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シンガーソングライター 辻井貴子に会った_ I

 ゆっくり話を聞きたいと思っていた人がいた。さりげない振る舞いや、ふと発する言葉に惹かれた。自分の場所で生きているように見えた。どんな来し方をしてきたのだろう。覗きたくなった。そんな人たちの探訪記「あの人を訪ねる」。
 第三回には、辻井貴子さんに登場していただきました。

 やぎたこの一員として活動していた辻井貴子さんは、2022年の2月9日、相棒の"やなぎ"こと、柳澤昌英さんの突然の逝去により、思いがけずソロ活動を余儀なくされました。
 あれから1年半余。活発だったやぎたこの活動を彷彿とさせるかのように、忙しく全国各地を飛び回りながら、歌をうたい続ける辻井さんです。そしていよいよ来年、2024年1月1日には、ソロ・アルバム「わたしのうた」を発表する運びとなりました。
 この機会に音楽活動を始めた経緯や、今後の抱負などを伺ってみようと思いました。ギターを弾き始めたきっかけ、やぎたこでの活動、そしてソロとして動き始めて得たもの、作品にこめた想いなど、とても丁寧にお話しいただきました。
 まずは、幼少期からやぎたこ時代までを語っていただいた前編を、ここにお届けします。


イラストレーション ツトム・イサジ


ピアノ、そしてバドミントンの学生時代。

大江田 皆さんに必ず聞いてる質問から、始めます。最初の音楽の記憶を教えてください。

辻井 「どんぐりコロコロ」ですね。母がカセットレコーダーで、録音してくれていました。幼稚園の頃かな、3歳とか4歳ぐらいだと思います。本が読めるようになってからは、寺村輝夫の「王様シリーズ」の一冊、「魔法使いのチョモチョモ」を、妹に読み聞かせているんですね。これもカセットテープに録音してありました。

大江田  子供の頃は、よくそうやって歌ったんですか。

辻井  はい、すごく好きでした。ピアノが家にあって、ずっと習いたかったんですよね。近所にピアノの先生がいて「習いたい」って言ったんだけど、幼稚園は月謝がかかるからその間は駄目って言われて。小学校に上がるのと同時に、習わせてもらいました。

七五三の振袖姿


大江田 クラシック・ピアノですか。

辻井 そうです。ブルグミュラーの教則本をやって、ツェルニー、ハノンという順番で進みました。最初はベートーヴェンの「エリーゼのために」が目標だったけど、それからショパンが目標になりました。有名なノクターンの第2番を弾きたかった。それから幻想即興曲を弾くのが、憧れでした。

大江田 ショパンは、どこで知ったんでしょうね。

辻井 すごく簡略化した「別れの曲」の譜面が家にあり、そこで知りました。冒頭の有名なメロディが、ハ長調で書かれてました。そんな譜面がいっぱいありました。母はその昔、幼稚園の先生をしていたのでピアノが少し弾けたから、譜面があったんだろうと思います。「椰子の実」とか、「トロイメライ」とかもあったかな。母が好きだって言った曲を、私は弾けるようになりたいと思ってました。喜んで欲しいし、褒められたかった。
 あだち充の「タッチ」っていう野球漫画を知ってます?当時すごく流行ったんです。それがアニメ化されました。小さい頃に、毎年のように夏になると放送されていて、それをテレビで見ていました。主人公の高校生の浅倉南ちゃんって女の子が、新体操をやるのね。その新体操の曲が「幻想即興曲」なんです。これ弾きたいと思って。

大江田 幼稚園から小学校あたりの記憶ですね。そこからしばらく音楽は、途絶えちゃうんですか。

辻井 いいえ。小学校高学年ぐらいに、母が「卒業」というタイトルのオムニバス楽譜を買ってきてくれて。そこには小林明子の「恋におちて」とか、斉藤由貴の「卒業」とか、「春なのに」「いい日旅立ち」、それからユーミンとかがあった。そういう歌を、ピアノ中級者向けぐらいにアレンジしてある譜面でした。それがすごく気に入って端から弾きました。尾崎豊の「卒業」も入ってましたっけ。CDプレーヤーが無かったので、ホンモノを聞いたことないんですね。譜面に書いてある歌詞とおたまじゃくしで、こんな感じかなって歌ってました。「いい日旅立ち」は、母も知っていて一緒に台所から歌ったり。そういう小学校の高学年でした。音楽は好きでしたね。
 ピアノは高校までずっと習ってました。そんなに上手ではないけれど、「幻想即興曲」も「別れの曲」も、最後まで暗譜で弾けるぐらいまでにはなりました。

