる場合もあるかもしれない。そういうことを出来る存在が、"歌うたい"だろうなって思う。そういう私の中の真理みたいなものがあって、それが常にどこかにありながら歌詞に出てくるんでしょうね。

大江田 誰もが見てはいない、気にしてはいない、見過ごしているかもしれない。そんな悲しみのいろいろに、歌うたいはじっと耳を澄ましている。喜びは耳を澄まさなくても聞こえるけど、悲しみは耳を澄ませないと聞こえない。その悲しみを"歌うたい”は、自分のものとして昇華する。あなたの代わりに、彼や彼女はうたっているのかもしれない。だから「悲しみに耳を澄まして」という言葉に、悲しみを知る人は救われるだろうと思います。ぼくはそう受け止めました。

大阪府豊中市ねいろカフェ(2022)
「ねいろカフェ」にて。(2022)
金森幸介さんと。「ねいろカフェ」にて。(2023)

大江田 「記憶」という歌は、ちょっとニュアンスが違うかなと思ったのですが。

辻井 父が5、6年ほど前から認知症になったんです。そこからじわじわと進んでいって、介護が必要な状態になリました。主に同居している母と妹がすごく献身的な介護をして、女手二人では無理だというギリギリまで在宅で頑張って、最後は特養に入り、父を見送りました。自然の摂理に従った大往生だったので、悔いはないと思うんですけど、私には音楽にかまけて手伝えなかったという後悔が残りました。
 だんだんと忘れていくことが増える父を見ながら、忘れる本人は何も分からなくなるんだからいんじゃないの、って何も知らないうちは思っていたんです。
 でも忘れてゆくその過程で、本人には不安、恐怖、混乱など、いろんな感情が沸き上がっていたんだろうと思います。その感情を抑えることもうまくいかないから、極端な出方をしているんだろうな、と思える反応もいっぱいありました。でも、症状が進んでも消えないこと、忘れないこともある。

大江田 「あなたを忘れない」がメイン・タイトルだったら、わかりやすい歌になるのかなと思いましたけど。

辻井 私は父親似なんです。忘れようがないんです。父の遺伝子は私の体に入っていて、顎の形とか、骨格とか、指の端っことか、いろんな場所が似てるんですよ。妹はどちらかと言えば母親似なんですが、私は明らかに父親似。私の中に入っているものは、もう忘れようも消しようもなくて覚えてるわけですよ。『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』という映画を観て感じたことも、ちょっと入っています。時間が大きな輪をかいたサイクルで戻ってくる、そしてまた父に会える。輪廻みたいな感じを歌いたかったのかな、と思います。

大江田 この歌のポイントは、「歌が残ってる」ということだと思いました。心が忘れちゃっても体が覚えているお父さんのふとした動きを見て、周りが「あっ」と思う。いろんなことがあった。長く遠い道の旅が終わりに近づいていることを、周りも知る。でも「歌が残ってる」とうたわれる。それは、辻井さんが歌を残しているという意味なんだろうと、聞き取りました。「お父さん、『記憶』という歌をうたいながら、あなたと私の時間の全てを、この歌に残しているんですよ」ってうたっているように、聞こえるわけです。「歌が残っている」っていうより「歌が残っていく」っていう方が、ボクの聞き取りには整合するんだけど。

辻井 私が歌を残している、という意味なのはその通りです。ただ、父とのことを歌に残す、というのはちょっと違う。消しようのない遺伝子のようなものが私に残っているのと同様に、私には、子どもを残すように歌を残す、そうありたいという気持ちがあります。私という歌うたいがこの世からいなくなって姿を消して、名前も忘れられても、歌は残る。そうだったらいいな、って。
 よしだよしこさんの「道ばたでおぼえた歌」に、「名前も告げずに 歌だけが残る」、それから「名前も知られず 歌だけが残る」という歌詞があって、大好きなんです。そういう思いから生まれた歌です。

2023年6月17日の愛知県犬山市「珈琲ふう」の入り口。
「珈琲ふう」にて。(2023)

