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音楽家 佐久間順平に会った_1

 ゆっくり話を聞きたいと思っていた人がいた。さりげない振る舞いや、ふと発する言葉に惹かれた。自分の場所で生きているように見えた。どんな来し方をしてきたのだろう。覗きたくなった。そんな人たちの探訪記「あの人を訪ねる」。


 第四回には、佐久間順平クンに登場していただきました。

 佐久間クンとボクとは、高校時代の同級生でした。ボクらが通っていた高校は、旧制高校の名残りとかで、教室前方の右側から名前のあいうえお順に机が並んでおり、ボクの左隣の席が佐久間クンでした。この席次は、高校の在学3年間の間に、いちども変わりませんでした。つまり3年間を同じクラスの隣同士の席で過ごしたことになります。

 高校時代に二人は、デュオを組みました。当初はユマニテ、しばらくして林亭と名乗りました。休止期間はありましたが、林亭は今も活動を続けており、結成以来50年余の永き時を迎えました。
 そしてお互いの年齢が、70歳になりました。古希というわけです。この人生の節目のタイミングに、佐久間クンからじっくり話を聞いてみようと思いたちました。


 音楽を意識した幼少時の頃のこと、学生時代のバンド活動、そして大学を卒業し本格的に音楽家の道を歩み始めてから今日に至るまでの道のりを軸に、音楽を共にした仲間や先輩、影響を受けた音楽家、読んだ本、観た映画など、丸々二日間、長時間にわたって話を聞きました。話はあっちに飛びこっちに飛びしながら、進みました。これまで三回の探訪記「あの人を訪ねる」は、インタビュー形式で行いましたが、今回は長年の友人同士ということもあり対談風になりました。ご存知ない名前や事柄が、顔を出しているかもしれません。なるべく注釈を加えながら、まとめました。

 まずは佐久間クンに幼少時代から、大学卒業時までを語ってもらった第一回目を、ここにお届けします。


ギターを自作した小学校時代。

大江田:一番最初の音楽の記憶は何ですか。
佐久間:キリスト教系の幼稚園だったので、賛美歌を歌ったり、童謡唱歌を歌ったり。そうだ、思い出した!卒園のときに、みんなでお芝居をしたんだ。キリスト生誕の劇だった。オレは何の役だったっけ。ああ、キリストの父のヨセフ役をやったんだ。舞台の白黒写真が家にあって、それを見返しては思い出していたな。
 小学校1年の時に、個人教授のバイオリンの先生が学校に演奏に来て、チラシが配られた。それを家に持って帰って、母に渡したんだ。雨の日だった。理由はわかんないけど、その時に悲しくてオレは泣いてたんだよ。そしたら母が、そのチラシを手にしながら、「これ、やってみる?」って言ってくれた。どう考えたか覚えてないけど、オレは「やってみる」って答えた。それからバイオリンを習い始めた。バイオリンの習い始めってさ、たいていキラキラ星から始まるんだよ。それが自分が楽器を弾いた最初の記憶かもしれない。
 家にはステレオセットがあった。父親は小唄を習ってた。小学校3年ぐらいの頃かな、「このレコードを買ってこい」って言われたんだよ。それが、アストラッド・ジルベルトの「いそしぎ」(1962年)。聞いた時にびっくりしたよね。この世界は何だろうって思った。その頃って、もうベンチャーズが流行ってた。なぜか家にウクレレがあって、ウクレレでベンチャーズを弾いてた記憶があるんだよ。ピックがないからさ、オーバーコートのボタン。あの大きなボタンを、ピック代わりにしてた(笑)。それから小学校4年の時に、ビートルズの「ツイスト・アンド・シャウト」のシングル(1964年に日本盤が発売)を買った。最初のビートルズの曲だった。
 それからすごく衝撃的だったのが、ニール・セダカの「恋の片道切符」。なんだこれは!って思ったな。
大江田:「恋の片道切符」は、1960年1月の発売だね。その年の4月まで、ラジオ洋楽番組チャートの上位を独走した。
佐久間:オレが小学校の1、2年の頃に聞いたんだろうと思う。そして「砂に消えた涙」。弘田三枝子さんが日本語詞で歌ったんだっけ。あれもすごく好きだったな。
大江田:オリジナルは、ミーナが歌ったイタリアのカンツォーネ。1964年のヒットだ。
佐久間:この頃の洋楽の邦題が見事だよね。「悲しき何とか」とか、「恋の何とか」とかさ、どこか似ているけど、でもいいよね。
大江田:バイオリン教室では、クラシックの教則本を使ったんだよね?
佐久間:スズキ・メソードね。鈴木バイオリンの教則本をずっと使った。どこかの教室の生徒たちと合同で、発表会もやった。ピアノの人が伴奏してくれて、生徒は交代で演奏して曲を弾く。