大江田 事前にいただいたプロフィールには、中学になるとバドミントンに熱心になったと書かれています。

辻井 近所の公立の中学のバドミントン部に入りました。そこまで大変ではなかったので、音楽とバドミントンの両方をやってました。高校は、すごい進学校。もちろん運動を一生懸命やっている人もいたけど、強いわけではなかったし、ボロボロな設備だった。だから、私が一番上手い!みたいなヒロインになれました。「初めてバドミントンやります」っていう同期の子と一緒に練習して、どんどん皆が上手くなりました。自主性に任されていたので、勝手に朝練したり、上手い先輩が朝練に付き合ってくれたり、朝から走ったり。そういう高校時代でした。

バドミントンに熱中した高校時代


大江田 大学に行っても、バドミントンを続けてますね。フェイスブックでもバドミントン部だったと自己紹介されています。

辻井 大学時代は、バドミントン漬けでしたね。アルバイトして遠征費を稼いだりしてました。

大江田 音楽とは縁が遠い生活だったんですね。


フィンガー・ピッキング・ギターに熱中した。

辻井 就職活動先の人事部の人がアルフィーのファンで、その影響で2000年の神宮球場でのアルフィーのライブを見に行きました。それで衝撃を受けて、それからアルフィーの追っかけをしました。3人のメンバーのうち、坂崎幸之助さんがいいなと思いました。

大江田 ああ、フォークな人ですね(笑)。

辻井 フォークの人ですね(笑)。坂崎さんのギターが好きだった。それまで高校の時にも周囲にギター弾く人はいなかったので、初めての経験だったんです。アコギが好きになりました。
 坂崎さんのやってるラジオ番組の「K's TRANSMISSION」を聞いて日本のフォークに出会って。田家秀樹さんが監修する番組内の「J-POPスクール」っていうコーナーがすごく好きで、そこに登場するCDとか本とか、いろんなものを片っ端から借りたり買ったりするようになったんです。そこで高田渡さんの歌を初めて聞きました。大学4年ぐらいの頃でした。
 ギターはいいなと思いながらもすぐには買わず、地元の銀行に就職をしてから、最初の給料を握りしめて、銀座の山野楽器でモーリス・ギターの初心者セットを買いました。その後、弦高を低くしたらいいと書いてある雑誌を読んで自分で削ってみたり、ああだこうだといろんなことをやって。結局どうしたかな、ちょっと今はもう手元にはないです。その後10万ぐらい出して買ったのが、やっぱりモーリスのS-71というフィンガー・ピッキング用のギターでした。

大江田 ということは、弦と弦の間が広いのかな?

辻井 そうそう。薄くて広い指板でした。弾きやすかったな。

大江田 なぜフィンガー・ピッキング用のギターを買ったんだろう?

辻井 ギターを上手くなりたいと思ってヤマハの「Go!Go! GUITAR」っていう雑誌も、買ってました。買ったきっかけも、坂崎さんがコーナーを持ってたからなんですけど。その雑誌に応募作品を講評するコーナーがあって、そこのコメントが面白いなと思って興味を持ちました。ちょうどインターネットが普及し始めた頃です。まだISDNの時代で、コロコロいいながらインターネットに繋いで、講師の方のホームページを探し当てました。"いちむらまさき"とおっしゃる方です。MusicParkっていう名前のいちむらさんのホームページに何度も出入りして、掲示板に書き込みをするようになりました。ハンドルネームが、「武蔵野にたんぽぽを見た」っていうんですよ。いいでしょう?(笑)。

大江田 わかる人には、すぐわかります(笑)。

モーリスS-71を手にするモリダイラ楽器主催フィンガーピッキングコンテスト応募写真。(2004)

辻井 しばらくやり取りして仲良くなるうちにオフ会があって、「ハンドルネームを見て、どんなフォーク好きの親父が来るかと思ってたら、20代の女が来たよ」っていう感じで、みんながびっくりしてくれて。それも楽しかったですね。確かにおじさんばっかりでした。女性はいなかった。若い人もちょっといたかもしれないけど、私より年上の男性がほとんど。一回り以上も年上のおじさんにとっては、若い人材が来るのはやっぱり嬉しかったみたいで、すごく教えてくれました。いちむらさんも目をかけてくれて、色々なことを教えてくれて。確かいちむらさんからだったと記憶してるんですけど、渡さんのようなギターが好きなら、「チェット・アトキンスを聞け」っていう言葉があったんです。
 インストなのにこんなに優しい音で表情豊かなメロディーが奏でられて、チェット・アトキンスってすごいと思った。それまで私はアコースティックだって頑なに思ってたんだけど、チェットってエレクトリックなのに、すごく優しい音色で好きだなぁって思った。こんなこと言うのもどうかと思うけど、高見沢さんみたいなギターのカッコ良さがわからないから、高見沢さんみたいなギターは弾きたいとは思わない。でも、チェット・アトキンスのああいう演奏だったらいいなって思って、タブ譜を手に入れて練習していることを掲示板で話したりしてるうちに、「トミー・エマニュエルって人がいるよ」って教えてもらった。それでトミーのアルバム「Only」を聞いて大衝撃を受けて、「Only」の曲を絶対に弾けるようになりたいと思った。これまたちゃんとタブ譜がある。当時まだ輸入するのが大変だったんだけど、浜松のappleJamっていう輸入専門のレコード屋さんの力を借りて手に入れました。おじさんたちの車に乗っけてもらって、お店まで一緒に行って。ニューオリンズやザディコのレコードも取り扱っているお店で、すごく勉強になりました。
 トミーのギター演奏は、とにかく超がつくほど難しい。しかもトミーの手って8フレットくらいまで届くほどの大きさで、私の3倍はあるんですよ。こりゃ無理だなって思って、別の音で代理にしよう、でもこのベースラインは欲しいとかタブ譜とにらめっこしながら、どうやったら自分でも同じような演奏になるかって考えました。夜中にギターを弾くとうるさいから、骨組みだけのサイレント・ギターを買って、毎日1小節ずつ100回弾くっていう体育会の発想です。筋トレ30回3セットみたいな感じですね。そうしてやれば、最後まで絶対に弾けるようになるはずじゃないですか。そうやって練習したんですよ(笑)。