大江田 「旅路」の歌詞にある"会いたい人に 会いにいこう 歌を携えて"ってどういう風景ですか。

辻井 "歌を届けに来たよ、会いに来たよ"って感じです。

大江田  「その町へライブに行って歌う」と聞き取るのが自然なのかもしれないけど、もしかして辻井さんが会いに行く対象は、一人の人と聞こえるような気もしました。病床で寝てる友人かもしれない。そのむかし喧嘩別れした友達かもしれない。「会いたいから、歌を携えて会いに行って、あなたの前で歌わせて」とも聞こえる気がする。この感想は、いかがですか。

辻井 各地にまた行きたい場所があって、そこへ行けば会いたい人たちがいるんですよね。私が歌う人じゃなかったら、出会えなかった人たちが。
 私にとって歌は、そういう人たちと出会えたツールだから、歌によってまた再会しようと思うんです。歌っていれば、また会える。そう思っている。会いたいから、歌を持って行くんです。歌いたいからじゃないんです、たぶん。
 やなぎさんが書いた「私とギターが歌うとき」という歌を、私はうたっています。「ギターを手に今夜はどんな歌を届けようかな、この歌を聞いてちょっと優しい気持ちになってくれるだろうか」という内容です。「小さな町の小さなライブハウスから」には、「君の荷物が、ほんの少しでも軽くなればいいけど」という歌詞もあります。そういうスタンスがやなぎさんにあって、ずっと隣にいた私がそれを引き継いでいる。歌うたいにとっての歌とは、そういうものだっていう意識が、私にあるんですよ。
 大塚まさじさんにお会いしたときに、「いろんなところにライブ行ってね、今のボクはこんな感じだよって、報告するつもりで行けばいいんだよ」って言ってくれたことがあって。すごくわかりやすくていい言葉だなと思い、忘れずにいます。「こんな歌できたよ、こんな感じどう?」、「私には今こんなふうに世界が見えてるの」というふうに、新しくできた歌を携えてみんなに届けに行く、そんな感じですね。

まずやぎたこがいた場所から、スタートしようと思いました。

大江田 ところで、アルバム制作の際に、全ての楽器を自分で演奏しようと思ったのは、どうしてですか?

辻井 やぎたこ出身者として、まずやぎたこがいた場所からスタートしようと思いました。何がどうできるか、どこまで出来るかも含めて、まずは自分の出来ることをやりたい。これから誰かに何かお願いするときでも、「私はこんなことが出来て、こんなことしたいと思ってます」って言えるようでありたいと思ったので。あの人に頼めばこんなふうにも弾いてくれるだろうなと想像して、もうここまで「頼んじゃうかな」って思ったこともあったんですけど、でもやっぱり自分でやろうと思ってこうなりました。

大江田 やってよかったですか?

辻井 よかったです。これが今の嘘偽りのない私の実力だと思うんです(笑)。「俺に何で相談しないんだ?」とか、「ここで録ればいいのに」とか、そうしたこと言ってくれる人もいました。でも皆んなに頼むわけにはいかないじゃないですか。どこかで選抜をしなければいけなくなる。そんなことをするよりは、全部自分でやろうと思いました。みんなに感謝してる。誰かなんて選べないです。

高田渡生誕地の岐阜県北方町のワタルカフェ
ワタルカフェにて。(2022)

大江田 アルバムがどんな場所で、どんな人に聞かれるといいなって考えたことがありますか。

辻井 考えたことなかったんですよ、今まで。目の前にいるお客さんが聞いてくれることだけが全てだったので、そうじゃない人に聞いてもらう機会を得ようという発想さえなかった。

大江田 やなぎさんは、辻井さんのソロをいつか作りたいと思ってましたよね。

辻井 彼は自分がいなくなることでしか、私をソロにすることができなかったなあって、思うことはあります。もしいたら、やぎたこやっちゃう(笑)。二人ともその方が楽しいので。

大江田 このインタビューをやぎたこ回顧録にはせずに、辻井さんのソロ・アルバムの話にしたいのです。やぎたこ回顧録をやる意味はあると思うし、やなぎさんの仕事の評価も大事なことだと思う。ただ今の辻井さんには、自分のアルバムをどう伝えたいか、どんなふうに広げたいか、自分の未来にどう臨むのかっていうことを、語ってもらいたいと思います。

