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漫画家いしかわじゅんが出来るまで 後編

 「漫画家いしかわじゅんが出来るまで」として、いしかわじゅんさんから伺ったお話の後編です。
 1976年、11か月勤務したトヨタ自動車を退社して再び上京。いしかわさんが、いよいよ漫画家へと始動します。そして波乱万丈の奮闘もスタートします。
 ボクがあれこれ言うのは無粋なので、前置きはこれくらいにして、さあ、どうぞ一気にお読みください。

漫画家いしかわじゅんが出来るまで 前編 はこちらからどうぞ。

「漫画だったら描けるよな」と思った

大江田:トヨタを辞めちゃったあとは、しばらく地元にいらしたんですか?

いしかわ:一ヶ月半ぐらいはね、家でゴロゴロしてて、楽で楽で(笑)。昼まで寝てていいし、飯は出てくるしね。
 毎日ゴロゴロしてて、本読んで映画見に行って、ああ楽でいいなと思ったんだけど、お袋が怒り始めてさ(笑)。辞めたのはしょうがないから、何かやりなさいって言われて。何かって言われても、やることないしなと思って。
 とりあえず地元にいても、もうトヨタ系の会社には再就職はできないから、東京に戻るかと思った。東京に戻ってきたら、明大生協で教科書類のバイトを募集してたんで、5月ぐらいまでプレハブの販売所で教科書を売ってた。失業保険をもらうまで、つなぎのバイトしてたんだな。失業保険って、辞める前の何ヶ月分かが計算の基準になるんだよね。

大江田:そうですね。

いしかわ:確かさ、その基準値がすごい高かったんだよ。ディーラーに1ヶ月出向したりしてたじゃない?労働時間が長いんで、給料が多かった。それが基準になったんで、失業保険をたくさんもらえて、ありがたかったんだよね。
 セールスって、向くやつはすごい向くんだね。俺は全然向かないというか、最初からやる気がなかった。ディーラーに1ヶ月いてね、初日しか働かなかった(笑)。あとはね、毎日喫茶店で本を読んでた。
 「行ってきます」って言ってディーラーを出て、カタログの入ったカバンを持たされるんで、今日ここからここまでって決めて、だーって配って、あとは喫茶店でずっと本を読んでた。知り合いに1台売ったかな。1台売ったからいいよなと思ったんだけど、10台とか20台とか売る奴がいるんだよ。すげーなーと思って、やる気あるなあって(笑)。

大江田:大学で教科書を売ってるときは、まだ吉祥寺には住んでないんですか。

いしかわ:そのときはね。渋谷の道玄坂をずっと上っていって、神泉から上がって来る道の交差点あたりにいた。失業者だったけど、結婚したんだよ。割とすぐ子供が生まれることになって、その辺から漫画を描き始めたのかな。
 なんかして食わないとなあと思って、秋ぐらいに漫画家になろうかなと思った。漫画はほとんど描いたことなかったんだけどね。
 漫画家になってから知ったんだけど、漫画家ってみんな子供の頃から漫画家になりたくて、すごいたくさん習作を描いてるの。同人誌を作ったりね。新人賞は当時なかったんだけど、出版社に作品を送ったりとか。俺は読むの好きだったけど、別に漫画家になる気がなかった。
 クラブの部室にノートが置いてあるんで、そこにカット描いたりとかさ、コマ割って1ページの漫画描いたりとかさ、いたずら描きはしてたんだけど、原稿用紙にペンとインクでっていうのはなかったんだよね。
 とにかく俺は漫画をたくさん読んでたらしい。それも知らなかったんだけどね。本読むのが好きで、本を大量に読んでて、その一部として漫画も読んでた。妹がいたんで少女漫画も読んでた。
 同級生の友達で劇画系が好きなやつがいた。そいつは親がいなくてお姉さんと2人暮らしで、姉さんからいつも小遣いをもらってた。その小遣いでね、さいとうプロに金を送って、直接さいとうプロから漫画を買ってたの。さいとうプロから直接漫画を買うとね、原稿の切れ端が入ってんの。こうやって漫画って描くのかと思った。
 近所の養鶏場の息子は白土三平系が好きで、貸し本屋でしょっちゅう借りてたんで、返す前に俺もちょっとそれ貸してって言って、1日くらいでさっと読んで返して。だからほぼオールジャンル読んでた。
 漫画家になってだいぶ経ってからね、俺と夏目房之介とさくまあきらと3人で、何かのパーティーの帰りに喫茶店に入って、漫画の話を始めたら止まんなくて。漫画に詳しいって奴と話してみると、実はそれほど詳しくないんだよね。一部だけ詳しかったりとかさ、話しててもいちいち説明して、もうつっかえつっかえでないと話が広がらないのが、何を話しても通じる。さくまあきらはね、自分が日本で3本の指に入る漫画好きを自称してた。3人で何時間も話して帰る時に、さくまから「いしかわさんなんでそんなに漫画詳しいの? 俺より漫画詳しい人、初めて会った」って言われて、その時初めて俺は漫画たくさん読んでるのかと思った。それまで知らなかった(笑)。それぐらい漫画読んでたんで、漫画の描き方をなんとなく分かって、あと先輩の手伝いをしてたんで、こうやって描くんだというのは見てた。だから描けるかなと思った。
 他にどう考えてもできそうなことはなかった。サラリーマン合わないと思ってたんで、そうなるともう自分で事業やるか、どっかの店員になるかしかないじゃない。どっちもちょっと合わないなと思って、じゃあ、漫画だったら描けるよなと思って、それでまあ漫画家になった(笑)。それが秋ぐらいだったと思うんだよね。
 先輩のほんまりうの同級生が、今の株式会社ぶんか社、当時は日本文華社って名前だったんだけど、そこを紹介してくれた。漫画誌を出してた。まだ長い作品の描き方がよく分からなかったんで、とりあえず4ページのギャグを何本か描いて持ってったら、適当に使ってくれて、いつの間にかデビューしてた。

大江田:それが最初なんですか?