小学生時代のバイオリン発表会

佐久間:その一方でポップスも聞いているわけだし、やっぱりギターが欲しくなるんだなあ(笑)。ウクレレはあるし、バイオリンはあるけどさ、どうしたってギターが欲しい。でも、親に「買って」とちょっと言えなくて。4人兄弟の一番下だからさ、あんまりわがまま言えないのね。それで「よし、じゃあ自分で作ろうって」なるんだよ。それで作り始めるんだ(笑)。
大江田:ギターのキットみたいので作るの?
佐久間:違う、違う違う。まずさ、「どうやって作るんだろう?」から始まる。その頃はまだフォーク・ギターは無くて、ジャズやロカビリーで使うピックギターね、要するにフルアコだよね。流線型のバイオリンの形しちゃってさ、どうなってんのか、全然わかんない。なんか難しそうじゃない。でもね、とにかくボディーとネックと、あとブリッジと弦があれば出来るんじゃないかって思うわけ、小学生がね(笑)。ボディーはお菓子の長方形の薄い缶。これにネックを差せばいいな、じゃあ穴を開けるんだな。そしてネックを差して縛ろう。カンカラ三線じゃないけどね。
 ブリッジを割り箸で作って、缶に付けた。弦を留める糸巻きのあたりは、見様見真似で工夫して割り箸で作ったかな。するとさ、はて、弦を張るにはどうしたらいいだろうってことになるじゃない(笑)。家に親父の三味線の古い弦があったんだよ。それを頼んでもらって来た(笑)。まだまだギターが普及してないから、弦の値段も高かったんだよ。三味線の弦を糸巻きに通して、やってみた。キューキューって音がして糸巻きが廻って、このまま廻せば弦を張れるかなと思っていたら、巻けば巻くほどネックが立ってきたわけよ(笑)。それで初めて、これじゃダメだった気がつくんだ(笑)。ああもう無理だなって、諦めたんだよ(笑)。
大江田:(笑)それ何年生くらいの時なの?
佐久間:たぶん4、5年生だと思うんだけどなあ。いろんなミュージシャンの話を聞くとさ、オレも子供の頃に作ったっていう人が、たくさんいるんだよね(笑)。
 それからしばらくして、小学校6年生になった時のこと。中古品を売っているお店に、宙吊りになってガットギターとウクレレとか飾ってあるのを見つけた。まだあの頃は、楽器屋というものが余りなかったんじゃないかな。質屋さんだったのかもしれない。しばらくギターを眺めてた。ガットギターばっかりだったのが、そのうちフォークギターが出てきたわけ。ああ、これだ!と思った。お店に何回か通って、「ギターを買って欲しい」って母親に言ったのね。「いいわよ、幾らなの?」って言ってくれて。
大江田:幾らだったの?
佐久間:確か、9600円だったかな。
大江田:50年前だったら、けっこうな値段だね。
佐久間春日楽器っていうメーカーのフォークギターを、買ってもらったんだ。ちょっと弦のテンションが強かったけど。そうして、ギターを弾き始める。

ギターを抱える佐久間少年

大江田:誰かに習ったり、学校に行ったりとかしたの?
佐久間:しない、しない。
大江田:譜面は自分で買ってくるの?
佐久間:教則本というとクラシックっぽい選曲で、まずは「禁じられた遊び」。その「禁じられた遊び」までは、何とか弾けるんだけどさ、その次の曲になると難しくてよくわかんない。こういう曲を弾きたいわけじゃないんだけどなあって、思った。あの頃ね、子供の雑誌の付録に、「歌本」っていうのが付いてたんだ。歌詞とコードだけ書いてある。これは何だ、Amって何だ?みたいに思ってさ(笑)。丁寧な歌本には、コードの横にダイヤグラムが載っていて、指の押さえ方と、ギター譜とが掲載されてた。おお、こうやるのか!って、わかるじゃない。そうして少しずつ、音楽の世界に入っていくんだな。このあたりが音楽の原体験だな。
大江田:バイオリンはやめちゃうの?
佐久間:小学校6年生の時には、千葉県市川市の小学校に行ってた。中学は決められた地元の公立じゃなくて、親が東京都内の学校に行かせたかったのね。千代田区の学校に行きたいなら、千代田区に住んでないといけない。ということで父親の知り合いの方の住所を借りて、登録する。そうやって越境入学をしたわけ。それで千代田区の一橋中学に通うことになった。地元の小学校までは、歩いて5、6分だった。ところが千代田区の中学校行くとなると、片道だけでも一時間ちょっとかかる。往復で二時間。中学になると勉強も大変になるし、もうあまり時間の余裕がないってことで、バイオリンは辞めることにした。
大江田:ということは、小学校時代に最も演奏してた楽器は、バイオリンなんだね。
佐久間:うん。