大江田 思い立ったらまっしぐらって感じだなあ(笑)。

辻井 ひとまず、最後まで弾けるようにはなりました。あんなふうに綺麗にはいかないけど、弾きたい曲がメロディーになって自分の手から出て来たら、嬉しいですよね。フィンガー・ピッキングを優遇してくれるようなお店にギター持って通って、オープンマイクに出させてもらったりしてました。
 その掲示板で仲良くなった人が、横浜の日ノ出町を根城にブルースを日本語で歌うThe Hot Wattsというバンドをやっていました。私はバンドに入れて欲しくて、パワーコードしか弾けないのに黒いストラト・キャスターを買いました。

ストラト・キャスター

大江田 パワーコードとは、どういうものなんですか?

辻井 2本の弦だけを弾く奏法ですよね。例えばコードのルートの音と5度の音を弾く。だったらフレットの一箇所を押さえれば弾けますよね(笑)。苦手なフラット・ピック持って、そのブルース・バンドのサイドギターに入れてもらいました。

大江田 そのバンドを主宰されていた方が、近野朗生さんですね。

辻井 大人数のバンドだと小回りがきかないので、もっとたくさんライブやろう、アコースティックもやりたいとなり、近野さんがちょうどドブロで弾き語り始めた頃に、私はアコースティック・ギターでチェットみたいなギター弾きたいって組んだデュオが「美女と野獣」。そのときにコーラスで、ちょっとだけ歌うようになりました。

大江田 近野さんのホームページに、その辺りの経緯が詳しく紹介されていますね。


やなぎさんの追っかけをした。

辻井 そうして知り合った横浜のミュージシャン仲間の古手の一人が、やなぎさんでした。彼の家が火事になったことがあって、仲間たちがやなぎエイドをやったんです。やなぎさんは、 そのころ暮らしていた岩手から、新幹線でみんなにお礼を言いに来ました。その時、私は初めて彼の演奏を聞きました。翌年に、「青い空からBLUESが降ってくる」(2008)というアルバムを発表して、彼は関東ツアーをしたんですよね。私は追っかけをしました。「同じセットリストなのに毎日やって来て、いつも一番前の席で手ばっかり見てる変な女がいて、本当に嫌だった」って、後からやなぎさんは言ってましたけど(笑)。ああいうギターが弾きたいと、私は思った。

大江田 やなぎさんは、ピックを持ってコードを弾くという奏法はやらなかったのかな。

辻井 ストロークの曲もあるんです。それが花形だったりもしたんだけれども、そうじゃない曲が私は好きでした。アルペジオとか、ちょっとギャロッピング奏法っぽく親指を強く使ってベースラインを刻むような、そういうギター奏法の歌がすごくいいなと思って、どうやったらそんなふうに弾けるのかなと思いました。

大江田 高田渡さんは、ミシシッピ・ジョン・ハートから学んだそうですね。

辻井 そうですね、やなぎさんもジョン・ハートから、かなり影響を受けてると思います。

やなぎソロ。横浜野毛ボーダーラインにて(2014)


大江田 やぎたこ結成のプロセスとなると?