辻井 ちょっとびっくりしてるんですよ。今回は、今までやったこともないようなことをいっぱいやりました。

大江田 アルバム・リリースにあわせて、ミュージックビデオも公開されましたね。でも何も変わらないかもしれません。

辻井 うん、そうかもしれない。でも私の中では、やっぱり変わります。今まで見たことのないことをやったし、関わったことない人にも会う。私にとってはプロの人はこういうものの見方をするんだなとか、こういう手順があって、こういうふうに音楽が商品化されるんだなって思いました。 私自身も商品化される。商品化された辻井貴子は、私じゃない。そういう発想は今までなかった。思いもよらなかったし、そういう意識をしたことはなかったんです。

大江田 作品が自分を引っ張っていくとか、作品が思いがけず周囲の状況を変えるということについて、想像したことが無かったのかな。ライブで音楽活動を続けてきた人に、多くある傾向ですね。
 ミュージック・ビデオも作品があってこその制作物です。そうそう、今回の「わたしのうた」と「アルバム・ダイジェスト」のミュージック・ビデオには、どういう感想を持ってるんですか。

辻井 びっくり(笑)。本当にその4文字なんですよ。こんなふうにできるの?自分じゃないみたい、誰これ?って思いながら見てるんです(笑)。


辻井
 ソロを活動を始めてから、佐久間順平さんが一緒に演ってくれた時も、そうだったんです。私がすごく上手に見えるようにサポートしてくれたんですよ。私こんなに上手かったっけって、錯覚を覚えるような感覚にさせてくれるんです(笑)。なぜなら出ているオトがそうだから。でも一人になると、しょぼいままなんですよ(笑)。順平さんてすごいなって、思いました。バドミントンを本格的に生業にする人に教わったときに、ほんのちょっと手首の返し方を直してもらうだけで、自分が打ったとは思えないようなショットが打てたりする、その衝撃とも似てると思います。

佐久間順平さんと。岐阜県各務原市ミュージックルーム6-21にて。(2022)

「これからのうた」のあれこれ。

大江田 アルバムを作り終わったばっかりの時に、こんな質問するのはどうかと思うけど、次のアルバムへの展望はいかがですか。

辻井 はい。入れたい歌がいくつかあるので。なんて言えばいいのかな、このあたりのことは、もう最初から決まってる運命って気がするんです。うまい風が吹いたときにそれを逃さずにいれば、耳を澄ましていられたら、ちゃんとあるべき場所に落ち着く。こうしたい!とかじゃなくて、神様がもう決めているんです(笑)。無宗教なんだけど、そういうときは神様がいるって思ってます(笑)。こんな歌とあんな歌とが今あって、それが集まるとどんな感じのアルバムになるんだろう、じゃあこんな感じの歌が必要かなって思いながらいると、歌ができる。できたけど前に作った歌と一緒だ、みたいなことになったり(笑)。「これからのうた」っていうフォルダがあるんですよ。その中に思いついた新しい歌が入ってるんです。

大江田 次作の手がかりになる歌が、生まれつつあるという感じですね。

辻井  そうですね。ちょっと元気な可愛い感じの歌の集まるアルバムになったらいいのかなって思いながら、最近はうたっていない歌を引っ張り出してみたりとかしてます。そうそう、今回のアルバムには入れなかった歌があるんですよね。

大江田 今回のアルバムに入れる、入れないの判断はどこで決めたんですか。

辻井 うまく言いきれてないって思いながら、うたっちゃってる歌もいくつかあって。

大江田 うたいながら歌を作っていくタイプなんですか?

辻井 多分そうです。もちろん出来たと思って、うたうんですよ。でも、思ったように相手に伝わらなかったり、わかってもらえなかったり、自分でもわかりにくいからもっと変えたいと思ったりして、歌詞が変わる。今回のアルバムに入ってる歌も、以前にうたっていたよりは、だいぶ歌詞が増えたりしたんですよね。つぎ足した言葉によって違う風景が生まれて、また違う言葉を思いついて違う話がくっついて、結果的に大江田さんが違う解釈をしてくれる歌になってたりとかして(笑)。

大江田 散弾銃っぽい歌詞作りですね。

辻井 そうですね。お話ひとつずつにちゃんとそれぞれの物語を膨らませる力があれば、歌がいっぱいできると思うんですけどね。

大江田 それは課題かもしれませんね。

辻井 大いにそうだと思います。新聞の切り抜きをするとか、メモするとこまでは行ってるんですけど、それをまとめるところまでたどり着いていないアイデアがいくつもあります。

オートハープを手に(2023)


10の質問と答え

大江田 最後にこのインタビューで必ずしてるお決まりの質問があるんです。 
 まず好きな言葉を教えてください。

辻井  強行突破。

大江田 嫌いな言葉を教えてください。

辻井 ムーリー!