洋楽ポップスにのめり込んだ中学時代。

佐久間:中学に入るとさ、もう、PPMキングストン・トリオブラザース・フォアジョーン・バエズ、それにボブ・ディラン。少ししてサイモンとガーファンクル。もちろんビートルズローリング・ストーンズも以前から聞いていた。それからハーブ・アルパートとティファナ・ブラス
大江田:「ビター・スウィート・サンバ」かな?ニッポン放送の深夜放送「オールナイトニッポン」の番組テーマだ。
佐久間:あと「蜜の味」。その2曲がすごく印象的だったな。風邪をひいて高熱出して寝込んだときに、「蜜の味」をずっと聞いていた。熱にうなされながら、「蜜の味」が体の中に入っていった感じがあった。
大江田:レコードで聞いてたの?
佐久間:いやラジオ。小さなトランジスタ・ラジオをイヤホンで聴いてた。そういう音楽がドーっと押し寄せてくるからさ。それこそ、怒涛のごとくだね。
 サイモンとガーファンクルのファン・クラブ日本支部に入って、一回だけ会合に出て言いたいこと言ったら、「お前、嫌われるぞ」なんて言われて。もう行くもんかって、すぐやめちゃった。
 中学2年のときにさ、ビートルズが来るじゃない。あの時は、ライオンの歯磨き粉を買うと、初めて応募できる懸賞方式だった。一橋中学ではさ、先生から脅されてたのね。「ビートルズ、お前ら行ったら退学だから」なんて言われてたんだよ。だからもうはなから諦めてた。退学になったらマズイなと思って。武道館に行けた人は、もう羨ましくてさ。
 そうそう、あの時さ、すごい台風が来たんだ。その台風のせいで、市川の家が床上浸水したんだ。だんだんと水が上がってくるのね。家族で皆んなが、やばい、やばいってなった。とにかく上げるもの全部を上に上げようとなって、二階にテレビとか冷蔵庫とか運ぶ。上げられないものはダイニングのテーブルの上に乗せた。なにしろ床上30センチまで水が来ちゃったから、家族は二階で生活するんだよ。飼ってた犬も、一緒に二階に行く。外に出られない犬が、部屋の中でうんちしたりなんかしてさ(笑)。あの浸水の出来事は、鮮明に覚えてるな。その頃にビートルズが来たんだよ(笑)。
大江田:台風のせいで、ビートルズは深夜の3時40分に東京羽田空港に到着することになっちゃった。そこから昔のヒルトン・ホテル、いまのザ・キャピトルホテル東急に車で行くんだよね。
佐久間:あのホテルにさ、呼ばれた日本人がいるんだよ、加山雄三さんね。その話をさ、加山さんがこうせつさんのラジオ番組でしたのよ。14、5年前かな、NHKの番組だった。加山さんは財布に、ビートルズと一緒に撮ったそのときのスナップ写真を、ずっと持ってるんだよ(笑)。見せてくれてさ(笑)。
大江田:いいねえ、その話。当時の東芝のビートルズ担当ディレクターが、髙嶋弘之さん。ヴァイオリニストの高嶋ちさ子さんのお父さんだね。ビートルズのメンバー全員と加山さん、高嶋さんとでご飯を食べるはずが、マネージャーのブライアン・エプスタインからビジネス・ミーティングがあるからって髙嶋さんだけ別室に呼び出されて、「もっとビートルズのレコードを売れ」って言われたんだって。もうお歳を召している方なんだけど、「あのとき加山さんはメンバーと食べたけど、自分は食べられなかったんだ」って、今でも笑い話にしているよ(笑)。

ビートルズと加山雄三

大江田:中学の時は、誰かとバンドやったりとかしなかったの?
佐久間:一橋中学の時はね、ブラスバンドに入ってたんだよ。
大江田:楽器は、何をやってたの?
佐久間:トランペット。
大江田:ええ、そうなの?初めて聞いたよ(笑)。
佐久間:学校対抗の運動会とかに、ブラスバンドは駆り出されるんだ。もう一日中さ、同じ曲を何回も吹かされるわけ、マーチングバンドの曲を(笑)。義理のお兄さんの楽器を借りて吹いてたな。あんまりうまく吹けなくて。ところが、上手い奴はすごくうまくてさあ(笑)。
大江田:なにか覚えている曲はある?
佐久間:(しばらくハミングしてから)「軍艦マーチ」。
大江田:トランペット担当だったら、メロディをバリバリ吹くよね。そもそもブラスバンドって、トランペットを吹きたくて入って来る生徒が多いわけでしょ。じゃんけんで負けてチューバになっちゃったりして、がっかりするんだよね?
佐久間:そうそう。かわいそうな奴はスーザホーンの担当になっちゃう。あれ、重いんだよ(笑)。
大江田:週に2回ぐらい、学校で練習するのかな。
佐久間:うん、そうね。練習してたな。楽しかったなあ。
 でもさ、興味はやっぱり、ギターだよね(笑)。フォークソング、そしてビートルズ。雑誌の付録の歌本が助けになった。すごく豊富に出回ってたからね。知らない曲がたくさん網羅されてる。譜面を見て、これは何だろうって、調べに入るんだよね。それでラジオを一生懸命聞いてさ、これは歌本で見たあの曲じゃないかなと思う。ちょっと待て待てってさ、譜面と照らし合わせて、ああ、これかみたいな感じでさ(笑)。それも楽しかったよ。