辻井 やなぎさんの前座をやらせてもらったことがあって、そのとき私はインストなわけです。ほとんど歌ってなかった。私がやなぎさんに、「ギター教えてください」って言ったら、「歌いなさい」って言われました。「歌わない奴に、良いギターは弾けない」というのがやなぎさんの持論でした。よっぽど歌心の無いギターを、弾いてたんでしょうね。100回練習して、1個ずつ最後まで追えるようになったようなギターでは、歌心はないだろうなって、今は思います、自分でも(笑)。「歌いなさい」と言われて、「でも、歌はねぇ」って応えたら、「教えてあげるから」っていうことになって。後から聞いた話ですけど、「そんなちゃんと、ついて来るとは思わなかった」って言われました。
 話しながら思い出したけど、前座をやらせてもらうときに、緊張しながらギター練習をしていると、やなぎさんがすっと後ろに来て「爪を切れ」って言ったんですよ。それほど長くはなかったと思うけど、「はい!」って言ってその場で切ったんです。「つい『爪を切れ』と言ってしまったら、本当に切っちゃったよ。どうしよう、俺、責任取れないよ。すげえ、ビビったんだよなあ」って、後で言ってました。若い女の人だったら、もしかして爪を綺麗にしてるかもしれないじゃないですか。まぁ、してなかったんですけど(笑)。その程度には本気だったというか、言われた通りにして、出来るようになるなら、やりたいと思ってました。

"やなぎ"と"貴子"でやぎたこ。 活動がスタートした。

大江田 そんなこんながありながら、やなぎさんと辻井貴子さんでやぎたこを結成することになった。The Hot Wattsを抜けたんですね。

辻井 フェイド・アウトですよね。やめるも何も、なんとなくやぎたこが忙しくなっちゃった。別に退部届出したわけじゃないので、「ごめんなさい」っていう気持ちが、今でもあるんです。皆んな今もよくしてくれるし気にかけてくれるし、優しくしてもらってるけど、参加するのが無理になってしまった。それくらいやぎたこが忙しくなった。しばらくは並行して活動していたんですけどね。

大江田 やぎたこのコンセプトは、簡単に言えばアメリカ音楽を、やなぎさん独自のアレンジで歌うこと。いわば「やなぎ's・ワールド・オブ・アメリカン・ミュージック」ですよね。ボブ・ディランを主とするロックからアメリカン・ミュージックに入って行ったやなぎさんが、ディランの背中にある音楽ルーツを覗き込んでるとでもいうか。そんなカタチで始まったんだろうと想像します。やぎたこは英語で歌ってきましたが、これについては初めからはっきりしたコンセプトがあったんですか。

辻井 「ギターを教えて欲しい」から「じゃあ歌え」ってなった。声もろくに出なかったので、発声練習を始めました。「そんな棒歌いじゃダメだ」とか「もっと抑揚をつけろ」とか、やなぎさんのファンからも周りの人からもいろいろ言われたけれども、やなぎさんの「大きな声が出せなきゃ、小さい声も届けることができない」っていう信念のもと、「とにかく大きな声で歌う」というだけの教えからスタートしたんです。自宅で夜に発声練習をした声を聞いて、隣の部屋の妹が驚いてました(笑)。
 ボブ・ディランのローリング・サンダー・レヴューでのジョーン・バエズとのデュオ曲「あわれな移民」を、一度でいいからやってみたいって、やなぎさんは願ってました。「もしかすると、ディラン&バエズが出来るかもしれない」と思ったんだろうな。私も、やってみたいと思いました。
 岩手の花巻近くの東和町で、お祭りと町興しとがタッグを組んだイベントを、彼が主催していたことがありました。花巻市に町が合併してからは、どうせやるならもっと大きなイベントにしろと言われたり、町からお金が出なくなったりして、辞めることになっちゃった。私は最後の2009年のイベントに間に合った。「俺のやってるイベントが8月にあるから、そこでディランとバエズ版の『あわれな移民』を歌おう」という、やなぎさんからの声かけを目標に据え、夏のイベントに向けて3月ぐらいから発声練習をしました。だから最初はやぎたこなんて名前もなかったし、1回限りのことだろうと思ってました。当日は、やなぎさんのステージに私がゲストとして上がって、一緒に「あわれな移民」と「オー・シスター」を歌いました。
 イベントにはモーガンズ・バーの井山さんとか、Qちゃんとタケさんが組んでる大阪のタケQっていうご夫婦バンドとか、埼玉の独酔舎さんとか、全国各地からやなぎさんの人脈のミュージシャンが集まりました。こうした音楽を、地元岩手の人たちにも聞いてもらいたいっていう、商店街の無料イベントでした。でもなかなか理解を得られなくて。やなぎさんは、苦労したんじゃないかなって想像します。
 そんな風にしてやってきて、「これが出来るなら、ディランのあの曲、この曲。ザ・バンドのあれこれ。じゃあウディ・ガスリーも」って言いながら、ワーッとやりたいことが増えて出来たのが、やぎたこのファースト・アルバム「CAN'T YOU HEAR THE STEEL RAILS HUMMIN'」(2010)なんです。まだまだ2人とも、ほぼギターを弾いてます。

横浜六角橋商店街復興ライブにて(2012)

大江田 それからセカンド、サードと、演奏楽器が増え、レパートリーが変化していきましたね。

辻井 ファースト発表のあとに、映画「オー・ブラザー!」(2001年日本公開)を改めて観ました。映画に登場するアメリカン・ルーツ・ミュージックに、とても刺激を受けました。それで「キープ・オン・ザ・サニー・サイド」をやろうってことになりました。ディランのコピーだけでは行き詰まるというか、この後どうしようって思っていたし、さらに手持ちの楽器が増えていったことで、やぎたこの方向が決まったんだと思うんですよ。最初からコンセプトがあったわけじゃなく、行き当たりばったりというか、道が開けたみたいな感じです。

大江田 カーター・ファミリーをモデルにしているバンドが、選挙運動中に歌う場面で登場した歌でしたっけ。そんな風にしてセカンド・アルバム「 I'll be home someday 」(2013)が出来上がった。サードは?