いしかわ:それが最初。

大江田:媒体名は、覚えてらっしゃいますか?

いしかわ:分かんないね。その本もとってあるかどうか、分かんない。それでね、ページ単価が3,000円だった。4ページで12,000円で、源泉徴収税を引かれて、10,800円。
 これじゃ食えないじゃない(笑)?どうしようかなと思った。でもそこしか知っているところがないんで、ときどき編集部に持ってて、いつの間にか使ってくれて。
 最初の年の年収は30万円だった。

大江田:トヨタを辞めた年ですか?

いしかわ:そうそう。実質は1ヶ月か2ヶ月なんだけどね。原稿料の入金は、掲載から3ヶ月くらい先だし。次の年も漫画を描いてたんだけど、仕事は増えない。俺の感覚としては、面白いものを描いていれば仕事は来るよなと思ったんだけど、来ないの。
 今振り返ってみると、こんな下手なもんじゃ誰も振り向いてくれないなと思うんだけど、描いたことないから下手なの、とにかく。
 それに普通の漫画じゃなかった。その頃の漫画の文法を守っていなかった。俺は4ページもののギャグを満載したストーリー漫画を書いてた。ストーリー漫画の中にギャグをどんどん入れて、面白いからいいよなと思ってた。その頃の4ページものって、いわゆるナンセンス漫画が主流で、淡々と進んでって最後にちょっとクスッと笑う落ちがあるものだった。こんなつまんないものを描いてもしょうがねえなと思って、俺はギュウギュウに詰め込んだのを描いてたんだけどね。絵も下手だったし、描き方もよく分からなかったんで、編集者としても使いにくかったのもあるだろうな。

大江田:編集者から「こうしたら」とか、「ああしたら」といった助言はなかったんですか?

いしかわ:1976年くらいかな、その頃って漫画に市民権はなかったし、漫画が分かる編集者は、ほぼいなかった。中堅零細出版社もいっぱいあったんだけど、編集者にとっては、ただの仕事なのね。身過ぎ世過ぎで会社に入ってきて漫画を出しているだけで、漫画に興味もないし、知識もないし、ノウハウも何もない。あんまり仕事が来ないんで、もう終わったなと思った。
 ある時、編集部に原稿を持っていったら、俺より10歳くらい歳上の漫画家がたまたまいてね、ちょっとお茶でも飲まないかって誘ってくれて、すごい有益な助言をしてくれた。「編集者は誰も漫画なんか分からない。だからとにかく原稿を持って行って、顔をつないで連絡先を置いてくる。そうするとページが空いた時に、そういえば、この間あいつが来たなって、電話が来るから。そうじゃないと仕事増えないから」って言われて。そう言われれば、色々と腑に落ちるところがある。そういうもんかと思ったんだけど、でもそんな仕事つまんねえよな、そんな仕事したくねえな、困ったなあと思ったけど、とにかく販路を広げなきゃしょうがないと思って、原稿をたくさん描いて色んな出版社に持ち込みを始めた。
 少年誌は多分合わないなと思ったんで、いわゆる青年誌に行ったんだけど。当時は青年誌って大手が出してなかったんだよね。小学館のビッグコミックとビッグコミックオリジナルはあったけど、あとは1册もなかった。青年誌って全部中堅以下の出版社だった。双葉社の漫画アクション、秋田書店のプレイコミック、少年画報社のヤングコミック、日本文芸社の週刊漫画ゴラク、実業之日本社の週刊漫画サンデー、こうした雑誌を出版してる会社の2番手3番手の雑誌。あとは、かなり小さい出版社で出してるエロ本だったんだけどね。原稿を持って色んな所に行くとね、感想はない。預かっとくからって言われる。

大江田:虚しいですねえ。

いしかわ:たまに赤塚不二夫のマネだねって言われて。赤塚不二夫が、ここのどこにあるんだよ(笑)、お前らの目は節穴かと思って(笑)。
 ここにいくら行っても、何も始まらないなと思って、ちょっと困っちゃって。その年の年収がね90万円だったの。90万円じゃ飯食えないしね。子供も生まれたし。もう貯金もないし、どうしようかなと思った。
 今すぐに商売になるようなマンガを描いても、つまんないんだよ。俺はとりあえず4ページで描いてたんで、4ページのマンガが色んな雑誌に載ってるんだけど、こんなつまんないものを描いても、意味ないよなと思った。
 だから俺は俺の描きたいように描くしかないんだけど、そうすると販路がない。
 どうしようかなと思って本屋に行ってね、雑誌を全部ざーっと立ち読みした。あの当時立ち読みできたからさ。立ち読みをしてたら中にね、変な雑誌が何冊かあった。エロ本なんだけど、書評欄があったりとかさ、映画評があったり、コラムがあったり、読者の投稿欄があったり。エロ本の読者は望んでないだろう、誰がこんなもの読むのって。

大江田:(笑)

いしかわ:編集者がそのコーナーを作りたくて、作ってる。ここだったら大丈夫かもしれないなと思って、電話番号をメモして片っ端から電話した。「ちょっと原稿を見て」って持って行ったら、行った端から「じゃあ、来月からよろしく」って言われて、本当に一夜明けたら俺、エロ本の売れっ子になってたの。持って行ったのが全部連載になって、一晩で全てが変わった。

大江田:(笑)エロ漫画を書くわけじゃないんですよね。

いしかわ:うん。エロは全然描いてない。とにかく4ページのギャグ漫画だった。
 そこで売れっ子になって、エロ本の中でもちょっと程度の低いエロ本に原稿を持ってた時にね、そこの編集者がすっごいいい加減な人で、「いしかわくん、ちょっとページ余っちゃったんだけど、16ページ描ける?」って言うから、俺もよくわかんないけど「描けますよ」って言って(笑)、16ページを描いた。いつも4ページだったんで、16ページをどうやって描けばいいんだと思いながら描いたら、「じゃあ、来月も16ページでね」って言われて、こういう描き方もあるよなと思いながら、ストーリーギャグを描いた。あの当時の青年誌にストーリーギャグ描く人は、一人もいなかった。ある時、ギャグ漫画にいわゆる劇画風のリアルな絵を混ぜた。そしたら、その編集者が「いしかわくん、劇画描ける?」って言うからさ、「描けますよ」って答えた(笑)。「来月20ページ描いて」って言われて、それから1ヶ月、エロ劇画を描いたの。そこで漫画の描き方を 覚えたんだよね。だんだんエロ減らしてって、連載の12回目に濡れ場なしで描いたら「今月でもういいかな」って(笑)。ああ、そうだよなあって、思った(笑)。

大江田:そこで何を覚えたんですか?

