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漫画家いしかわじゅんが出来るまで 前編

 昨年6月のこと、「ぐゎらん堂『また会えた!!2023ライブ』」後の打ち上げの会で、偶然にいしかわさんの隣に座りました。その際にぐゎらん堂といしかわさんの関わり、そして漫画家デビューしてからの波乱万丈の一端を伺いました。それがあまりにも面白かったので、「これくらいでお話をストップしてください(笑)」とお願いし、そして「続きをインタビューさせてください」ともお願いしました。
 そのお願いを、快く受けていただきました。波瀾万丈の連続に思わずつられて笑い、そしてもの作りに向かいたいと思う人には、必ずや心に響く言葉が散りばめられたお話になりました。
 こちらが前編です。1970年に大学入学のために上京してから卒業までは、大学とぐゎらん堂の友人たちの話を中心に、そして1975年にトヨタ自動車に入社し、11ヶ月の勤務後にトヨタ自動車を退社する間での人生最初の波瀾万丈についても伺いました。

ぐゎらん堂に行ったんで、ちょっと偏向しちゃった(笑)

大江田:今日は、「漫画家いしかわじゅんが出来るまで」という切り口で、お話を伺いたいと思っています。
 まずぐゎらん堂といしかわさんの関わりをお聞きします。吉祥寺に越してこられたのは、1972年ですか?

いしかわ:そうだね。

大江田:それまでは、何処にいらしたんですか?

学生時代

いしかわ明治大学に入学したのが1970年。大学1、2年は京王線の明大前駅近くの泉校舎に通う。近い方がいいかなと思って学校のそばにアパートを借りたら、仲間のたまり場になっちゃった。ちょっとこれは個人生活が無くなっちゃうなと思って、京王線の仙川に引っ越した。
 仙川に引っ越したら、あの当時は何にもなくて。今はそうでもないんだけど、本当に何もなくて退屈すぎて、これはいかんと思った。
 その頃には、漫画研究会に入部していた。みんな漫画を読むのが好きな学生だった。当時はまだ漫画に市民権はなかったんで、漫画の話をできる相手がいなかったんだ。話し相手を求めて、漫研に入ってきた。あの頃の漫研って、漫画を描く学生はほとんどいなかったんだよね。
 俺の高校生のころ、漫画を描いてるのが同学年に2人いた。それ以外の生徒は、漫画には興味がゼロだった。漫画研究会なんてサークルがあることすら知らなかったんだけど、大学に入って探してみたら、なんとあった。俺に合うかもしれないと思って入ったわけ。
 入学してまず、軽音楽部に行ってみたんだけど、みんなチャラチャラしてて、ここは合わないなぁと思った(笑)。どうしようかなと思っていたら漫研を見つけたんで、こっちがいいなと思って。
 漫研には、俺が1年の時の3年にほんまりう、4年にはかわぐちかいじという先輩がいた。漫研に入部した頃は、ちょうどかわぐちかいじがデビューする時期だったかな。デビュー作のあたりは絵柄も違っていて、少年誌っぽい絵だった。俺が3年になるまでの間にぽつぽつ販路を広げていって、その1年下のほんまりうも後を追い、2人が中堅漫画家になった。ほんまりうが三鷹、かわぐちかいじが武蔵小金井に住んでた。本来のアシスタントがいて、彼らはそれなりの難しいことをやる。それでも忙しくて手が足りないときには、漫研の後輩を呼んで手伝わせていた。俺も呼ばれて何度か行った。俺はほぼ素人なんだけど、全くの素人よりはマシなんで、こういうことをやってくれと言われると、できる程度ではあったな。

大江田:どんなことを手伝うんですか?

いしかわ:指定された箇所を真っ黒に塗りつぶすベタとか、柄の入ったスクリーントーンを貼るとか。ごく簡単な背景も描いたね。
 仙川から京王線で明大前まで来て、明大前から井の頭線で吉祥寺に出て、吉祥寺から中央線で三鷹か、武蔵小金井まで行く。だいたい一晩を徹夜して飯付きで3千円。親から送ってもらっていた仕送りが3万ちょっとくらいだったんで、3千円は月収の10分の1になる。それを懐に入れて、お腹を空かせた徹夜の帰りに吉祥寺をうろうろしているうちに、吉祥寺って住みやすいなと思った。
 吉祥寺に引っ越すのが先だったか、ぐゎらん堂に行ったのが先だったのか。吉祥寺に変な店があるって話を聞いて、どれどれと思ってあの入り口の階段を登って行った。俺が大学2年あたりの1971年の暮れ頃だと思う。ぐゎらん堂ってその頃に始まったんだよね。