富山県高岡市「風待茶房 ぼくのほそ道」にて(2016)

辻井 サードの「I'm here!」(2015)は、もっとアメリカ音楽をさかのぼってみようって考えながら作りました。あの辺からコンセプト・アルバム色が強くなったと思います。北村謙さんに手伝ってもらって、オールドタイム・ミュージックをやろうと考えました。木崎豊さんからは、選曲のアドバイスをもらいました。木崎さんは、ニュー・ロスト・シティ・ランブラーズとかストレンジ・クリーク・シンガーズとか、ああした音楽にものすごく詳しい人で、私達に教えてくれる立場だった。本当に先生のような存在なんですよね、今もそうだけど。こんな選曲はどうかって、提案してくれました。例えば「ホット・コーン、コールド・コーン」を演るときも、「こんなバージョンもある、あんなバージョンもある、さあやぎたこはどうする?」っていうような提示の仕方をしてくれて。そうして出来上がったのが「I'm here!」。
 セカンド・アルバムの「I'll be home someday」が、レコードが普及し始めた1930年代のカーター・ファミリー周辺の音楽が中心だとしたら、それよりもさらに遡った時代の音楽、まだ蓄音機が発明されていない19世紀のバラッドなど、そういう音楽もやりたいなって出来たのが「I'm here!」ですね。映画「歌追い人」(2003年日本公開)にも触発されました。

大江田 「I'm here! 」では、辻井さんの声の扱い方が、前作とは少し変わってきているなって感じました。辻井さんの声が生きる音域というか、どういう歌がいいのかという発見の糸口が、「I'm here! 」にあったような気がします。

辻井 それは北村謙さんの功績ですね。

とある会場での楽器セッティング(2012)


先輩たちと「WE SHALL OVER COME」を作った。

大江田 その次のアルバムが、「WE SHALL OVERCOME」(2018)。
 「WE SHALL OVERCOME」の録音では、僕らのバンド"林亭"を呼んでいただきました。御茶ノ水のウッドストック・カフェで、やぎたこと一緒に録音をしましたね。あのアルバム制作は、やなぎさんの長年の夢でもあった。やぎたこと同様のルーツを持つ音楽を演奏してきた先輩世代とセッションしたい、ニッティー・グリッティー・ダート・バンドの「永遠の絆」(1972)のようなアルバムを作りたい、という希望を叶えたんですね。

辻井 そうですね。

大江田 それまで林亭はやぎたことと会ったこともないのに、やらないかと声をかけてもらって、初めてやなぎさんと辻井さんに会った。なぜこういうアルバムを作ろうと思ったのか、なぜ林亭を呼んだのか、やなぎさんが話してくれるかと思ったけど、彼は一言も喋らなかったんですよ。

辻井 緊張してたんじゃないですか(笑)。私達は「夜だから」を知っていたんですよ。

大江田 やなぎさんは"ぐゎらん堂"で働いていたから、知っていたんじゃないかな。"ぐゎらん堂"には、「夜だから」のレコードがあったから。

伊吹山音楽祭にて(2016)


辻井 「永遠の絆」みたいなことをやりたいという構想は中学生から持っていたけど、それが具体化したのは北村謙さんが主催されていた伊吹山音楽祭っていうイベントで、中川五郎さんやいとうたかおさんなど、先輩ミュージシャンたちと出会ってからのことです。やなぎさんは、大阪で行われていた春一番とは縁がなかったし、あんまり先輩たちに出会えていなかったんだろうと思います。シバさんとだけはずっと交流があって、一緒にシバさんの陶芸用の土を取りに行ったりしてたけど。

大江田 シバさんは、やなぎさんのことを「やなぎ」っていう呼ぶものね。

辻井 シバさんの「やなぎ」の言い方には、愛情があるでしょう?やなぎさんもね、「シバ」って言ってた。長い付き合いなんですね。

シバこと三橋誠の個展会場にて(2021)