いしかわ:構成のやり方、構図、コマ割り、そういうことをどうすれば効果的になるかっていうこと。漫画を読んでたから、知識としてはあったんだけど、それを自分の中にどう落とし込むかっていうのが、なかなか難しかったんだけど、描かなきゃいけないんで、日々が実験だよね。あっという間に覚えて、出来るようになった。その頃にはもうエロ本の超売れっ子になってて。その頃ね、三流エロ劇画ブームっていうのがあった。ほとんどの人は知らないんだけど、出版界ではすごい大きなムーブメントだった。
 俺が持ち込みに行った書評欄のある変な雑誌やってた編集者たちはね、みんな学生運動くずれなの。いい大学行ってたんだけど、中退してたり、逮捕歴があったりで、大手の会社には就職できない。それでね、腐っても出版。出版社に入ってエロ本作ってるうちに、ああいう処って一人で一冊を任されるんだよ。一年ぐらいの経験でも、一冊を任されちゃう。エロ本って、一人で一冊作ってるの。それ作ってるうちに、ちょっと趣味のもの混ぜても、部数が落ちないってことに気づくわけ。

大江田:(笑)

いしかわ:だんだん映画評、読者欄、コラムとか入れていって、そこに俺が入っていった。俺が全然エロじゃないもの描いたら、俺も手応えがあったんだけど、編集者も手応えがあって、どんどんエロじゃない漫画を入れてったの、エロ本なのに。3分の1までは入れても部数が落ちない、ということが分かって、すごい実験的な漫画がどんどん入ってきたの。1978年ごろのエロ漫画がね、日本漫画史で一番実験的な漫画が日々描かれてた。

劇画アリス
漫画エロジェニカ
漫画大快楽

大江田:その雑誌の名前は、覚えてらっしゃいますか?
いしかわ
:もっといろいろあったんだけど、最終的に残ったのは「劇画アリス」、「漫画エロジェニカ」、「漫画大快楽」の御三家。「劇画アリス」の編集長は亀和田武。「漫画エロジェニカ」の編集長は高取英。「漫画大快楽」はグループでやってたんだけど。実験的なことをどんどんやってた。エロなんだけどすごい実験的な漫画。何人もスター作家が出て、一番売れた時はね、10万部くらい売れてた。一人で作って、10万部を売るって、ものすごい儲かるんだよね。だからいろんな出版社が、エロだけど実験的な漫画を掲載する雑誌を、どんどん作り始めて、あっという間にぽしゃった。そんなに描き手がいないからさ。
 1年位やってたら少年画報社の「ヤングコミック」とか、朝日ソノラマの「マンガ少年」とか、青年誌では当時のトップどころの中堅出版社から仕事が来て、俺は1年くらいでエロ本から足を洗ったんだけど。

大江田:それが漫画家デビュー3年目ですか?

いしかわ:そうだよ。3年から4年くらいだね。

大江田:その時の年収は幾らくらいになったんですか?

いしかわ:3年目で3倍ずつ増えていって270万くらい。当時の大卒の初任給が11万、12万くらいだったから、結構収入あったんだよね。その次の年は500万くらいになって、その次の年が1,000万くらいになって、その後は順調だったんだけど。
 俺のあたりから、エロ本から大手へっていうルートができた。当時、ニューウェーブとか言われたんだけど、大友克洋、高野文子、桜沢エリカ、岡崎京子、吉田戦車とか。全員がエロ本出身じゃないけど、エロ本で描いてて大手が目つけて、引っ張ってくるみたいなコースができた。それまではね、エロ本の漫画家は一生エロ本だった。もう全然住む世界は違ってた。でも俺の代からルートができた。
 当時ね、青年誌界で一番面白かったのは少年画報社のヤングコミック。あそこはね、ヒット作があったんだよ。小池一夫と神田たけしという漫画家が描いた「御用牙」。大ヒットして映画にもなって、それがあるんで他のところで遊べたんだよね。かなりマニアックな漫画をガンガン載せてて、当時の漫画マニアの垂涎の的の本だった。ちょっとマニアックな漫画家は、みんなあそこで連載したいと思った。俺にも「ヤングコミック」から連載依頼が来て、何年かやった。
 そういえば、少年マガジンで連載しかけたんだよな。まだエロ本でやってる頃にマガジンの編集から電話が来て、「今度、枠が一つ空くので競争に参加して」って俺は「面倒くさいから嫌だ。注文が来たら描くけど、注文もないのに描きたくない」って答えた。270万時代で、普通のサラリーマンの倍以上の収入があったからね。「やりたくない」って言ったら、「ネームだけでいいから」って言うんで、まあ、ほぼ下書きだよね。しょうがないなと思って描いたら、どんどん編集会議を通っていって、最後、俺ともう一人の二人のうちのどちらかになることになった。週刊連載はきついなぁ、一人では描けないよなぁと思った。どうしようかなと思ってたら、来週の月曜日に編集会議があってそこで決まるから、その前に打ち合わせしましょうってことになった。
 国分寺にね、白十字って喫茶店があって、編集担当とそこで待ち合わせたの。「石川様、お電話です」って呼ばれて出たらね、女の子なの。え、誰?って思ったら、編集担当の妹だった。この子は後にSF作家になったんだけどね。「実は兄が盲腸で倒れまして、入院しました」って言うから、ああ終わった(笑)、押してくれる人がいないのに連載は取れないよね(笑)。その時にね、河口仁っていう漫画家の「愛しのボッチャー」の連載が始まって、俺の少年マガジンでのデビューは夢に終わった。というかな、まあ全然夢じゃなかったんだけどね。別にやりたいわけじゃなかったんだけど、でもあの時に俺やらなくてよかった。そこまでの力が足りなかったから、多分やったら潰れてたもん。