大江田:はい、1970年10月28日に開店しています。

いしかわ:店が始まったくらいから、行ってたんじゃないかな。なんとなく最初は恐る恐るって感じだったよ。知り合いもいないしね。

大江田:「今日は本郷まで歩いて行った」などと語る漫研の友人がいたんだけど、そういうことではいしかわさんの心は動かなかった。"自分が暮らす周囲の生活圏の中で生きていて、それが自分の東京だった"と書いてらっしゃる文章がありました。

いしかわ:漫研の同級生で、カッコいい奴がいてね。茅ヶ崎の塾の息子なんだけど。さすが茅ヶ崎っていうカッコよさがあった。特別なお洒落をしているわけじゃない、今で言うチノパンにTシャツみたいな格好なんだけどね。本郷やらあの辺りをうろうろ毎日歩いてて、そっちに友達作ってたりしてた。
 それから仙台の進学校からきてた奴。あいつは格好は良くはなかったんだけど、面白い。彼らがやってることが、地方都市から出てきた俺とはだいぶ違う。それまで知らなかった人種だった。
 俺の感覚なんだけれど、東京近郊の都会生まれの連中は、大学に入るまでにもう自分の世界が出来てる。自分の自我が完成してるケースが多い。俺が生まれ育ったのは、地方とはいってもトヨタ自動車のお膝元なんで豊かな地方都市なんだけど、それでも大都会とは文化的な差があった。俺は大学入ってから、自分を作り直した感じなんだ。吉祥寺に来る大学3年のあたりまで、もう赤ん坊が吸収するように新しい世界を知り、そして広げつつ作ったみたいな感じだな。

幼稚園時代(4歳)

いしかわ:俺はね、ずっと子供の頃から周りに違和感を持って育ってきた。周囲の子どもたちと馴染めなくて、同じペースで動くことができない。保育園では昼ご飯の時に、俺一人だけずっと食べていたらしいんだよね。皆んなはパッと食べて、園庭に遊びに行ったりしてた。そういう俺を見て、先生はこれはダメだと思ったんだろう。幼稚園にうちの親が呼ばれてね、「残念ながら、お宅のお子さんは知恵遅れだと思います」って言われた。うちの親は怒ってたけどね。
 子供の頃から高校まで、自分はみんなと違うとずっと思っていた。それは多分、間違ってなかったんだよ。大学に入ってから、こんなことがあったんだ。俺が卒業した愛知県豊田市の小中高から、結構な数の同級生が明治に来てた。入学して1年ぐらいして、キャンパス内でばったり昔のクラスメイトに会った。「久しぶりだね、何してんの?」って立ち話をしたら、「昔の同級生たちで、つるんで遊んでる」って言う。ああ、俺には誰も声をかけてねえな(笑)、そうか、俺はやっぱりあそこじゃちょっと違う人間だったんだなと思った。そんなこともあって、大学入って、知らない人たちと会って、知らない場所に行って、もう一回自分を作り直したんだよね。
 大学時代に漫研の連中と、ぐゎらん堂に集まってくる人たちと、2種類の人たちと会って、それでだいぶ人生が変わった。漫研の隣が新聞研究会だったんだけど、そこに集まる学生運動をしている連中とか、大学の途中でドロップアウトしたヤツとか、行方不明になったヤツとか、50歳くらいで再会したらまだバイトしてたヤツとか、そういう連中とも仲良くなったりしてたね。
 大学には5年行ったんだけど、その5年間の自分を作り直す過程でぐゎらん堂に行っちゃったんで、ちょっと偏向しちゃったんだ(笑)。

大江田:僕は1953年生まれで、いしかわさんの2歳下なので、その辺の感じはすごく分かります。

いしかわ:高校を卒業したのが1969年。69年は東大の安田講堂で学生による占拠があった年だったんだよね。何か起きてるって感じはあった。でも愛知県の俺の家の方には情報は届いて来ない。
 大学入ってみたら、何があったのか分かってきた。それはまだ続いていて、隣の新聞研究会の連中はしょっちゅうデモに行ってるし、学校内で民青の連中が新左翼の連中に追われてたりして、袋だたきになってたりとかね。俺は学生運動の方には行かなかったんだけど、俺の知らない所でいろんなことが起きてるんだなっていうのは、やっとその辺で分かったんだよね。

