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ハリウッドで最も尊敬された俳優のひとりだった。

先の6月29日に亡くなったアラン・アーキンを、三谷幸喜が8月10日付の朝日新聞夕刊の連載コラムで追悼していた。アランを自分の大好きなタイプの俳優さんだとしつつ、「想像だけど、本気で役者をやっている感じがしない人。(中略)芝居もうまいのか下手なのかさっぱりわからない。よく言えば自然体、悪く言えばやる気を感じさせない」と絶妙に評した上で、彼が出演した映画を列記しながら略歴を記していた。

確かにアラン・アーキンはアカデミー賞主演男優賞に複数回ノミネートされ、2006年のアメリカ映画「リトル・ミス・サンシャイン」ではアカデミー賞助演男優賞を受賞したりと、映画俳優として名を成した人だ。ハリウッドで最も尊敬される俳優のひとりとする記事を、目にしたこともある。スクリーン・デビューした1966年のアメリカ映画「アメリカ上陸作戦」は、32歳での出演作。それ以前に何をしていたかといえば、彼はミュージシャンだった。

アラン・アーキンの名前は、熱心なフォーク・ファンには馴染がある。1956年にヴィンス・マーチンとの共演シングル「シンディ、オー・シンディ」によって全米9位、「バナナ・ボート・ソング」によって全米4位のヒットを放ったグループ、タリアーズの一員だった。タリアーズはユダヤ系のアラン・アーキン、黒人のボブ・ケアリー、そして白人のエリック・ダーリンによる3人組。なおエリック・ダーリンはのちにルーフトップ・シンガーズを結成し、1962年に発表したシングル「ウォーク・ライト・イン」によって全米1位を記録している。


アラン・アーキンは、ベイビー・シッターズ名義でも、1958年から10年ほどの間に4枚のアルバムを発表している。自身と妻、そして息子たちを交えて、まるで家庭のリヴィング・ルームで家族と楽しむかのように、シンプルなスタイルでフォークを演奏する内容だった。この時代にアメリカで流行したフォーク・リバイバルにおいては、人々が集うことの楽しさ、どのようにして困難を克服するのか、生活を共にする社会のルールなど、生きるすべが素朴な形で伝統的なフォーク・ソングに息づいていると考えられていた。それらを子供に素直な形で伝えたいという願いと同時に、自然な手助けが子供の音楽の自発をもたらすとして、息子のアダム・アーキンが音楽を生み出していくプロセスも収録していた。

2000年にタリアーズの一員だったエリック・ダーリンがソロ来日した折り、招聘を担われた山田さんを介して伺った忘れられないエピソードがある。「バナナ・ボート・ソング」がヒットした直後のこと、タリアーズはラス・ヴェガスのホテルでコンサートを行った。コンサートは無事に終了し、さあホテルに宿泊となった時点で、メンバーの黒人を泊めることはできないと、ホテル側が伝えてきた。黒人差別が公然と行われていた時代だった。白人二人の宿泊はOKだったものの、彼らはその申し出を断り、ラス・ヴェガス近郊の安価なモーテルに宿泊したという。フロントに白人と黒人が並ぶ混成のポピュラー音楽グループとして、タリアーズは相当に早い時期の登場だった。1950年代後期に白人黒人混成によるバンドがフォークというジャンルから誕生したというのも、先進的な思想に裏付けられていたフォークゆえのことなのかもしれない。

忘れられないことをもう一つ。エリック・ダーリンは、下北沢で行われたソロ・ライヴの際に「バナナ・ボート・ソング」を歌い始めたかと思うと、「I wana go home」の歌詞の所で急に演奏の手を止めた。そして話し始めた。今日のアメリカの不幸せの一つには、「Home」の崩壊がある。「Home」が見失われている。フォーク・ソングには「Home」が数多く登場する。フォークは、知らず知らずのうちに「Home」の価値や意味を伝えている音楽なのだ。こんな内容だった。これを聞いてボクは、ハッとした。確かにフォークには、「Home」というコトバが数多く使われる。そしてコトバの内包する意味が、時代によって少しずつ変化していることにも思い当たる。この日の出来事をきっかけに、アメリカの様々な歌において「Home」にどのような意味が込められて歌われているのか、興味を抱くきっかけになった。

エリック・ダーリンは、切手を集めていた。日本の切手は、印刷もデザインも大変に美しいと褒めていた。使用済みでいいから、日本の古い切手が欲しいというので、自宅にあった切手を集めてライヴ会場に届けた。すると帰国したエリックから、お礼と称してタリアーズのフランス盤10インチのレコードが送られて来た。タリアーズに、フランス盤アルバムがあったのだ。レコードには、実に律儀で丁寧な手紙が添えられていた。


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