フォーク・グループを結成した高校時代。

大江田:さて、いいよ高校に入りました。
佐久間:高校に入ったらさ、もうがっかりした。男子校って、こんなに潤いがないのかと思ってさ。もう早く辞めたいって思ったんだよ(笑)。
大江田:嘘だろ(笑)。
佐久間:本当!もう数日で辞めたいなあと思った。男子校ってさ、女性がいないんだってことに、入って初めて気がつくんだよ(笑)。
大江田:(笑)他の高校も受けたの?
佐久間:滑り止めで都立高校を受けたんだけど、落っこったんだよ(笑)。相当やる気がなかったんだろうな(笑)。しょうがないなあ、女の子もいないけどさ、男子校に通うかあみたいな感じだよ(笑)。千葉の市川から東京の練馬まで通うと、片道1時間45分ぐらいかかる。学校行って勉強して帰ってきて、それだけでもう疲れちゃう。ヘトヘトだよね。
大江田:遠くから通ってたもんね。遅刻しそうになると、佐久間は、学生服の下にパジャマを着て学校に来たことがあったよ(笑)。
佐久間:学校に入学して、しばらくして制服廃止運動をやったんだよ。学校に楯突くのは、あれから始まったね。生徒会と先生方とで話し合いが持たれて、制服は廃止にしましょうってことになって、自由な服になる。その後にフォークソング同好会を作ろうということになった。
大江田:同好会を作ったけど、僕ら以外に入った生徒はいたっけ?
佐久間:同年配では、いなかったね。目的は何かというと、要するに文化祭の時の女子高との交流なんだよ(笑)。
大江田:なにそれ(笑)。初めて聞いたよ(笑)。
佐久間:だってそうじゃない。それだけが楽しみでさ(笑)。
 あ、思い出した。オレ高校1年の1年間は、クラブでサッカーやってたんだ。でも、あんまり才能もないしさ、芽も出ない。そしたらフォークソング同好会を作ろうかって話になって、もうサッカーをやめようってことにしたんだ。
大江田:その頃にはもうサイモンとガーファンクルの「早く家に帰りたい」や、「スカボロ・フェア」のギター伴奏なんて、耳コピで弾いてたよね。
佐久間:そう、多分コピーしてたね。映画「卒業」を見たのはいつかな。
大江田:1967年の日本公開だから、中学3年だね。
佐久間:都内の映画館に出かけて「卒業」を何回か見て、びっくりしてさ。それでアルバムを買うんだ。「卒業」のサントラも、それからサイモンとガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」も、両方とも買った。
 それから、ええっと映画の「レット・イット・ビー」はいつだっけ?
大江田:1970年の夏に、日本公開されているね。
佐久間:高校生だったんだな。「レット・イット・ビー」はさ、10数回くらい見に行くんだよ。しかもカセットテープ・レコーダー持参でさ。マイク持って隠し取りだよ。
大江田:ビートルズのルーフトップ・コンサートを収録している映画だよね。
佐久間:そうそう。映画館は入替制じゃなくて、1日に3、4回くらい上映してたんだよ。でね、朝から晩までずっと観る。それを何日間も観に行くわけ。
大江田:何を見てるの?例えばギターの手を見てるとか?
佐久間:ああ、もう全部見てるんだよ。その後に何回も観た映画は、「エルビス・オン・ステージ」(1971)。あれも10回ぐらい観たな。ホテルでのライブ・ショーのドキュメンタリーだよね。すごいなあって思いながら観た。
大江田:リハーサルの時のエルビス・プレスリーが、すごくセンシティブなんだよね。スタッフに作られた人というイメージを持ってたけど、プレスリーは自分でアレンジも提案するし、いろんな細かいことを言う人なんだと知ったよ。
佐久間:ギターのジェームズ・バートンをものすごくリスペクトしてたよね。一見すると傍若無人風に振る舞うんだけど、実はものすごく気を遣ってて丁寧なのね。ところがステージで歌ってシャウトするときは、ウワーッてシャウトするからさ、驚ろかされるんだ。
大江田:ステージのプレスリーと、リハーサルの時のプレスリーと、こんなに違うんだって思ったな。
佐久間:緻密にステージを作ってるよね。
大江田:中学高学年から高校時代にかけて、佐久間の記念すべき映画は、「卒業」と「レット・イット・ビー」と「エルビス・オン・ステージ」になるのかな。
佐久間:そうだね。
大江田:記念すべきアルバムとなると?
佐久間:映画「卒業」のサントラと、サイモンとガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」と、ビートルズは全部。
 そうそう、シングル盤はね、ベンチャーズ、グループ・サウンズ、それからPP&Mとジョーン・バエズなどのフォーク系とか、相当いっぱい持ってたよ。
大江田:すごいね。グループ・サウンズって何が好きだったの?
佐久間:ザ・スパイダースと、ザ・タイガースと、ザ・ワイルドワンズが好きだった。ジャッキー吉川とブルーコメッツって、なんだかサラリーマンの人たちみたいだなって思って、見てた(笑)。面白かったけど。
 同時期にカレッジ・フォークもあったよね。「プラタナスの枯葉 寒そな枯葉」(と歌う)。ザ・ランチャーズの「真冬の帰り道」だね。それからザ・リガニーズの「海は恋してる」とか。
大江田:カレッジ・フォークだと、万里村れいとタイムセラーズの「今日も夢見る」が好きだったなあ。ラジオ関東で「杏林フォークカプセル」っていう番組があって、聞いてたよ。佐久間は、いろんなのが好きだったんだね。
佐久間:そうね。それぞれ代表的なものだよね。