大江田:明治の和泉校舎の立て看って、有名でしたよね。

いしかわ:立て看はいっぱいあったよね。立て看文字で、表にも中にもびっしり。立て看文字なんて、もう分かる人もいないだろうね(笑)。

大江田:日帝なんて書いてあっても、何のことか分かんないだろうなぁ。

いしかわ:日帝って新鮮な言葉だったんだよね。小説書いた時に出版社の名前を、日帝出版にしたんだ。

大江田:ああ、早瀬万里子さんの勤務先ですね(笑)。

いしかわ:大日本帝国出版社。

大江田:「先生、書き下ろしの作品をお願いします」って懇願する魅力的な美人編集者の万里子さん。彼女の勤務先の社名は、なるほどそこから来てるんだ(笑)。

早瀬万里子が登場する南畑剛三シリーズの1册『ロンドンで会おう』(1991年)
カバーイラストは、元アシスタントの原律子

ぐゎらん堂で過ごした膨大な時間

大江田:ぐゎらん堂について書かかれた原稿を読んでいると、こうやって自分を持ちながら表現する人間が、この世界にいるんだと驚きを持って眺めていたと書かれていました。

いしかわ:いろんな人が世の中にいるんだなと思った。衝撃と言うほどでもないけど、ちょっとびっくりしたよね。
 俺が生まれ育ったのは、勤め人の町だからさ。トヨタ自動車のお膝元だったので、もう親戚一同、みんなトヨタの社員か、トヨタ関連会社の社員で、朝は会社に行って、夕方に帰る人たちばっかり。あとは農家しかなかったからね。それ以外の知らない種類の人たちがいるっていうのが、すごい不思議だったんだよね。

大江田:仙川から吉祥寺に引っ越して来た時は、どの辺にお住まいだったんですか?

いしかわ井の頭公園のずっと南側。いつも井の頭公園を抜けて駅まで往復してた。バスで行った方が早いけど、バス代がもったいないんで歩いて(笑)。
 吉祥寺はね、当時から家賃が高かったから、街の真ん中にはちょっと住めなかったんだよね

大江田:夜な夜なぐゎらん堂に通ったって感じだったんですか?

いしかわ:学校には毎日行ってたんだよね。

大江田:大学3年だと、お茶の水の駿河台校舎ですか?

いしかわ:授業に全然出てなかったんで、山ほど再履修を残してたから。

大江田:と言うことは、両方ですか?

いしかわ:明大前の方が多かったね。
 どっちにしろ吉祥寺は一本で帰って来られる。学校行って生協で昼飯食べて、部室へ行ってダベってると何人か集まるんで、ちょっと麻雀でもやるかって言って、麻雀をやって。雀荘で晩飯を食べて解散して、吉祥寺に戻ってきてぐゎらん堂行って。いつ勉強するんだって話だな(笑)。

大江田:ぐゎらん堂って、夜に入った時間くらいから元気になりますものね。

いしかわ:ちょっと早めにぐゎらん堂に行くと、高校生たちがまだいて。ちょっと遅めに行くと、みんな酔っ払ってて。高田渡は、大抵来てたな。渡は暇だったのかね、しょっちゅういたよね。

大江田:1992年に、林亭がマンダラ2で復活ライブやった時に、渡さんにゲストで出てもらったことがありました。そこにいしかわさんが来てくれた。何を覚えてるかというと、渡さんといしかわさんが、目を合わせて二人でふっと挨拶をするんです。やあとか、久しぶりとか、お互いに言わないんですよ。ただ二人がふっと笑い合う。その時の"間"が、二人の関係を物語ってる感じだった。いいなーって思ったのを、すごく覚えてます。その後、ライブの話を「ミスター・バイク」に書いてくれました。

ミスター・バイク( 1992年)

いしかわ:渡とそんなに親しく付き合ったわけじゃないんだよね。ぐゎらん堂で会っても、「おっ」て言うだけだし。多少は話すけど、そんなに密じゃないし、家に行ったことも一回しかないし。どこだったっけな、富美子さんと結婚してからのことで、よく覚えてないんだけど普通のボロアパートだったけどね。高田渡って、こんなボロアパートで暮らしているのかと思って。詩集やら本がいっぱいあったよね。あとカメラがあって。

大江田:レコードがいっぱい並んでて。

いしかわ:渡も不思議な人だったよね。とにかく老けてたよね(笑)。30歳半ばくらいのイメージだし、絶対にずっと年上だと思ってたもんな(笑)。
 俺が20歳そこそこで会ってるから、渡だって22歳か、23歳くらいだよね。大して年齢が変わらないとは思わなかった。ある時、年齢を知って「そんなに若いの?」と思った(笑)。

大江田:ぐゎらん堂での渡さんのライブは、見ていらっしゃいます?