辻井 伊吹山音楽祭での先輩との出会いもあって、一緒にやぎたこ版「永遠の絆」を作るのは、今だと思ったんですね。
 それからもう一つ理由があります。東日本震災大震災があって、やなぎさんのソロ・アルバムのジャケットをずっと撮ってくれていた菅野有恒さんという写真家が、津波で亡くなりました。長野県の辰野でオーリアッドという喫茶店をやっている三浦久さんが、震災の後、津波で亡くなった有恒さんのことを歌にしたんです。有恒さんはブルース・スプリングスティーン、レナード・コーエン、そして三浦久さんの大ファンでした。三浦さんがアルバムを発表されるたびに、有恒さんはお手紙を書いていました。そんなふうに2人は繋がっていた。でも直接会ったことはなかった。
 有恒さんは豊田勇造さんのファンで、陸前高田のジャズ喫茶ジャズタイムジョニーに、勇造さんを招いてライブを主催しました。やなぎさんはそのライブに、出かけていきました。それから有恒さんと、とても仲良くしてました。震災で有恒さんが亡くなってからは、有恒さんが撮ってくれた陸前高田の同じ場所の写真を、やなぎさんは自分で撮って、それをジャケットに使っています。陸前高田は、彼が再び歌い始めるきっかけになった場所なので、思い入れがあったんだろうと思います。
 三浦さんは有恒さんの遺族の方の連絡先も知らない。「菅野有恒」というタイトルで、お名前がそのまま出てくる歌なので、アルバムに収録してリリースしていいかどうか、許可が欲しいということで、やなぎさんに連絡が来ました。ついでにじゃないんだけど、「九つの物語」(2015)というアルバム制作をやぎたこで手伝ってくれないか、という風に話が来たんです。
 それで三浦さんの辰野のご自宅にお邪魔して、レコーディングをしました。やなぎさんがディレクターのようにして、ここはこんな楽器にしよう、あんな楽器にしよう、また小山卓司さんがいらっしゃったので、これ弾いてくれないかなとか、三浦さん、こんなふうに歌ってくださいとか、指揮をとってアルバムを作りました。”やぎたこ”を表現するわけじゃない作品に、どう関わったら良いものに出来るか。そこに私たちの音はどう入るべきか、入れないべきか。そういうことを真剣に考える初めての経験でした。違う人の楽曲でも、私たちが入るとちゃんとやぎたこ風味になるのが興味深かったし、アレンジってそういうことなんだと思いました。誰かと一緒にやっても食われないというか、やぎたこはやぎたこでいられる、と自信を持ちました。

 そのときのエンジニアが、岡林信康さんの「わたしを断罪せよ」ほか一連の作品、遠藤賢司さんの「嘆きのウクレレ」、森田童子さんの「ぼくたちの失敗」ほか、多くの素晴らしい作品を手がけてこられた石崎信郎さんでした。石崎さんと出会えたことで、やなぎさんはこの人に頼んで北村謙さんにディレクションしてもらい、北村さんが主催した伊吹山音楽祭で出会った先輩方にお願いをしたら、やぎたこ版「永遠の絆」が出来るぞって、思ったんです。
 じゃあ、さて誰に演奏をお願いをするか?ってことになりますよね。お願いしたい人を選ぶときに、自分たちが憧れていること、そして今も活躍している人であることが第一条件だったので、まずはやぎたこと接点のある人たちから決まり、参加していただいた。私にとっては全員がラジオで聞いて、CD買って、本で読んで勉強した人たちなんです。そういう方達が、生身の体で目の前で歌ってるというのは、すごく嬉しくてわくわくする体験でした。自分の出番がないときも現場に行って、見てました。例えばやぎたこが歌う加川良さんの「ラブ・ソング」に、村上律さんがスライド・ギター入れてくれたら、見違えるようになりました。風景が変わる。「やっぱりすごいな、これがラストショウのあの村上律さんだ、本物だぁ」みたいな感じで、見てました。
 そして会ったこともないしライブの情報も全然知らないけど、どうしても呼びたいって思ったのが、林亭だったんですよ。「夜だから」のコーラスは、やぎたこのコーラスのお手本なんです。だから「夜だから」は、知ってました。

大江田
 そうだったんですか。ありがとうございました。

林亭とやぎたこのライブ・セッション (2017)