大江田:トヨタ時代のディーラーへの出向のお話の際に、営業はあまり自分は向かないと仰ってました。その割にエロ本で描き始めてから、仕事の増え方がすごいですね。

いしかわ:俺が一生懸命営業したのは、あの時ぐらいだね。

大江田:(笑)子供も生まれて。

いしかわ:でもね、それとはあまり関係なかったね。生活はそのうちになんとかなるだろうと思ったんだけど、とにかく自分の描きたいものを描く場所が欲しかったんだよ。できれば編集者にもちゃんとわかってもらえて。どこの編集部行ってもね、漫画のわかる編集者ってのは、ほとんどいなかった。双葉社に数人、少年画房社に数人、秋田書店に数人。全出版社で数人しかいなくて、あとはもうみんな単なる仕事だったんだよね。
 そうそう、エロ本の編集者にはずいぶん嫌味を言われたりしたよ。

大江田:どんな嫌味を言われるんですか?

いしかわ:エロ本を見捨てて、大手に行っちゃうみたいなことだね。

大江田:ああ、そういうことですか。

いしかわ:でも俺は別にどこで描いてもね、描くことは一緒なんだよね。どうせ同じものを描くんだったらギャラがいい方がいいし、読者が多い方がいいし、だから「エロ本では楽しくできたけど、今度はこっちでやるよ」っていう話をしたんだよね。まあ、そりゃ仕方ないもんねぇ。エロ本時代は面白かったんだけどね。大手でやるよりも、もっと無茶苦茶できたからね。

大江田:無茶苦茶ってどんなことですか?

いしかわ:読者のことは俺は、基本的に気にしないんだけど、全く気にしないで描いてたからね。
 例えば「憂国」の連載を始めた時にね、最初に漫画エロジェニカから頼まれた時には、そろそろ俺は大手の方に軸足を移したんで、「もうエロ本では、やらないから」って断ったんだけど、「何を描いてもいいから」って言われた。「いや俺、どこで描いても、何を描いてもいいって言われるから関係ないよ」って答えたら、「何ページ描いてもいい。今月は何ページって言ってくればそのページを開けます。今月は色を付けてということなら、カラーページを開けます」って言われた。編集長一人だから自由は効くとはいえ、そんな依頼の仕方があるのかなと思ったけど、まあ、じゃあ、いいかと始めた。最初の1回目はね、なんてことない、いつもの連載のように普通の漫画を描いた。その頃の俺は、思いつくままに頭から描いてた。10年くらいそうやって描いてたんだけどね。連載の2回目にね、まず1コマ描いた。1コマ描いたらこいつが勝手に動き始めた。「あれ?」って思って、ちょっとなんかこれ違うなと思いながら、そいつが動くままに描いていったら、見たこともないものを描き始めてた。編集部に「ちょっと今月、急遽16枚描くから」って電話した。その連載が「憂国」って本になって、俺の初期の代表作になったんだ。
 そんな描き方は、エロ本しかできないからさ。そこまで自由な本は、流石に大手にはないもんね。

大江田:「憂国」は、取りようによっては過激と取れなくもないストーリーですよね。

いしかわ:そうねえ。あの頃、よくいろんなものが降りてきたんだよね。

憂国(1980年)
約束の地(1981年)
ちゃんどら(1983年)


 講談社の週刊ヤングマガジンで「約束の地」という作品を始めたんだけど。それは最初、講談社から電話がかかってきて、青年誌と少年誌の間ぐらいの本を創刊するから描いてくれ、何を描いてもいいって言うから、そりゃそうだよって引き受けたのね。しばらくしたら、こんどは小学館から電話がかかってきて、週刊ビッグコミックスピリッツっていう青年誌と少年誌の中間の本を出すんだって言うから、どこかで聞いてるような話だなって思った(笑)。少年サンデーと少年マガジンの創刊時と一緒じゃんって。
 それで小学館には講談社の企画を引き受けちゃったって言ったら、「そっちは断ってください」って言う。そういうわけにはいかないよなって思って「いや、ちょっとそれは無理だから」って断った。しばらくしてまた小学館から電話があって、「両方やってもいいから、やってください」って言うもんだから、ヤングマガジンとスピリッツと両方ともやった。
 ヤングマガジンでやったのが「約束の地」。ストーリーギャグで長い話を描きたいと思っても、アイデアが何もないんだよ。なんかないかなと思ってて、ある日ね、サンデーで描いてた後輩のすのうちさとるという漫画家と西武線に乗ったの。国分寺に行こうと思って、電車を待っている時に、そいつがね「この間銭湯に行ったら、銭湯のお湯の効能書きがいっぱいだーっとある、その最後に農夫病って書いてあったんだけど、農夫病って何ですかね」って言うからさ、「農夫病は〜」って言ったら、なんだか一気にダーッと降りてきた。「それはね」って言ったら電車が入ってきたの。ドアがガーッと開いて、「いや昔イエス・キリストがね」って話を始めて、2駅乗って国分寺で降りる時には、「こういう話なんだよ。これ来月からヤングマガジンでやるから」って。単行本一冊が、一瞬で降りてきた。スピリッツでは、「ちゃんどら」を描いた。そういうのがちょくちょくあったんだよね。面白い時期だった。

大江田:それはもう270万時代じゃなくて、500万、1,000万時代のことですか?