いしかわ:たぶん聴いてると思うよ。林亭も2回くらい聴いてるよ。林亭は、何回もやった?


林亭「夜だから」(1973年)
林ヒロシ「とりわけ10月の風が」(1975年)

大江田:よく覚えてないですけど、そんなに多くはやってないと思います。ただボクの記憶が正しいかどうか、店主の村瀬春樹さんに「水曜コンサートで、一番お客が入ったのは君たちだった」と言われたことがありました。渡さんが、新譜ジャーナルに林亭の記事を書いてくれた直後だったからだろうと思うんですけど。

いしかわ:林亭は、やっぱりレコードだよね。林亭と林ヒロシのレコードが好きで、ぐゎらん堂に行くと、ちゅうそつにリクエストして聴いてたんだけど。「これ買えないの?」って聞いたら、「もうとっくに無い」っていうから、「じゃあ、テープにダビングしてよ」って頼んで、ダビングしてもらったテープを、ずっと聴いてたよ。本当に、本当に何十年も聴いててさ、10年か20年ぐらい前までその辺りにあったよ。もう今じゃカセットテープの再生が出来ないんで、聴いてないけど。ラジカセも、いつの間にか女房に捨てられてたし。

大江田:他に覚えてる方は?

ソフトボール大会(1973年頃)撮影:沢田節子
ソフトボール大会 集合写真(1973年頃)

いしかわ:いっぱいいたよ。ペケシバ、ちゅうそつ、ちびくろ、忠治、あと恵美ちゃんがいつもいたしね。赤坂のMUGENのライトマンのゲバとか。
 誰と仲良くしてたかな。あ、清水と結構仲が良かったな。清水って、ぐゎらん堂のバイト。早稲田かどっかの学生で、後になって会ったら小金井の方で、印刷会社やってるって言ってた。
 ちびくろもぐゎらん堂のバイトで、小さくて黒いからちびくろなんだけど。みんなにバカにされつつ可愛がられていたような感じで、ちょっとコンプレックスを持ってて、自分も何かができると常に主張してるやつだったんだよ。10年か20年ほど経ってばったり会って「いま何やってんの」って言ったら、今こういう事業を始めるとこだとか言って、すごい吹かしてたけどね。その後は全然聞かないから、うまくいったとは思えないんだけど、どうしてるかなあ。あと誰がいたっけな。

大江田青林堂の長井さんとは、お話ししてないんですか?

いしかわ:長井さんね、入口のとこの板を背もたれにして座ってたよね。いつもサファリスーツの胸ポケットに歯ブラシを挿して、女の子を横にはべらして。愛人かなと思ったけど、ただの保護者だったね。
 長井さんと結構親しく話してたんだけど、ぐゎらん堂が無くなって会わなくなっちゃって。そのあと俺、漫画家になったじゃない。ついに一度も会わなかったの。
ガロとも接点がなかったし、ガロには描いたこともなかったんで、長井さんはあの時の学生が漫画家になったいしかわじゅんだって、知ってたかなあ。それがずっと気になって、会ったら聞いてみようと思いつつ、会わなくなっちゃったんだよね。知らなかっただろうなあ。