高校時代の大江田信(左)と佐久間順平(右)

佐久間順平(左)大江田信(右) 北海道にて 撮影:廣瀬壯太郎

佐久間・廣瀬・大江田での北海道旅行時の風景 撮影:廣瀬壯太郎

そして小林政広と出会う。

大江田:そして我々は、ユマニテという名前のバンドを組むわけです。
佐久間:それが高校の何年生?
大江田:2年かな。
佐久間:オレがサッカー辞めた時だな。で、小林政広とはいつ知り合うんだ?
大江田:多分ね、1年の頃だと思う。同じクラスの矢下クンの本郷の家に行って遊んだりしてた。あるとき矢下クンが、小林っていう友人がいるんだって言い始めて。矢下クンや小林、それに小林の家の数軒隣の田島クンなど、友達がたまってる喫茶店があった。オレは東京の田舎から出てきたから、喫茶店にたまるってことが信じられなかったんだけどさ(笑)。
佐久間:(笑)
大江田:地下鉄の本郷三丁目駅の改札出て、そのままちょっと歩いた右側の2階の喫茶店。彼らの誰もが店のマスターとツーカーだし、そこに行けば誰かがいる。そんな感じだった。多分その喫茶店で、小林に紹介されたんだと思う。彼の部屋に遊びに行くと、本棚には高田渡さんの詩集「個人的理由」が5冊ぐらい並んでる。「どうしたの、これ?」って聞いたら、「見つけると買っちゃうんだ」とか言ってた(笑)。なにしろ高田渡とボブ・ディランで出来ているような人だったもんね。小林とオレとで、高円寺の公民館で開催されたフォーク・コンサートに出たことがあった。その時に小林が東京チャンピオンズっていうグループ名を提案したんだけど、やっぱりやめようよってことになって、林亭になった。これが初代の林亭だね。
佐久間:その頃かなあ、小林の家で加川良さんと高田渡を聞かされて、「どっちがいい?」って言われたんだよ。オレは「加川良って人がいいなあ」って言ったら、「オレはこっちなんだ」って渡さんのアルバムを手に取って、これ見よがしに小林は言うわけよ。そこらへんからさ、そこまで洋楽一辺倒だったのが、急に日本語のフォークの世界があることを知る。「へえ、こんなのがあるんだ」みたいな感じだな。

小林政広(1954-2022)