いしかわ:270万のちょっと先ぐらい。じゃあ、500万時代かな(笑)。生々しいなあ(笑)。

ある日、いきなり頼まれるんだよ

大江田:かつて集英社で少女漫画を担当していた編集者から、話を聞いたことがあリました。昔はクーラーなんかないから、バケツに水を入れてそこに両足突っ込んで仕事してたって。

いしかわ:俺が売れてからだけど、何かのイベントの帰りにね、俺と高橋留美子と、それから当時バリバリ売り出しの漫画家何人かで、お茶の水を歩いてた。少年ジャンプ編集の鳥嶋和彦とばったり会って「何してんの?」って言われて、「イベントの帰りだよ」って言ったら「この人誰?」って聞くから、「高橋留美子」って言ったら、目の色が変わった。「そこの中華料理屋に部屋をとったから、みんなでご飯でもどうですか」って言われて行って、すごいご馳走になった。鳥嶋は俺と年齢が変わらないから、まだまだペーペーなんだけどね、集英社って使える金があるなぁと思って。「高橋留美子は専属契約があるから、集英社では描かないよ」って言っても「いいんです。これから10年、20年先に、もしかして専属契約が切れた時に集英社から声かけたら、描いてくれるかもしれない。その時のために、種をまいておく」って言うから(笑)、集英社ってすげえなぁと思った(笑)。
 俺が漫画以外のことをやり始めたきっかけも、集英社なのね。デビューして3年ぐらいでやっと売れ始めたくらいの頃、270万時代になるかならないかぐらいの頃に、小平市の鷹の台にいたの。道玄坂の上は空気が悪すぎて、マンションの7階か8階にいたんだけど、部屋の中の桟にホコリがたまるんだよね。

大江田:排ガスの時代ですもんね。

いしかわ:当時の排ガスは、無茶苦茶だったからね。これはちょっと子供には環境が悪いなと思った。どっか郊外に移ろうかなと思って、学生街がいいなと思った。鷹の台って武蔵野美術大があって、津田塾大があって、白梅短大、朝鮮大学があって、ここは面白いかもなと思って、小ちゃい一軒家借りて住んでみたら、何にもなくて。しまったと思って、すぐまた吉祥寺に戻っちゃったんだけど、その短い間の時に集英社の週刊プレボーイから電話がかってきた。70年代終わりくらいの当時って、週プレって大メジャー雑誌だったじゃない。

大江田:はい、大メジャーです。

いしかわ:女の子に週プレで連載やってるって言うと「えー」とか言われてエロ本だと思われてるけど、週プレはエロ本じゃないもんね。

大江田:はい。

いしかわ:週プレから電話がかってきてね、「5ページ空けたから記事を書いて」って言われた。いや、記事って言われても文章なんて小学校の時に読書感想文を400字書くのに、ひいひい言っててさ。そんなの書けるわけないじゃんと思って「いや、ちょっとそれは無理ですよ」って言ったんだけど、「ちょっと打ち合わせに行きますから」って言われて。で、住所を教えたら鷹の台の家まで、夜にやってきたの。「漫画は描けるけど、文章は無理ですよ」って言ったんだけどね。「いや、大丈夫、大丈夫、どうせ失敗してもね、ウチは週刊誌だから1週間で店頭から消えるから」って言われて(笑)、そうだけど(笑)、そんなんでいいのかと思ったんだけど、やれって言うから、やってみようかなと思って。

大江田:その編集の方のお名前は覚えてますか?

いしかわ:花見萬太郎っていうの名物編集者なんだけどね。あんまり偉くはならなかったけど、有能な編集者だった。
 花見萬太郎に「何を書くんですか」って聞いたら、「インスタントラーメン全試食」だっていう。「編集会議で企画を通したから」って言われて、「全試食って、食べるんですか?」って言ったら「食べなくていいんじゃない?」って(笑)。ラーメンの名前と会社と電話番号のリストが書かれたA4ぐらいの紙を「はい」って渡してくれて、これで5ページ原稿を書けって言われた。何を俺にしろっていうのが分かんなくて、「これイラストとか、どうするんですか?」って言ったら「あ、適当に描いて」って言われて。イラストなんて描いたことなかったからさ、どのぐらいの大きさで何点を描くか分かんないし、「何枚描くんですか?」って聞いたら「適当でいいよ」って言われて、弱ったなあと思いながら週プレをもらった。その時にふと時計を見たらもう12時過ぎてて、「もう終電ないですよ」って言ったら、「大丈夫、車を待たしてあるから」って言うの。えっと思って開けたら、そこに黒塗りのハイヤーが待っててさ。驚いたよ、黒塗りのハイヤーだよ。

大江田:その「インスタントラーメン全試食」は無事に記事になったんですか。

いしかわ:なった。とにかく何にも言ってくれないんだよ。原稿を何文字とか、イラスト何点とか。しょうがないからもらった週プレのページあたりの文字数を数えて、何文字くらいかなと考えて。少ないのも何だしなと思いながら、イラストを20点くらい一生懸命に描いて渡した。掲載誌が届いたら、こぉんな小さな活字でぎっしり、イラストもびっしり入ってて。ああ、しまった、多すぎたと思った。イラストなんて1ページに1点でいいじゃん、ああ、もうしくじったな、これで仕事は来ないなと思った。原稿料は良かったしね、良い仕事だったけど。と思ってたら、今度は「酒のおつまみ全試食」を書いてって言ってきて、ああ良かったなと思って(笑)。
 今度はちゃんと適当な文章量と、適当なイラスト量で描いた。それから「ドリンク剤全試飲」ってのを頼まれた。そんなのを1、2ヶ月に1回くらい書いてるうちに他の所からもコラムを頼まれるようになって、コラムから書評、劇評、映画評と書いてたら、双葉社からね、ある日「小説を書かない?」って言ってきた。「小説は読むのは好きだけど、書こうと思ったことなんかかけらもないよ、俺。小説なんて書けるわけないじゃん」って言ったんだけど、「いや漫画だって一緒だよ」って言われた。一緒かな、違うんじゃない?と思ったんだけど、でも「大丈夫、大丈夫」って言うから、「ちょっと書いてみるよ」って言って書いたのが「吉祥寺探偵局」なんだよね。赤瀬川原平が表紙を描いてる小説アクションっていう面白い本だったんだけど、すぐ潰れちゃった。まあ、これだけだなと思ってたら、その頃4コマ漫画の連載をしてた小説現代が、「じゃあ、続きはうちでやって」って言ってきた。いやいいけど、小説現代ってそこに書きたくて修行したり、新人賞に応募したりとかみんなしてるじゃん。読書感想文しか書いてない俺が(笑)、書いていいの?と思ったんだけど、まあいいかと思ってその続きを書いてたら、「じゃあ、単行本にしましょう」。えっ、単行本になるの?と思って。講談社から「表紙は湯村輝彦さんで」って言われてさ、おいおい、湯村テリー輝彦さんが俺の単行本の表紙を描いてくれるのかって思った。