ブルーグラスが育んでくれたもの。

大江田 ブルーグラスとオールドタイムのファンの前で、英語の歌の世界を演奏してきたやぎたこが、新しい立ち位置を持ったということでしょうか。

辻井 やぎたこの楽器が増え、サウンドはブルーグラスと似ている。しかも選曲もブルーグラスの元歌が多かったので、ブルーグラス界に入れてもらってフェスでライブも演らせてもらいました。使用楽器が似ていたり、元歌が多いことで入れてもらっちゃうなんて、ある意味、失礼な話なんですけど。でもフェスに参加したりするうち、かけがえのない友人や仲間に数多く出会うことができて。皆さん、それぞれにいろんな音楽を知っているし、楽器の奏法も教えてもらいましたた。それに人生の先輩でもあり、本当に良くしてもらって、とてもありがたかったです。
 フェスで岩井宏さんの「かみしばい」や加川良さんの「ラブソング」を演っても、興味を示さない方はいます。そもそもからして、やぎたこにそっぽを向く人はいたし、それはしょうがないと思っていました。ただ一方でガチガチのブルーグラス・バンジョーを弾いているのに、「バンジョーを買ったのは、実は岩井宏さんのおかげなんだよ」と言う人が、ぞろぞろいるんですよ。ザ・ナターシャ・セブンが好きな人もいるし、フォークも好きという人も大勢います。「WE SHALL OVERCOME」の曲は、とにかく受けました。ブルーグラスのフェスでも、喜ぶ人が大勢いました。
 確かにやなぎさんは洋楽の要素を多く持っているけど、日本のフォークの要素も持っている。私は日本のフォークがスタートなので、本来の場所はここなのかなと思いました。私の出発点の日本のフォークに加えて、ブルーグラスやオールドタイムを愛する方たちから授かったもの、その両方が私の音楽を育んでくれました。それが、今回のファースト・アルバム「わたしのうた」に、つながっている気がします。

岐阜「マウンテンタイム・フェスティバル」の客席で

大江田 そういえば女性3人によるトリオの活動もされていて、ブルーグラスのフェスに何度も参加されていますね。

辻井 デリシャス・シスターズですね。
 2014年6月に北陸で開催されたフェスで初お披露目だったので、今年で丸9年になりました。
 京都からShino、ヴォーカル、ウッドベース、たまにオートハープ。石川からAmi ヴォーカル、マンドリン。そして神奈川の私がヴォーカルとギター。この3人編成です。私以外の2人はそれぞれブルーグラスバンドの歌姫として活動していたのだけれど、バンドではうたいたいキーが採用されなかったり、やりたい曲が出来ないこともあるという話を聞きつけたやなぎさんが、「エミルー・ハリス、ドリー・パートン、リンダ・ロンシュタットの『トリオ』のようなことをやれば?」と発案しました。そしてもうひとつ。映画「オー!ブラザー」は、脱獄囚の珍道中を描いたコメディなんですけど、彼らをかどわかす女性たちが白い服を着て唄うシーンがあるんです。それになぞらえて、「3人で白い衣装を着てやったらどう?」って。
 やぎたこの遠征先で出会って、すぐに仲良くなって。まさに意気投合でした。やりたい音楽ももちろんだけれど、とにかく気が合いました。全員、食べることと飲むことが大好きで、一緒にお喋りしているのもすごく楽しいんです。大人になってから、こういうかけがえのない友達に出会えるなんて本当に財産だと思っています。
 三者三様、キャラクターも違うし、境遇も強みもそれぞれなんだけど、うまく補い合うことができてるような気がしています。お揃いの衣装で、3人で声を揃えるのは本当に楽しくて気持ちイイ。いくつになってもお姫様ごっこが好きなんですよね(笑)。

デリシャス・シスターズ
(左からAmi、Shino、辻井貴子)(2023)

辻井 当初はコーラス・グループのようだったけれど、少しずつ楽器も増えました。レパートリーも増えて、トリオの曲だけではなく、ニューグラス・リバイバルの曲をレパートリーに加えたり、マリア・マルダーをやったり。「次はこれをやろう!」とカッコいい曲が課題曲になるとワクワクします。ブルーグラス界には、もっと巧くて凄いグループはたくさんあるんですが、、、そう、たぶんそのどこにも負けない、No.1の酒量を誇っているかも(笑)。
 遠距離ユニットだし、それぞれに忙しいし、なかなかみんな揃ってのリハーサルは出来ません。曲が決まると、参考音源と大体のパートを決めて、あとは各自で個人練習。フェスで会えた時に初めて音合わせをして、キーやフレーズ、コーラスのパートを調整してバッチリ練習。出来そうなものからステージでお披露目。こんなやり方です。合宿練習をしたこともあって、その後は一気にレパートリーが増えました。いつかちゃんと単独ライブができたら!と思っています。

デリシャス・シスターズ
(左から辻井貴子、Shino、Ami)(2022)