大江田 気持ちを高揚させるものはなんですか?

辻井 いいライブ。

大江田 うんざりすることはありますか?

辻井 家計簿(笑)。嫌なんですよねえ。

大江田 好きな音はありますか?

辻井 水音。

大江田 嫌いな音はありますか?

辻井 サイレンの音。

大江田 好きな悪態を教えてください。

辻井 おととい来やがれ!

大江田 今の職業以外でやってみたい職業を教えてください。

辻井 パイロット。空を飛びたい。

大江田 絶対にやりたくない職業はありますか?

辻井 弁護士。喧嘩は嫌い。

大江田 あなたは今、天国に着きました。神様になんと言われたいですか?

辻井 おつかれー!!(笑)

大江田 長い時間、ありがとうございました。

辻井貴子プロフィール

インタビューの前に、ご自身で書かれたプロフィールを頂いていました。
辻井さんらしさがふんだんに表現されている文章なので、ご本人のご了解を得てここに掲載させていただきました。



今や誰も信じてくれないけれど、幼稚園の頃はとっても内気で、お弁当のおかずの甘く煮たお豆を隣の子に取られても、反撃できずに泣いているような子どもだった。外の世界が怖くて怖くて、何か月も登園拒否していたことも。

小学生になってからは少し改善したけれど、それでも友だちと遊ぶよりも一人で手芸をしたり、本を読んだりしているのが好きなタイプ。
でも運動が嫌いかというとそうでもなくて、かけっこは得意だった。体操選手気取りで、鉄棒の上やうんていの上をバランスを取って歩いたりしていた。ただし、球技はからっきし。水泳もダメ。

中学に入って「何か部活を」となった時に、「球技じゃないもの」と安直に選んだのがバドミントンだった。
顧問の先生がうまく面白さを伝えてくれる人で、すっかりやる気に火がついてしまった私は、地元のクラブにまで通ったりして特訓。双六で負けても泣きじゃくるような負けず嫌いな性格が奏功したのか何なのか、「もっと強くなりたい」と高校でも続け、大学ではなんと体育会の部に入ってしまった。

「体育会系」という言葉から連想するイメージは人によってそれぞれだろうけれど、所謂「一般生」の私を受け入れてくれた当時のその部は、男女混合で協力し合う良い雰囲気のチームだった。監督のキャラクターもあったと思う。先輩たちはその競技を将来の生業とする覚悟を持った、スポーツ推薦による入学者がほとんど。「少数精鋭」という言葉が似合うその中で、私は明らかに「へたっぴ」だったけれど、とても可愛がってもらって楽しかった。もちろん、トレーニングはハードだったし、授業時間よりも長く体育館にいるような生活。早朝にスーパーの品出しのバイトをして稼いだお金は、全て遠征費に消えてしまったけれど、、、でも楽しかった。
巧い人が教えてくれると、ものすごく上達する。違う自分になれたみたいで嬉しかった。
この時に培った体力が、その後の私をずいぶんと助けてくれたと思う。

部を引退する頃まで音楽とは縁のない生活だった。でも就職内定先の人事部の担当者の影響で、ある時、THE ALFEEのライブを聴きに行くことになった。
神宮球場でオーケストラをバックにした、一風変わったロックとクラシックを融合したようなライブ。劇団四季のミュージカルは大好きだったけれど、こういうジャンルの音楽を生演奏で聴くのは、生まれて初めてだった。
ライブの終盤に、メンバーの3人が、真ん中に置かれた1本のマイクを囲んで、ア・カペラで「Pride」を歌った、その迫力にすっかり魅せられて、突然、私のライブハウス通いが始まった。坂崎幸之助さんのラジオ番組の影響もあり、「日本のフォーク」を解説する本を読み漁り、そこで覚えた名前を頼りにCDを探したり、ライブの情報を集めたり。本屋で雑誌のチケットぴあを買って、そこに記載されているライブハウスも訪れるようになった。ずいぶんいろいろなライブに足を運んだ。スターダスト☆レビューのファンクラブに入っていたこともある。有名フォークシンガーのマンスリー・ライブに通ったこともある。