吉祥寺探偵局(1987年) 表紙は湯村輝彦

いしかわ:その後、角川の野生時代からも書いてって言われて、一連の南畑剛三シリーズをずいぶん書いたな。

大江田:全部読みました。

いしかわ:単行本4冊ぐらい書いたかな。1冊だけ書き下ろしでやって、懲りたけどね。書き下ろしは向かない(笑)。全体の構成が出来ていいんだけど、短いスパンの締め切りがないとね、書けないんだよ。すごい時間がかかっちゃった。

大江田
:花見さんが、いしかわさんを起用したのは、何かきっかけがあったんですかね。

いしかわ:俺は出版社に行くことはほとんどないんだけど、20年ぐらい経って花見がロードショーの編集長になってから、なにかの用事で集英社に行ったら、エレベーターの階数表示にロードショーがあったんで、ここにいるんだなと思って「久しぶり」って顔を出した。ちょっと話してるうちに、「そういえば、あの時なんで俺に頼もうと思ったの?」って尋ねたの。そしたらね、そろそろ新しいライターに、書き手を変えようと思っていたんだって。出入りしてた若いライターにね、「いま誰が面白い?」って聞いたら、そいつが「いしかわじゅんがいいですよ」って言うんで、ちょっと電話番号を調べて、俺が誰だかも知らずに、花見は電話してきたの。そのライターはオールジャンルで誰が面白いかって聞かれたと思って、いしかわじゅんって答えたんだけど、花見萬太郎は面白いライターいないかって聞いたの。そこに齟齬があったんだけど、おかげで俺が文章を書くようになった。その時の若いライターがさくまあきらだった。だから、さくまも恩人なんだよね。そんなことが色々あるんだよね。

大江田:面白いですね。

いしかわ:でもなんで俺に頼もうと思うのかが、分からないんだよな。ある日いきなり頼まれるんだよね。「インスタントラーメン全試食」もそうだし、さくまが面白いって言ったからっていって、なんでその場で俺に頼もうと思うのかと考えるんだけど。
 それからしばらくしてホットドッグ・プレスのフリーの編集が来て、「いしかわさん、映画出ません?」って言う。「映画?いや、出たことないから分かんないよな」って答えたら、「大した役じゃないみたいだから、大丈夫ですよ。大学の時の同級生がこんど監督デビューするんですけど、パチプロの役を探してるんですよ」って言う。「いやまあいいけど、俺、演技とかセリフとかできないよ」って答えた。「ああ、大丈夫だと思いますよ」って言うんで、「ほんの5グラム」って映画に出たの。出来上がった映画では、ほとんど背景だった。ちょっと動いてるシーンとか、全部カットされてて。試写会の時に「俺、何にも喋ってないで、後ろに座ってるだけだよ」って、横にいた女の子に言ったら、「私の出番は全部カットされてました」って。ああ、そういうこともあるよなあと思って、俺はまだマシかと思った(笑)。
 その後ね、名古屋のテレビに地元出身の若手みたいな枠で出たんだよね。ぴあのフィルム・フェスティバルで賞を取って今度デビューするって監督がいて、そいつがCMの最中にね、「いしかわさん、映画出ません?」って言うから、「出てもいいけど、何やんの?」って言ったら、「今度『バタアシ金魚』を映画にするんだけど、それの先生役でどうですか?」って言うから「まあ、いいよ」って。「バタアシ金魚」って、週刊ヤングマガジンに連載して、大ヒットした望月峯太郎の漫画ね。映画には、高岡早紀、筒井道隆、東幹久、浅野忠信とかその辺が出演した。

大江田:錚々たるメンバーですね。

いしかわ:当時は全員ペーペー。もう、ど新人だった。俺の役は、水泳部の顧問の先生だったんだけど。高岡早紀とは、その後もずっと仲がいいんだけどね。筒井道隆もその後10年くらい、たまに何かで会ったりして。何年か前に浅野忠信とはネットでばったり。誰かとネットでやりとりしてたら、そこに浅野忠信もいて久しぶりだなーって。
 浅野忠信は「バタアシ金魚」に出たときは、まだ少年だった。役作りで坊主頭にされてて、本当に小僧だったんだけど、その後1年くらいでメキメキ背が伸びて、全く別人になっちゃって。「あの頃、小さかったよなー」って言ったら、ものすごく嫌がられたけどね。浅野忠信は向こう気が強くて、坊主頭にされたのがすごい気に入らなくて、それもみんなの見てる前で笑い者にされながら、監督にバリカンでバリバリやられて、すんごい恨んで怒ってた。打ち上げの時にお洒落してきて、尖った靴履いててロンドン・パンクっぽい格好してて、「おしゃれだなー」って言ったら、「俺は、いつもこうっすよ」って。坊主だから余計パンクっぽかったんだけどね。それから映画とかVシネとか、朝ドラにもちょっと出たんだよね。

大江田:2004年の「天花」ですね。

NHK朝のテレビ小説「天花」(2004年)