大江田:そういえば、ジム・クウェスキン・ジャグ・バンドがいい、「ああいうのをやりたい」って、小林が言い出したんじゃないかな。それでさ、北の丸公園で練習するんだよね。田島クンがウォッシュタブ・ベース弾いて、佐久間と小林とオレ。4人でやってた。
佐久間:それは何となく思い出すな。確かに、小林からジム・クウェスキンを聞かされた。「なんだ、これ?」なんて、オレ言ってたな(笑)。それで田島クンが弾くウォッシュタブ・ベースを、見様見真似で作るわけじゃん。金属の分厚い本物のドラム缶を切って作ったもんだから、重たいんだよね(笑)。それをさ、2人でよいしょって担いで、北の丸公園に運ぶわけ。手の空いている2人がギターやらなにやら運ぶ。大変だったよね(笑)。
 それからしばらくして、こんどは本郷村青年団っていうジャグ・バンドを始めるんだよ。
大江田:本郷村青年団は、御茶ノ水の日仏会館でのライブに出たことがあった。渡さんの前座だったかな。なぜそれを覚えてるかっていうと、山本コウタローさんがえらく関心を持ってくれて、一緒にセッションしたんだよ。
佐久間:へえ、そうだっけ。
大江田:小林はその頃からジム・クウェスキン・ジャグ・バンドの曲に日本語の歌詞をつけていたでしょ?「ダウン・タウン・ブルース」に「行こうよ浅草 いかした靴買いに」とか、「サムバディ・ストール・マイ・ギャル」に「あの娘に会いたいね」なんて歌詞をつけてた。それからブルーグラスのカントリー・ジェントルメンの「ダイナ叔母さんのパーティ」が入っているアルバムを買ってきて、一曲目から順番に日本語の歌詞をつけたり。
佐久間:小林はさ、渡さんのやり方を踏襲してたんだな。真似てたんだよね。そのうちディランに憧れてさ、ディラン風な歌詞とメロディを作りはじめたんだ。
大江田:高校の文化祭に佐久間とユマニテで出演した時は、最初は「500マイル」と「聖者の行進」をやった。それからビートルズの「ブラックバード」とか「トゥー・オブ・アス」、サイモンとガーファンクルの「私の兄弟」「ユー・キャン・テル・ザ・ワールド」、タイガースの「風は知らない」とか、そういうレパートリーだったんだよね。
佐久間:うん、ありものをね。
大江田:そのうちに小林の考えていることが面白いってことになって、一緒にやるようになる。だんだんとユマニテっていうグループ名が、似合わないようになっていった。いつ林亭になったのか覚えていないけど、林亭に名前を変えたんだ。

自主制作アルバムをきっかけに急展開した大学時代。

大江田:レコードを作ろうと思い立って、二人でアルバイトをした。オレは国分寺駅前のヨネザワっていうレストラン。佐久間は東京駅地下街のニュー信濃っていう喫茶店だった。制作費の15万をふたりで割り勘で用意した。出来上がった「夜だから」のパンフレットを見ると、1973年12月1日に発表ってことになってるな。大学2年の頃だね。
佐久間:ああ、その前にオレはマーチンのギターを買ったんだ。D-18ってギター。バイトを死ぬ気でやってさ、学校なんか行かずに、3ヶ月間休まずに。ってことは、大学入ってから買ったのかな。
大江田:理工学部の学生が、そんなことできるの?
佐久間:だって2年までは教養課程じゃない。だから出来た。ある時期に3ヶ月くらい働いて20万円ぐらい貯めて、マーチンのギターを買うんだよ。
大江田:初めからD-18を買うつもりだったの?
佐久間:D-18で20万円近くもしたんだ。D-28で30万ぐらい。これだけ死ぬ気で働いてさ、いやあ、D-28は買えないなあ、D-18でいいやって思って買ったんだ。神田のカワセ楽器でね。いったい何だったんだろうと思うんだけどさ、あの頃からマーチンの値段ってあんまり変わってないんだよ。で、買ってからドック・ワトソンの奏法を練習したり、ジム・クウェスキンを真似てみたりし始めた。
大江田:スリー・フィンガー奏法って、どうやって知ったんだろうね。オレは小室さんの朝日ソノラマの本「Peter, Paul & Mary フォークギター研究」だったけど。
佐久間:スリー・フィンガーってさ、実はすごく複雑なのね。親指で弾くベース音がドソドソって動いているところに、上の音域の人差し指と中指で弾く音がシンコペーションして入ってくるんだよ。譜面に書かれるとさ、一連の動きがすぐには理解が出来ないんだよ。ところが、面白いもんでさ、実際の演奏を聞いているうちに、なんだこうかって、ある時に気がつくんだよ(笑)。
 そういえば本郷村青年団で、合宿したんだよ。大江田は行ってないんだっけ。
大江田:行ってない。
佐久間:小林の伯父さんの家に行ったんだ。千葉の銚子に近い町の農家なんだけど、農家の離れのスペースがあって、そこはおじさんの卓球部屋になってるんだ(笑)。おじさんは、卓球の選手なんだよ。ものすごい上手なの。卓球台からずっと後ろに下がって、全部受けちゃうんだよ(笑)。「おお、すごい!」なんて驚いちゃってさ。
大江田:(笑)。
佐久間:何日間かお邪魔して、練習したんだよ。