初任給を握りしめて銀座の山野楽器へ行って、モーリスのアコースティック・ギターを買った。音叉が付いていて、ブックオフで買った初心者用の教則本を頼りにチューニングをした。
いろんなことに楽しく悪戦苦闘している頃に、YAMAHAの「Go!Go!Guitar」という雑誌で作詞作曲講座を連載していたミュージシャンのHPの掲示板に書き込みをしている人たちと仲良くなった。当時のハンドルネームは「武蔵野にたんぽぽを見た」。
ようやく、インターネットが各家庭に普及し始めた頃だった。
ISDNからADSLになって、ネットワークの設定に苦労したりしながらもホームページらしきものを作ろうとしたり、録音した音をアップしてみたり。
オフ会の時に他のメンバーは当時まだ20代の女子が登場したので驚いたらしい。
ハンドルネームからてっきり70年代フォーク好きのオッサンだと思っていたから。
まだ「ゆず」や押尾コータローさんが流行するより前のことだったと思う。みんな、よってたかっていろんなことを教えてくれた。

「高田渡のギタースタイルが好きなら」とチェット・アトキンスの名を教わり、そこからトミー・エマニュエルのCDを教わった。タブ譜を手に入れ、美しいメロディをどうしても自分で弾いてみたくて、一小節ずつ100回弾くと決めて夜な夜な特訓した。最初は1小節。翌日は2小節、、、結局、ちゃんと弾けるようになったとは言えない出来だったけれど、好きなメロディらしきものに近付くだけで嬉しかった。モーリスのS-71というフィンガーピッキング用のモデルを買って弾いていた。このギターは今も持っている。全然、弾けていないにも関わらず、無謀にも当時、開催し始めたばかりのモリダイラフィンガーピッキングコンテスト(2004年4月3日開催の回)に応募した時の写真で抱えているのもそのギター。

予選を通過できるような腕ではないことは自覚していたから、記念受験のようなつもりだったのに、当時はまだ女性の弾き手が珍しかったのか、特別枠のような恰好で赤レンガの大舞台を体験する機会を得た。いくら「運も実力のうち」と言っても、、、本当に運だけが力だった。アレンジした曲は「イムジン河」と憂歌団の「おそうじオバチャン」。選曲は確かにちょっと異質だったかもしれないけれど。

この頃、ソロギターと並行して、件のホームページがキッカケで知り合ったベテランバンドに混ぜてもらった。横浜は日の出町の老舗ライブハウスをホームとし、ブルースを自己流に日本語で唄うユニークなスタイル。
私は、パワーコードしか弾けないくせに、見た目だけブラッキーもどきの安いストラトを買って、練習にも、飲み会にも、ライブにも参加して、界隈の歴史あるライブハウスに出入りするようになった。お店のマスターがロックやブルースからフォークまで、あらゆるレコードを爆音で聴かせてくれた。
観光用ではない、昔ながらの横浜・桜木町エリアで、酔っ払いの呟く哲学や、ちょっといかがわしい匂いの中、本当にいろんな音や、いろんなことを教わった。

「美女と野獣」というアコースティック・デュオを結成してからはさらにもう少し、聴く音楽の幅が広がったのだけれど、この頃はまだほとんどメインで歌うことはなく、コーラス程度だった。それが、シンガー・ソングライター"やなぎ”と出会ってから大きく、方向転換することになる。

最初は「彼のようなギターが弾きたい」と「追っかけ」したのが始まりだった。
顔を覚えてもらい、前座をすることになった私がインストの曲を弾いた時、「唄わないヤツに良いギターは弾けない」と言われたのを受けて、「じゃあ、歌を教えてください!」と頼み込んだところから、「やぎたこ」は始まった。