大江田:今こうしてお話を聞いてても、人を細かく観察していらっしゃいますよね。

いしかわ:俺は色んなものを見るのが好きみたいね。女房と一緒に歩いてても、「今のところはさ」って話しかけても、女房は見てないんだよね。「見てないの?」って言ったら見てない。
 別に彼女が注意力散漫なわけじゃない。俺が色んなものを見すぎてるんだよね。そういう癖なんだろうね(笑)。昔から多分そうだったと思う。
 特に漫画家になってから、余計そうなんだよ。漫画って、絵を描かなきゃいけないじゃない。例えば家を描くんだったら、家って壁と天井だけじゃないじゃない?この柱と壁はどういう風にくっついてるかとか、この配線はどうなってるかとか、土台は地面とどうくっついてるかとかね、土台とその上の壁とはどういう構造になってるかとかさ、そういうのを知ってないと描けないじゃない。それがますます進んだ感じかなあ(笑)。
 何しろ昔から見るのは好きだったね。写真もちょこちょこ撮ってた。いい写真を撮るつもりは全然なくて、記録っていうか、目の代わりに撮ってた感じなんだよね。
 だからぐゎらん堂の写真も、なぜか撮ってた。ぐゎらん堂の1階の入り口とか3階のドアとかさ、何のために撮ったんだろうなと思うんだけど(笑)、撮ってたんだよね。

大江田:3階の店の入り口のドアの横に、水曜コンサートの出演者が掲示されていて。偶然にも林亭の名前がある日に撮っててくださって、嬉しいです(笑)。

いしかわ:誰が出てるかなと思ったら、ああ林亭が出てるじゃないかと思って(笑)。

ぐゎらん堂 ビル入り口 撮影:いしかわじゅん
ぐぁらん堂 入り口 撮影:いしかわじゅん

大江田:改めて自分を作っていた大学生時代に、漫研の仲間とはまたもう一つ違う別の人種の仲間が集っている場所として、ぐゎらん堂を意識をしていたということになりますか?

いしかわ:そうだね。高校までの人生は一回捨ているんだよね。そしてもう一回作り直したって感覚が、すごくある。俺を作ったのが漫研とぐゎらん堂で、ふたつのカラーが違うんだよね。
 漫研の方はやっぱり、表なんだよ。みんな後に普通の勤め人になっていく。今は漫画を描く学生が多いんだけど、俺たちの頃は、読むだけで、漫画を描く学生ほとんどいなかった。漫画家になったりせずに、勤め人になる。それまでの俺の知ってる人たちとは違ってたんだけど、それでも明るい表の人だった。
 でもぐゎらん堂はね、表の人たちとは全く違う種類の人が集まってた。
 その両方と何年も密に付き合ってたっていうのがね、自分の人間形成に大きかった気がするな。なかなか極端な二つの世界とは、同時には付き合えないよね。

今年は会社を辞めます

大江田:大学に5年通って、そして卒業され就職されました。就職先は、トヨタ自動車の本社ですよね。デスクワークのお仕事をされたんですか?

いしかわ:高校までね、学校を休むことってなかった。とにかく学校には行けっていう親だったんで、風邪ひいてても病気になっても、学校行けば治るって言われて、無理やり学校行かされてたの。足怪我して歩けないときはね、乳母車に乗っけられて学校行ってた(笑)。学校に行っても治んないんだけどね。休んだのは麻疹で、1週間休んだだけかな。ずっと小中高と皆勤だった。
 大学入ったらね、誰も学校に行けって言わないんで(笑)、これは楽だよなと思って、初日から行かなかった。2日目も行かなくて、3日目も行かなかったら、ずっと行かなくなったの。授業には出なかったんだけど、大学がロックアウトになったんで、それで単位とれた感じかな。就職するときも、なんだろうなあ、何とか潜り込んだ感じだった。特に就職する気はなかったんだけど、何かして飯食わなきゃいけない。地元に帰らなきゃいけないプレッシャーがあったんで、トヨタに滑り込んだ。
 サラリーマンは基本的に合わなかったんだけど。サラリーマンが合わないというより、製造業みたいな会社が合わなかったんだと思うんだよね。製造業って毎日工場で物を作る。毎日、毎日、完璧に同じことを繰り返してないと事故が起きるんで、現場にいる人もホワイトカラーも、全員がきっちりとスケジュール通りに毎日同じことを繰り返す社風なんだよ。