左から細谷一郎・佐久間順平・小林政広

佐久間:そんな事もあったので、林亭のレコードを作るときも、合宿するかってなった。長野県南相木村の民宿に泊まった。小海線の小海駅からバスに乗って行ったな。すごい山奥だったよな。3日間の合宿だった。練習をして、レコーディングに臨んだんだ。
大江田:行きは佐久間と2人で、電車で行った。帰りはうちの親父が、クルマで迎えに来たな。
佐久間:それは鮮明に覚えてるよ。
大江田:録音は、新橋のテイチク会館の第2スタジオ。
佐久間:3日で12曲を録音したんだよね。
大江田:1973年8月6日から8日までって、パンフレットに書いてあるよ。
佐久間:あの時のディレクターの人、彼が面白い人だったよね。なんて名前だっけ?
大江田:テイチク興行の伊藤彰さんかな。
佐久間:お世話になったよね。
大江田:アメリカのFolkwaysのレコードを真似したデザインを印刷屋さんに渡して。見本が出来てきたら、写真の向きが違った。Folkwaysのジャケットが、ちょっと普通と違ったから、間違えたんだろうな。印刷屋さんが渋い顔をしたんだけど、伊藤さんが「直してやってよ」って言ってくれたんだ。そのおかげで、思った通りのジャケットになった。
佐久間:ああ。印刷所に一緒に行ったのを覚えてるな。
大江田:それぞれ別々に出来上がってきたジャケットとパンフレットとレコードを、ひとつにセットしなくちゃいけない。写真を撮ってくれた広瀬クンとオレと佐久間の3人で、ジャケットとパンフレットとレコードを手分けして持って、市川の佐久間の家に行くんだよ。
佐久間:そうそう、ジャケット写真は、高校の同級生の広瀬壯太郎クンが撮ってくれたんだな。神保町の喫茶店のさぼうるに行って、それから本郷とか御茶ノ水界隈を歩いて撮影した。水道橋のスイングでも撮ったっけ?
大江田:スイングは、小林が村上春樹と一緒にアルバイトしてたジャズ喫茶でしょ。それは、もうちょっと前のことかもしれない。写真は撮っていないね。
佐久間:うちでレコードをセットしながら、パンフレットに1番から200番まで番号を振ったね。オレはそのころ働いていたニュー信濃のバイト仲間に買ってもらったりしたな(笑)。

林亭  夜だから (1973)

アルバムに封入したパンフレットの裏表紙


佐久間
:後日談だけどさ、15年前ぐらいかな、千葉の一宮の近くでのこうせつさんのコンサート会場に訪ねてきた女性がいてね。「あのとき私これ買ったんです」って、「夜だから」のLP持ってきてさ。いやあ、驚いたよ(笑)。
大江田:そもそも「夜だから」を渡さんに渡したのは、誰なんだろう、小林かな。
佐久間:多分そうだね。ぐゎらん堂で渡したんだろうな。
大江田:ぐゎらん堂で、「夜だから」を売ってもらったりしてたからね。しばらくして、渡さんが連載していた新譜ジャーナルの「高田渡の雑記帖」に、『自費出版レコード「夜だから 林亭」に寄せる』というタイトルで、1ページの記事を書いてくれた。
 そんなこんながあって、ぐゎらん堂の水曜コンサートに出ることになった。あの時の動員数は、その後も抜かれなかったって聞いたな。
佐久間:両国のフォークロア・センターでもライブをやったよな。
大江田:うん。
佐久間:オレ、2020年にも行ったんだよ。ご主人の国崎さんから「やりましょう」って連絡があって。コロナがギリギリ始まるタイミングだったな。
大江田:考えてみると渡さんが林亭をいいって言ってくれてから、いろんな出来事がいっぺんに起きたんだよね。

新譜ジャーナル「高田渡の雑記帖」
ぐゎらん堂・水曜コンサートにて
ぐゎらん堂入口ドア・右側の壁に「林亭」を含む水曜コンサートの告知 撮影:いしかわじゅん
ぐゎらん堂が入居していたビルの入り口 撮影:いしかわじゅん