いしかわ:うん。「憂国」を描いていた漫画エロジェニカの編集長の高取英の縁で、俺は演劇関係者に知り合いが多い。あの頃から小劇場をずっと見てるんだけど、前川麻子っていう演出家/劇作家がいて、彼女がちょっと面白い劇団を作ってね。素人集めてみんな下手なんだけど、面白かったの。
 深夜番組にちょこちょこ出始めて、可愛かったんで売れ始めて、これブレイクするかなと思ってたら、妊娠して表舞台から消えちゃって。もったいねえなあと思ったんだけど。子育てが一段落して、また芝居やるって言って。プロデュース公演やるから、いしかわさん出てって言われた。渋谷にあったシード・ホールで、15ステージくらいやったかな。3ヶ月くらい稽古したよ。頼まれた時にちょうどストーリーものの連載が終わって、しばらく間があったの。だから、今だったらできるなあ、もう二度とできないかもしれないなあと思って、とりあえず出ておいたんだけどね。ちょっと俺に合わない芝居だったんだけど。
 そしたらね、博報堂から連絡が来て「CM出ませんか」って言われた。中島哲也が監督のJR東日本のCMだった。綺麗な絵で、面白かったんだけどね。駅にこんなでっかいポスターがガンガン張られて、すげえ恥ずかしかった。俺とお母さんと子供が手を繋いで、スノードームに入ってるポスターだったんだけど。

JR東日本のCMポスター(1998年)

いしかわ:それからコカ・コーラ、パオーンヘアカラー、ゼクシーとCMが続いた。パオーンヘアカラーで余貴美子と一緒だったな。

大江田:そういう時って、マネージメントがつかないで、自分で仕事を受けるんですか?

いしかわ:いや、最初に話が来た時にちょっと契約がめんどくさいなと思ったんで、知り合いが頼んでいたプロダクションに全部交渉してもらった。もちろんギャランティーは払うんだけどね。なかなかいいギャランティーで(笑)、あの当時は景気も良かったから、出演料も高くていい仕事だったけどね。CMも面白かったよ。予算が潤沢でさ。ベンツとトヨタにも出てるわ。

大江田:トヨタも出たんですか。

いしかわ:「トヨタを俺は辞めてるけどいい?」って言ったんだけどね(笑)。別にいいですよって。

メルセデスベンツ(Cクラス)CM


ギャグ漫画ばっかり描いてると、袋小路に入って行くんだよ

大江田:いしかわさんって、自分の関心の赴くままに、自分が見てるものに非常に集中していて、それがどうなるかって結果をあんまり考えてない。自分の中で関心があるものをずっと見てるうちに、どこかでうまく時代とクロスした。時代とクロスしたいと願っている人って、実はなかなかできない。言い方はよくないかもしれないけど、軽妙に生きていらっしゃる。その軽妙さがうまく、時代の波長と合って転がってきているという風に、見えている人は多いと思うんですよ。

いしかわ:軽妙かどうか、わかんないね(笑)。

大江田:いしかわさんが面白いと思っているものは、面白いに違いないという風にボクらが思ってしまうとでも言うのかな。そういうことを、ずっと前から感じていましたけど。

いしかわ:うーん。十数年前に、ちょっと仕事がピンチだったことが、一度だけあるんだよ。ほとんど波がなかったんだけど、ちょっといくつか連載がパタパタ終わって。次にどうしようかなと思ったんだけど、なかなか次の仕事は決まらなくて。来るのを待っているだけで、営業しないからさ。仕事来ねえな、どうしようかなと思って、女房にはとりあえずしばらくうちは貧乏だからって言った。貧乏って言ったって、別に飯が食えないわけじゃないんだけど。営業すれば、仕事は多分あるんだよ。「連載が終わったからなんか頂戴」って言えば、仕事は来るんだけど、そうすると向こうの注文を聞かなきゃいけないじゃん。それは嫌なんだよ。俺は俺の面白いと思うものしか描かない、俺のやりたい仕事しかやりたくない。
 いつだったか、なにかのテレビ番組に出た時に「俺はやりたい仕事しかやったことがない」って言ったら、漫画家がみんなすごい驚いてた。みんな不本意な仕事でも、やっているんだよね。俺、不本意な仕事ってやったことないんだよ。やりたい仕事が来るまで待ってるのね。その時はしばらく待ってたら仕事が来て、事なきを得たんだけど。ああそうか、俺はやりたい仕事しかやってないんだなと、再確認したんだよね。

漫画ノート(2008年)

大江田:『漫画ノート』に収録されている吾妻ひでおさんへのインタビューで、自分自身もデビュー10年目ごろにギャグ漫画を描き続けることに行き詰まり、仕事を整理して香港やロンドンを数ヶ月ほど旅して、その後1年半ほど仕事をしなかったと語っておられました。それとはまた別の話ですか?

いしかわ:また別の話だね。あの時は、俺の中の問題だった。ギャグ漫画ばっかり描いてるとね、みんな袋小路に入ってくんだよ。昨日と同じものを描いてると、マンネリって言われる。レベルを上げてくと、ついて来られる人がどんどん減ってっちゃう。描いてる側としては「すごいレベルの高いものを描いた!」と思って振り向くと、誰もいないっていうことがよくある。
 吾妻ひでおもその典型なんだけど。コアのマニアがずっとついて来るんだけど、コアのマニアしかいなくなっちゃって、本人も苦しい状態になっちゃう。俺も10年ぐらいやってて、だんだんだんだん息苦しくなってきて。何が悪いってわけじゃないんだけど、気持ちが高揚しないんだよね。仕事場に行って原稿用紙を広げて「うーん」って。アシスタントが来るんで「ちょっと待っててな」って言って、喫茶店に行ってうーんって考えているんだけど、どうもやる気も起きないし、何も浮かんでこないし、困ったなーと思いながら仕事場に戻って。「今日は、もういいから。また明日」って言う。それから夜中まで「うーん」って描けないみたいなのがね、ずーっと続いて。さすがに10年もやると、もうテクニックで描ける。中くらいのものは描けるけど、俺は中くらいのものを描きたいわけじゃないんだよ。中くらいのものを描きながら、俺はこういうものを描きたいんじゃないんだよなーと思って、どんどんどんどん気分が落ち込んでいく。仕事が一つ終わると、もういいやと思って、次の仕事は取らずに、だんだん仕事を減らしていって。
 最後は月に2、3ページぐらいになってたんで、仕事的にはかなり楽になったんだけど、気持ちはもう全く晴れなくて。
 その年の暮れにね、香港に行ったんだよ。香港に一人で行って、毎日ブラブラ街を散歩してたら、すんごい楽だった。電話はかかってこないし、知り合いいないし、日本語も喋んないし。一週間くらいいたんだけど、これは楽だなと思って、ちょっと日本を離れようかなと思いついた。全く言葉が通じないと困るから、英語の通じる国っていうと、やっぱりアメリカかイギリス。イギリスには行ったことないから、じゃあ、しばらくロンドンに行こうかなと思って、ヴィクトリア・ステーションの近くのホテルをとって、ずっとそこにいた。それが真冬の1月だったんだよ。