大江田:トヨタ式って言いますよね。

いしかわ:全員が同じことをやる、全員が同じ方を向くという社風なんで、入ってみたらもう窮屈で窮屈で。窮屈だわ、退屈だわ、これは厳しいなぁと思って。
 入社してから半年間は、研修なんだよね。工場でミッションの研磨を1ヶ月やって、ディーラーに出向させられてセールスを1ヶ月やる。あと普通の授業みたいなのがあって、先輩の話を聞いたりとかして。半年間その適正を見て配属される。俺は生産管理部輸送管理課って部署に配属された。
 俺はとにかく世間知らずだったんだよ。大学入る時にね、大学って誰でも行けるのかと思ってたら、入学試験があり合格しなきゃダメらしいというのを、高校2年生くらいの時に知った。
 軟式テニス部にいたんだけどね、国体に出てている3年生の先輩が、同志社大学に入ることが決まった。同志社って私立大? 私立って誰でも入るんじゃないの?と思って「スポーツで入ったんじゃないの?」って聞いたら、ちゃんと受験して入ったとわかった。「国体出るくらいまでスポーツやりながら同志社に入って、すごい」ってみんなが言うわけ。私立って誰でも入れんじゃないのって思ってた俺は、3年になったらそうじゃないってことがやっと分かって(笑)。でもろくに受験勉強をしなかったんだよね。
 1969年の大学受験って、東大入試が中止になったんで、受験生がワンランク下げたじゃない。東大を受けるはずの連中は、京大、一橋を受ける。京大、一橋を受けるはずの連中は、そのまたワンランク下を受験した。国立行くはずだったのが、私立の上の方に流れてきた。愛知県立の豊田西高等学校って高校に通ってたんだけど、進学校とはいえ地方なんで特に受験指導もなく、全員が好きな大学を受けて、ほぼ全員が浪人したんだよね(笑)。それでクラス丸々が、名古屋にある予備校の河合塾に通うことになった。あんなにそっくりそのまま予備校に行くことは、そうそうないと思うんだ。また同じメンバーになるのはやだなと思って、俺は河合塾の中でも一人だけ違う校舎に行ったんだけど。
 予備校に行くと、毎日が受験勉強じゃない?授業を聞いてるだけでどんどん成績上がって(笑)、これまでどれだけ勉強しなかったんだろうなと思った(笑)。それでも今池で映画見て、名古屋駅裏でパチンコして帰って来てたんだけど。
 大学時代も同じように、卒業して就職するとかいうのがよく分からなくて。

大江田:1年浪人されて5年かかって卒業されたということは、就職がボクと同じタイミングです。

いしかわ:ああ、そうだね(笑)。

大江田:だから分かります。

いしかわ:オイルショックのど真ん中だったね(笑)。

大江田:就職が、ものすごく厳しかった時代です(笑)。大学の僕のクラスでも、まともに就職したのは2人だけですから。あとはもうみんな散り散りバラバラです。焦りましたよね?

いしかわ:いやいや、まったく。オイルショックということは知ってたけど、それが自分にどういう影響を与えるかという意識が全くなくて、会社をすぐに辞めちゃったんだけど。