結成は2009年3月。発声練習を施され、私は、「ギターを弾きたい人」から「唄う人」へ転向した。
ギター2本で始めたやぎたこがお手本にしたのは、ボブ・ディランとジョーン・バエズのデュエットだった。結成間もないやぎたこは2010年7月25日に天城ドームで行われたイベント「~絆~『Folk Song Festival伊豆』」(高石ともやさん、六文銭を始め遠藤賢司さん、斎藤哲夫さん、いとうたかおさん、加川良さん、他、錚々たる顔ぶれと共に地元のミュージシャンも大勢参加するという贅沢なものだった)に出演し、ウディ・ガスリーの「Deportee」「This land is your land」を歌った。

2010年7月25日 ~絆~ Folk Song Festival伊豆  天城ドームにて

この時、客席に居て、「やぎたこを発見」してくれた人たちの影響もあり、オートハープ、バンジョー、フィドル等も弾くようになった。楽器が増えるたびに、その楽器の演奏やその周辺の音楽に長けたいろいろな人との繋がりが芋づる式に増えていった。

2012年 横浜六角橋商店街火災復興ライブの帰り道

「多種多様な楽器を奏でつつアメリカン・フォークやトラッドを独自のアレンジで歌う」との評をもらったやぎたこは、フォークソングだけでなくブルーグラスやオールドタイムを愛する人たちとも共通点を得て、一気に世界が広がった。

ボブ・ディランやウディ・ガスリー、ザ・バンドやマッドエイカーズの曲を詰め込んだファーストアルバムから、カーター・ファミリーを中心に据えたセカンドアルバムへ、そしてさらに遡ってアパラチア山脈に移住したスコッツ・アイリッシュのバラッドをも取り上げたオールドタイムな選曲の3枚目へ。最初はユニットでの活動自体が続くかどうかも分からなかったのに、仲間が増え、情報を得るたびに知りたいことが増え、やりたいことが沸き上がって進み続ける。そんな感じだった。

やぎたこは、本当に仲間とお客様に恵まれた、ラッキーのカタマリのようなユニットだった。

師匠・やなぎ の口癖は「ソロでできないヤツはデュオでもできない」。
ちゃんとソロで唄える状態でやぎたこをやれ、という教えは終始一貫していて、状況が許すと「バラ売り」ということもあったけれど、私のソロは稀だった(やなぎさんはやぎたこと並行してソロ活動も行っていたけれど)。練習不足で、ライブの後にいつも怒られてばかりいたことを、今でもよく思い出す。

飯田のんび荘 オープンマイクにて珍しくソロ

やぎたこは年間100本近いライブを重ねながら、4枚目のアルバムで憧れの先輩と共演する、というコンセプトを実現した。日本版「Will the circle be unbroken」を目指した『WE SHALL OVERCOME』を制作。「ずっと原語で唄ってきたやぎたこが日本語!」という意味で驚いた聞き手もいたようで、賛否両論だったけれど、私はもともとの音楽を始めたキッカケだった場所にようやく回帰したような気持ちだった。

アメリカ音楽をある程度身体に入れたあとだったからこそ、その延長線上にある日本の歌だということが、前よりもスンナリ理解できたのかもしれない。ずっと憧れていた、本とCDの中だけだった先輩ミュージシャンが隣で一緒に演奏してくれるなんて!!まさに夢のようなひととき。録音が終わってしまうのが寂しいくらい、幸せで、楽しくて、そして必死だった。
あのアルバムのおかげで今がある。
つくづくそう思う。

それから3年。
コロナ禍でライブ本数が激減した時に、かねてより「いつかやりたい」と言い続けていた題材に着手することになった。やなぎが小学生の頃から好きだったというスティーブン・フォスターの作品集。その生涯や楽曲に関するたくさんの情報を思う存分に詰め込んだCDブック『Dear Friends and Gentle Heart』の制作は、ピッツバーグにあるフォスター記念館とのやりとりを始め、手探りのことばかりだったけれど、図書館や博物館に通い、心血注いで作られたブックレットはとても読み応えのあるものとなり、フォスター記念館に展示してもらえるまでになった。

「次は何をやろう」
新たな目標も見え始め、新しいことにチャレンジしようとしていた矢先、2022年2月にやなぎが大動脈解離で急逝。やぎたこは13年の活動の幕を閉じた。

私は否応なしに独りになった。そして初めて、ソロで唄うことに真正面から向き合うこととなった。 音楽や、人生の先輩たちが大勢、寄り添い、背中を押してくれた。
どうなることか、何ができるのか、全くわからなかったけれど、コロナで数年間会えなかった人達も多かったので、全てが「これきり」になってしまうのはどうしても嫌だった。