佐久間:そうそう、渡さんに連れられて、1974年の春一番にも出た。
大江田:あのときには、京都の松村さんの家に泊めてもらった。渡さんの奥さんの富美子さんの実家だよね。松村さんが経営してた喫茶店の「むい」でも演奏させてもらった。五日前には春五番、三日前には春三番なんて銘打ったライヴを大阪・天王寺の春一番コンサート会場に向かう途中のライブハウスで何本か組んでもらって、出演者たちはその上がりを旅費に充てていたっけね。後にオリジナル・ラブのマネージャーになる近本隆さんが、スケジュールを組んでくれて、林亭は、大阪・豊中のフリークでライブやらせてもらった。
佐久間:夜になると、スタッフが野音のステージにごろ寝してたこともあったよね。オレも混ざって、そうしてた時期があるよ。
 そうだ、林亭はさ、渡さんと一緒に北海道のツアーに行ったっけ?行ったよね。
大江田:行ったよ。ツアーのスケジュールを組んでくれたのが、札幌の「とーてむ」っていう喫茶店の常連だった方。1日目は旭川の畠中仁さんが仕切ってくれたライブだった。畠中さんは、今やラーメン山頭火チェーンの運営会社の会長だ。
佐久間:オレはその後さ、大学4年の時に北海道ツアーに誘ってもらった。中川五郎さんと渡さんとオレの3人で、1ヶ月に26ヶ所でコンサートをやったんだよ。畠中さんと、旭川のPA屋さんのサウンド企画が全部を仕切ってくれた。なぜかトラックに麻雀卓が積んであってさ。PAの設営中は、ミュージシャンは暇でしょうがないじゃん。だから、楽屋で3人でずっと麻雀してたな。
 そのツアー中に、大学授業の出欠の代返がバレちゃってさ。実家に連絡が入った。そしたら実家から、とある会館の楽屋に電話が入った。「お前は一体どこにいるんだ!!」ってことになっちゃったんだ(笑)。麻雀の最中だったな(笑)。
大江田:(笑)。理工学部に新設された工業経営学科の学生だったよね。そういえば、指導教授の紹介で、佐久間が大阪の先生のところに話を聞きに行ったことがあったな。春一番コンサートを終えて、その足で出かけて行った。
佐久間:そうそう。喫茶店に先生が来てくれて、卒論の話をしたんだ。先生が作った人事管理のモデルを踏襲しつつ、もうちょっとアレンジをしたいと思って、相談したんだよ。論文を書き終えてからは、こんどは卒論の口頭発表をした。"こういう方程式を開けるとこうなって、こういう結論が出ます"みたいなことを、教授たちの前で区切られた時間で発表する。プレゼンだよね。いかにも、それらしいことをやったんだ(笑)。そしたらさ、教授が「お前は、大学院に残った方がいいんじゃないか」って言い出してですね、「いや、私はちょっとやりたい事があるので、ここでやめます」って言ったわけ(笑)。
大江田:もったいないよねぇ(笑)。
佐久間:いやいや、あんなもん、何にも役に立たない論文だもん(笑)。
大江田:大学で先生からそんなこと言ってもらえなかったから、オレはこの話を聞いた当時さ、佐久間ってすごいんだなって、ものすごく尊敬したよ。
佐久間:とんでもない。ただのハッタリだよね(笑)。
大江田:で、大学を卒業して、三鷹に住む。
佐久間:うん。大学卒業のタイミングで、「実はやりたことがあるので、1人で暮らしていきたいと思います」って両親に言って、家を出た。親は「それならしょうがない」って感じだよ。オレの場合は兄貴がいて普通に大学出てたから、それが盾となって、オレは免除されたんだな(笑)。
大江田:お母さんが相当にがっかりしたって、後から聞いたよ。
佐久間:そりゃあもう、お袋も親父も、相当にがっかりだろうけどね。私学の学費、しかも高い理工学部の学費を4年間も払ってさ。
 それでね、小林の同級生の細谷一郎くんが手伝ってくれたんだと思うんだけど、彼のちっちゃい車に荷物を満載にして乗せて、市川から環七を通って三鷹のアパートに引っ越した。
大江田:三鷹駅から、遠くはないアパートだったよね。
佐久間:5分ぐらい。春の湯っていうお風呂屋さんの向かいにあった共同便所のアパート。道を渡れば風呂だからさ(笑)。その点では恵まれてたな(笑)。
大江田:「三鷹を選んだ理由は?」と訪ねられて「それは渡ちゃんがいるから」と、なぎら健壱さんの本「高田渡に会いに行く」の中でインタビューに答えているけど、渡さんとは、その頃には相当に親密になっていたんだね。
佐久間:「よろしくお願いします、これからこんなふうにやっていきたいと思っています」みたいなことを、ぐゎらん堂で言ったかな。
大江田:渡さんは何て?
佐久間:いつものあの顔で、「うん」とか言うんだよ(笑)。
大江田:オレは渡さんに挨拶に行って「就職します」と言ったら、「うん、君はやらないと思ってたよ」って一言で終わったんだ。高田渡という人は、そうやってじっと人を見てるんだなって思った。
 三鷹で、一人暮らしが始まった。でも音楽のレギュラー仕事とかないわけでしょ?
佐久間:ない、ない、ない。全く何のあてもないんだよ。食っていかないといけないから、バイト、バイトでさ。あんまりちゃんと覚えてないんだけどさ、いろんな肉体系のバイトをやったと思うんだよね。


「夜だから」ジャケット用撮影写真のアウトテイク 撮影:廣瀬壯太郎
「夜だから」ジャケット用撮影写真のアウトテイク 撮影:廣瀬壯太郎
左から細谷一郎・大江田信・高田渡・小林政広・佐久間順平・いとうたかお 大阪・春一番にて
左から大江田信・小林政広・佐久間順平
大江田信・佐久間順平 大阪・春一番にて 撮影:高田渡
大阪・環状線内にて 撮影:高田渡
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