大江田:翌年の2月ぐらいまで、お勤めでしたね。

いしかわ:そうそう、11ヶ月で辞めたんだけど。あのね、とにかく会社は合わないなと思って。
 ある朝ね、会社に行ったらね、正門の前で共産党がビラ配ってたの。別に俺は興味ないんで、スタスタ入って自分のデスクで仕事の準備してたら、向こうから課長がずっと何か言いながら歩いてくる。一人ひとりに何か言いながら来るんで何だろうなと思ったら、俺のところに来て「さっき正門の前で共産党がビラ配ってたけど、ああいうものは受け取らないように」。そんなことを会社が指図するのかよと思って。ちょっとそれはおかしいんじゃないの、何か変だよなと思った。
 半年の研修が終わって、配属された。俺は会社の仕組みを全然知らないんだよ、興味がなかったんで。でね、配属先に入ってみたら、女の子が一人もいないんだよね、今でいう総合職には。当時は総合職という言葉はなかったけど。女の子はお茶汲みとコピーをする高卒の子がたくさんいるんだけど、大卒の女の子が一人もいないんだよ。変だよなと思った。
 仕事が始まったら横にいる30代、40代の人が、俺のことを「石川さん」って言うの。俺に敬語を使うんだよ。なんでかなと思って、おかしいなと思ったけどね、聞くのもなんだし、なんだろうなと思ってたらね、右側にいた松田っていう俺より一つか二つ年上の先輩がね、「石川君、みんなが敬語を使うのおかしいと思ってるだろう」って言う。「ああ、そうですね」って言ったら、「あの人たちはみんな高卒だから」って言うのね。ホワイトカラーって全員大卒だと思ってたんだけど、実は半分は高卒なんだよね。
 彼らはまあ、下士官なの。定年までいても最高で係長なの。俺たちは32、33歳で係長。だから一瞬で抜かれるんで、最初から敬語なの。そのシステムはどうなんだろうと思った。俺がいた輸送管理課第2係の係長はね、酒井さんって人だったんだけど、酒井さんはね、高卒だった。多分40歳前くらいだと思うんだけど、20代の俺から見るとおっさんなんで、よく年齢がわかんないんだけどさ。高卒でその年で係長って、ものすごい出世してる。それが酒井さんのプライドなんだけどね。
 なにしろトヨタって言えば、とにかく一番偉いじゃん。だから取引先に電話しても、みんな俺に「どうも、石川さん」。用事があって取引先とかに行くとさ、先方の部長が出てきて、「どうも、石川さん。ちょっとお食事でも」。俺は新入社員なんだけどなって(笑)。なんかそれもなあ、と思った。
 会社に入る時にね、人事課に寮に入るかって聞かれたの。当時、寮はね、ワンルームマンションみたいなとこで、2食付いて月に1万5千円くらいだったんじゃないかな。社員食堂はね、75円だったんだよ。みんな金の使いどころなくて、20代で家を建てるんだよね。給料もいいし、福利厚生も完璧。海に行けば海に寮があるし、山に行けば山に寮がある。プールがあるしグランドがあるし、金の使いどころがないんだよね。
 「寮に入るか」って聞かれて、「歩いて通えるんで、僕はいいです」って答えた。「みんな寮に入るよ」って言われて、「でも僕は歩けるから」って答えたら、「会社の近くの人もみんな寮に入る」って。なんでかって言うと、寮で何年か一緒に暮らすと、全員が顔見知りになる。だから、その後に配属先がバラバラになっても、あそこに同期がいるからって、すごい仕事の役に立つ。そうかもしれないけど、会社が終わってから、また同じ顔と会うのはやだなぁと思って、俺は寮に入らなかった。オイルショックの真っ只中だったんだけど、大卒で380人くらい採用していたんだよ、さすがトヨタなんだけどね。会社始まってみたら380人中で寮に入ってないのは、俺だけだった(笑)。みんな寮かぁと思ってびっくりしたよ(笑)。あっという間にみんな会社に適応してると思った。
 何ヶ月か経って、同期の奴から「今度、寮でコンパやるから来ない」って言われた。今時コンパなんて言わないよね(笑)。同期の連中が寮の会議室みたいにところに集まって、みんなで飲んだり食ったりしたんだけど、俺、帰らなきゃいけないんで、2、3時間してそろそろ帰ろうかなと思ってトイレ行った。トイレ行って入口のドア開けたらね。どこからかね、嗚咽の声が漏れてるの。「うぉぉぉ」とか言って、誰かが泣いてんの。なんだろうなぁと思って耳をすましたら、個室の中から聞こえる。「みんな夢だったんだなぁ」って言って、泣いてんだよ。うわぁすげぇ、聞いちゃったなぁと思って。それは別にここが悪いって意味じゃなくて、自分の思ってたものと違ってたんだろうね。それに適応しながら自分の人生を作っていくんだろうけど、そこで酒が入って弱音を吐いてしまったんだ。ちょっと俺、ここにはいられないかもしれないなぁと思った。ここで適応していけば楽しい人生があるのかもしれないけど、でも俺は俺の人生を生きたいなぁと思って。
 ここは合わないかもしれない。ちょっとずつそういうことが溜まっていった。正月に最初の会議があって、酒井係長から課内会議をやるから会議室に集まるように言われて、輸送管理課第二係が集まった。課長がいて係長がいて社員が十何人いて、何だかんだあった後でね、それぞれ今年の抱負を言うように言われて、みんなそれぞれ、それらしいことを言うんだよ。「今年は輸出に力を入れます」とか言うんだけど、俺はどうしても合わないなと思ってたし(笑)、抱負なんかないんだよ(笑)。一体どうすりゃいいのかと思った。俺は新入社員だったんで一番最後に俺の番が来て立ったんだけど、もう言うことがなくて、「えぇー」って言って、うーん、困ったなと思ってたら、酒井係長から「石川くん、何でもいいから」って言われて、ああ、これまでかなと思って、「今年は会社を辞めます」って言ったら、みんな「えー」って言って、総立ちだよ(笑)。