「デキルコト」は限られているとしても、まずはみんなに会いに行きたかった。その一心で、「一人でもどうぞ」と言ってくれる場所へ。「やぎたこ」でお願いしていたライブをキャンセルしてしまった先から、順繰りに。初めて手に入れた中古車に楽器を積んで、私は初めて、全国各地へ1人で、唄いに行くようになった。

最初は、ステージで泣いてしまうんじゃないか、とか唄えないんじゃないか、と不安だったのだけれど、逆だった。
楽器を持って客席に向かった瞬間に、スーッと心が静かになるのが、自分でも不思議なくらいだった。
「ステージでは、常に冷静に。抒情詩ではなく叙事詩であらねばならぬ」
歌い手が感情的になったら聴衆には伝わらないんだと、口癖のように言っていた師匠の教えは、理屈ではなく身体に叩き込まれていたのだ。
「唄う人」にしてもらったことを、心から感謝している。

生前、 やなぎさんが冗談交じりで「俺の楽器や、先輩たちからもらった資料類は全部、いずれキミのところへいくんだから、また次の世代に引き継ぐんだ。それがキミの使命だ」などと言っていたことを思い出す。
「私より若い世代に」というハードルをどうやって乗り越えるかが課題だけれど、、、。

せっかく、唯一の「やぎたこ出身者」なのだからと、やぎたこ時代のレパートリーはキーや楽器を変えて1人で唄えるように、とアレンジ変更に取りかかった。やなぎ担当だった楽器は、同じようにはいかなくともなんとかお蔵入りにならないように、、、と、楽しい悪戦苦闘は続いている。
「リズムが悪い!」と師匠のしかめっ面が浮かぶ気もしているけれど・・・。

たまに(たぶん)苦笑いしながらも付き合って下さるお客様や仲間たちのおかげで、各地のお店を一周したあともまだ、唄う場所を頂き続けることができている。

「いつまで続くか分からない」という歌詞がやなぎさんの歌にあったっけ。
「でも旅はまだ 始まったばかりだ」 と。

2023年の夏に、少しずつ書き溜めてきた自作曲を初めて録音した。
最初のソロアルバムは、これまでのやぎたこ作品の時よりも大勢の人のチカラを借りて、2024年、年明けに発表予定。

いつものあなたへ、そして、まだ見ぬ誰かに、届きますように。

辻井貴子


あとがき

 週末になると沢山の楽器を車に積み込んで、全国各地を飛び回っていると聞きました。さすがに北海道や九州には飛行機を利用するようですが、東北地方も中国地方にも自分でハンドルを握って運転して向かうとか。やぎたこ時代からお付き合いがあったので、やなぎさんが亡くなった経緯も、その後に辻井さんが一人でうたい始めたことも耳に入っていましたが、それにしてもこのファイトあふれる行動力はどこから来ているんだろうと、素朴な疑問を持ったことがインタビューの動機でした。歌を作りうたい聞いてもらうことが、これほどまでに彼女を突き動かしているのかと、驚いたのです。
 歌をうたうという行為には、どこかしら自分の心のうち、ひいては自分そのものが投影されてしまう気がします。自ら作った歌をうたい続けていくことには、何かしら宿命とでも言うべきものも感じます。辻井さんは「歌うたい」との表現を用いていますが、そうした彼女の心のうちをそっと覗かせて欲しいとも考えました。
 インタビューの打診をするうちに、2024年1月1日に初めてのアルバムを発表すると知り、せっかくなので出来立てホヤホヤの音源を聞かせてもらいつつ、お話を聞くことにしました。
 アルバム制作、そして発表に至る経緯の中で、いくつかのプロの洗礼を受けて、辻井さんは戸惑っているようにも見受けました。もしかするとこの先、なんらかの変化を求める風が彼女に吹くのかもしれません。それでも辻井さんは、自分の歌作りと歌うたいの旅を、守り続けようとするのだろうと感じました。
 今後の辻井さんの活動を、見続けていきたいものと思っているところです。

イラストレーション ツトム・イサジ

Information

2024年1月1日発売のアルバム「わたしのうた」は、こちらからご購入いただけます。


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