フォスターの歌をうたいたい。

大江田 コロナ禍になってしまって、やぎたこの音楽活動が閉ざされていく過程で、やなぎさんの心の中でずっと生きていたスティーブン・フォスターを追いかけてみたいというアイデアが持ち上がった。そして熱心に勉強した上で、フォスターの音楽をやなぎさん独特のアレンジで歌い演奏するアルバム「Dear Friends and Gentle Hearts -The Songs of Stephen Foster-」を作った。やなぎさんのアレンジは、JASRACの編曲審査委員会でも独自性が認められ、編曲者として名前が登録されました。
 2010年代にアメリカではブラック・ライヴズ・マター運動が始まり、特に2020年5月のミネソタ州ミネアポリスで発生した黒人男性を白人警官が死に至らしめた事件への抗議運動が、大きな盛り上がりを見せた。そうした過程で黒人差別に加担した過去があるとして、フォスターも批判の憂き目に遭いました。フォスターの作品には、白人が顔を黒く塗り黒人に扮して歌い踊るミンストレル・ショウ向きに書いた曲が多かったことから、彼への評価に疑問が投げかけられた。この点について、やぎたこはキチンと調べて、アルバムのライナーで答えを出していますね。
 フォスターはアメリカ国内での評価よりも、もしかすると日本の方が、評価が高いのかもしれない。日本にはフォスターの音楽に対するノスタルジーが、ありますものね。
 一方でアルバム発表を通して日本でフォスターを研究している先生と出会えたり、出来上がったアルバムをアメリカのフォスター研究者の元に届けると、喜びを持って受け止めてもらえた。 やぎたこらしい音楽を収めるアルバムであったと同時に、新しい広がりを得る作品になりました。なによりコロナの蔓延下という活動の制約がある中で、それでも音楽を続けたいという気持ちがアルバムに結実していました。

辻井 そのフォスターのCDを大江田さんにお送りしたら、とっても丁寧な感想をいただいたんですよね。「『WE SHALL OVERCOME』もやっちゃった。フォスターもやっちゃった。やぎたこは次に何をしよう」って考えているときに、大江田さんと今までと違う形で接点ができた。実はもうかなり以前から、「いつか大江田さんと一緒にアルバムを作りたい」って、やなぎさんは言ってました。これがチャンスだと思って、大江田さんにいろんな形でアプローチをしました。

大江田 やぎたこはアルバムを作っても、日常的なライブ活動以外の場所の外になかなか音楽が出ていかない。手売りでファンに渡してはいるんだけども、やぎたこの音楽はもっと外に出ていっていいはずだとボクは思っていたので、まず最初にいくつかの提案をして動きました。

岡山ルーツミュージックフェスティバルにて(2014)

辻井 あんなにJASRACや音楽配信のアレルギーだったやなぎさんを、説得してくれた。だからフォスターのアルバムは、アメリカでも聞いてもらえるようになったんです。大江田さんが取り計らってくれなかったら、配信なんて夢にも思わなかった。

大江田 やなぎさんから、一緒に次作のアルバム作りをしようと依頼を受けました。かつてボクがレコード会社で制作ディレクターをしていた頃のように、現場に出向いて仕事をするのはもう難しいと断ったんですけど、ディスカッションしましょうということになって、月に1回の定例のミーティングが始まった。「これ、やってみたんですよ」「いいじゃないですか」「これはどう?」みたいなやりとりをしながら、やぎたこはデモ音源を5曲ほど残しましたね。これ以外にあり得ないというやなぎアレンジを施した、純度の高いサウンドでした。ああいう作り方をそのまま続けていったら、面白いものが出来上がったかもしれない。

辻井 選曲のアドバイスをいただいたりもしましたね。大江田さんの投げた選曲に対して、やなぎさん、違う曲で返したりしました(笑)。なんというヘソの曲がり方かと思った(笑)。

大江田 やなぎさんには好きな曲がずっとあって、チャンスがあればいつかやりたかったんですよね。

辻井  私は新しい歌い方を、学び始めました。「I'm Here!」のときには、「貴ちゃん、元気ないの?」ってお客さんに心配された囁くみたいな歌い方を、意図して演るようになりました。ちょっとだけ板に付いてきて、その延長線に今がある。今回のアルバムでも、そういううたい方が数多く登場しています。

大江田 辻井さんのヴォーカルは、健康で前向きなエネルギーをはらんでいるとして聞かれがちです。でも実は、必ずしもそうではない。それが今回のアルバムを注意深く聞くとわかります。歌詞の日本語に、いい意味で引っ張られていますね。歌がはらんでる感情が、声の中に具現化しています。そういうヴォーカルが、実現され始めていると思いました。
 もうちょっとヴォーカル録音に時間を取ることができて、歌の中に入る時間を持てたらよかったと感じなくもないけど、でもそれは出来つつあるんじゃないかなと思いました。通り一片で聞くと元気でキラキラしている歌のお姉さんみたいだけど、耳を澄ますと辻井貴子のリアルなハートが聞こえるということを、このインタビューに残しておきたいです。
 やぎたこの面白いところは、とにかくボールを一生懸命投げる。どう評価されるとか、気にしないんですね。そして投げたボールが、すごく直球だということです。やなぎさんは、楽曲を自分の中に取り込んで、体の中で発酵させて、自分のアレンジを通して外に出したいという意識を強く持っていた人だった。だから音楽として形を成す時に、そこにやなぎ色がはっきり加わる。そうした音楽の発酵のさせ方について、純粋な人だったと思います。

福岡県久留米市水天宮 発心コンサートにて(2015)


イラストレーション ツトム・イサジ

Information

ソロ活動をはじめてから今日まで、そして作品に込めた想いについては、後編でお話をうかがいました。後編はこちらからご一読ください。

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