大江田:すごいな(笑)。

いしかわ:それからは、カウンセリングの日々。人事部と教育課の両方に呼ばれて、何が気に入らないのか、どういう仕事がしたいのか、どういう仕事だったら続けられるのかとか、そういうことを毎日々々聞かれた。「何が気に入らないのか」って言われても、どうも合わないなっていうだけ。待遇はいいし、オイルショックの時期なのに、ボーナスは6ヶ月以上出る。「辞めてどうする」って聞かれても、とりあえず辞めるつもりしかないんで、何にもないんだけどね。最終的にね、「もう1年我慢したら、東京支社で広告の仕事やらせてやる」って言われて、面白そうだなと思ったんだけど、でも東京支社行ってもまた5、6年で本社に戻るな、そうするとまたこの毎日が待ってるんだよなと思って、「やっぱり辞めます」って言った。
 最終日に人事部長に呼ばれた。部長室に「石川です」って入って行ったら、何だかんだあって最後に「我が社始まって以来、合わないから辞めるって言ったのは、君が初めてだよ」って言われて。まあそうだろうな(笑)。
 トヨタを辞める人は、まずいないからね。国許で親が倒れたとか、どうしても辞めるしかない理由があるとかね。合わないから辞めるっていうのは、いないよな。よく俺辞めたなと思って。今だったら辞めない(笑)。オイルショックのど真ん中なのにさ、そんなこと全然気にしてなかったもんね。とりあえず辞めるしかないなと思って辞めただけで。

大江田:辞めて何かしようという展望もない。とにかくここは、自分がいる場所ではないと思ったんですね。

いしかわ:そうそう。辞めたあとで色々考えてみると、サラリーマンが合わなかったというよりも、製造業という職種が合わなかったんだなと思う。もっと違う会社を選んでおけばよかったのかなと思うんだけど、地元に帰るというとトヨタしかないんだよね(笑)。親もそうだし、親戚一同、みんなトヨタだしね。地元に帰るというとトヨタ一択だった。

大江田:お父さんは何かおっしゃいませんでしたか?

いしかわ:もう親父は怒るし、お袋は泣くし、大変だったよ。親父もメンツないよね。親父は元々トヨタの社員で、トヨタがバックの県会議員なんだよ。

大江田:組合系とかじゃなくて?

いしかわ:組合系だね。労働組合の水が合ってたみたいで、本当にみるみる出世していった。トヨタ・グループの約三百社の労働組合の連合組織の全トヨタ労連ってのがあって、あっという間にそこの委員長になって。そして日本中の自動車会社の労働組合の連合組織の自動車総連の副委員長だった。

大江田:すごいですね。

いしかわ:委員長が日産なんだよね。日産が業界2位じゃない。だから日産を立てて日産が委員長、トヨタが副委員長。日産に塩地天皇って言われた権力者の塩地一郎がいて、それが自動車総連の委員長だったんだよね。その時の副委員長が親父で、だからもうその上がないんだよね。
 何年か副委員長をやって後に、県会議員をやるか、国会議員をやるかって言われた。国会議員になると、ずっと東京にいなきゃいけないじゃない。労働組合の時代も日本中と世界中ぐるぐる回ってて、ほとんど家にいなかったから、もう家に帰りたい、そろそろ家で女房の飯を食いたいって言って(笑)、地元に帰って県会議員になったんだよね。
 だからトヨタの社長とか重役とか、幹部連中がみんな知り合いだったんで、あそこの息子がトヨタ入ったと思ったら、あっという間に辞めちゃって、立場ねえよなって思って(笑)。


大江田記
 ここまででの前編でも十分に波乱万丈ですが、次回の後編ではいよいよ漫画家へと始動し始める石川さんの波乱万丈の奮闘ぶりを伺っています。「このエロ本というのがクセものなのだ。/ぼくもかつて、エロ本の仕事が主だった時期がある。デビューして一、二年。方向性も定まらず、腕もなくテーマもなく、身内から溢れてくるものだけがある。そんな時期のぼくを、エロ本は柔軟に受け容れてくれた。エロ本は実にふところが深く、まるで一片のポリシーもないように、なんでも受け容れる」と「漫画の時間」で書いておられるように、エロ本を舞台に執筆を始め、しばらくするとエロ漫画誌で売れっ子になります。そこから現在にいたるまでの紆余曲折の道のりは、後編で。どうぞご期待ください。

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