大江田:寒いですね。

いしかわ:寒いわ、毎日が雨だわ。ロンドンの冬はあんなに寒くて、毎日雨だって思わなかった。30日中28日くらい雨だよね。でも2日晴れて、運がいいって言われてたんだよ。

大江田:(笑)

いしかわ:朝起きるとちょっとなんか食べて、コート着て傘さして街に出て、定期券を買ってあったんで地下鉄に乗って、どこか適当なとこで降りて街をぐるぐるぐるぐる回って。
 最初は夜はレストランに入ったんだけど、ロンドンの飯がまずくてさ。そのうちフィッシ&チップスとか買ってきて、ホテルで食べるようになった。最後にはインド料理が美味しいってことが分かって、インド料理と中国料理で生きてたけど。イギリスの料理のまずいこと、まずいこと。今はどうか分かんないけど、当時はひどかった。

大江田:(笑)。分かります。

いしかわ:1ヶ月くらい、ほとんど人と会わない。たまたまロンドンにいた知り合いと、2日ほど会ったかな。その子の旦那が勤めている日本料理屋で、寿司を1回食べて。旦那はね、日本で調理士免許取ってすぐロンドンに来て日本料理屋の面接受けたら、「今日から入ってって。寿司を握って」って言われた。「いや、寿司は握ったことないです」って答えたんだけど、「大丈夫」って言われて、おにぎりみたいなのを出してたんだけど(笑)。マグロが近海で獲れないから、日本から輸入してるんで、冷凍して真っ黒になってんだよね。赤身が黒身になってたよね。それ食べたのと、その旦那の運転する車で郊外のお城に一日行ったけど、あとはもうずっと一人で街をぐるぐるぐるぐる歩いてて、1ヶ月くらいやってたら、ちょっと気持ちが楽になってきた。

アシスタントの若林健二と原律子と

いしかわ:ちょっと東京に戻ろうかなと思って、帰ってきた。アシスタントには、給料を渡すから、しばらく休んでていいって言って。2人いたんだけど、2人とも遊ばせてた。1ヶ月くらいして、さてどうしようかなと思ってたら、漫画アクションから「そろそろ何かやって」って言われた。ストーリー漫画頼まれたんで、描けるかなあと思いつつ「東京でサヨナラ」ってストーリー漫画を描いてみたら、思いのほか描けたんで、なんとかなりそうだなと思った。そっから徐々に戻していった。半年くらいはほとんど仕事できず、前後1年半くらいは影響があったかな。

いしかわじゅんの出発点

ファイアーキング・カフェ(2010年)

大江田:小説の「ファイアーキング・カフェ」の話を聞いてもいいですか。
 うちなんちゅうの人が東京から沖縄に移り住んで過ごす話しが中心ですよね。そういう物語を書こうと思われたんですか。

いしかわ
:俺の知り合いと、沖縄で会ったのが最初なんだ。そいつはね、経営していた会社が倒産して、本当に無一文になって、バッグ一つで沖縄に流れてきた。写真が出来たので、写真スタジオに入って助手をやってた。小金を貯めて、沖縄で出版を始めたの。広告が取れるブライダル雑誌を作ったんだけど、沖縄のレベルが低すぎて、ひどい本になっちゃって。
 ゼロ号の時に見せられて、ダメだなと言った。イラストもひどいし、写真もひどいし、印刷もひどいし、製本がひどい。全てがひどい。何度やり直させても、「これが限界です」って言われたって言う。これは厳しいなと思った。1年か2年やったかな、ある日、全部捨てて東京に戻っちゃった。
 あいつのことを書いてみようかなと思った。
 俺が20年くらい前に沖縄に住み始めたのが神里原っていう旧赤線地帯のど真ん中。お姉さんたちの生態がすごく面白かった。今では一応は飲み屋になってて、ばあさんホステスが、昔なじみの客や、珍しがって来る俺みたいなの相手にしているんだけど。時々飲みに行って話を聞いてるとすごい面白いんで、この辺の話とちょっと組み合わせて、何か書きたいなと思った。どこで書いたんだっけ?

大江田:全て小説宝石です。

いしかわ:小説を書きませんかって言うから、「こういうのがあるんだけどどう?」って言ったら「いいですね」ってことになった。初出と順番がちょっと違うんだよ。

大江田:はい。改題されたり、順番が入れ替わったりしていることが、単行本の巻末の初出リストを見るとわかります。

いしかわ:最初に書いたのが、単行本に収録されてる第2話。書いてみたら、これの前の物語があったなと思って、後から本当の第1話を書いて、単行本で入れ替えて書き直したんだよね。
 モデルがいるといえば、いる。本当の話とは、だいぶ違うんだけどね。

大江田:沖縄を踏み込んだ目線で書いている。しかも割とはっきり書いてるじゃないですか。だから僕はすごく面白い。それが一つです。
 もう一つは、自分の身の置き場を持てなくなって、東京から来た主人公たちが、沖縄で身の置き場を得て、沖縄で生きていく物語。それまでのいしかわさんの作品と、ずいぶん違っているなあと思いました。

いしかわ:多分それはね、俺が本当に沖縄に住んでて、そこの人たちと会ってるからだよね。沖縄の人たちとも話してるし、よそ者とも話してる。よそ者が沖縄をどう思ってるか、沖縄の人たちがよそ者をどう思ってるか。そういうことを第3者の目で見ているんで、それが面白かったんだよね。
 あれ俺、それに書いたっけか。

大江田:マーケットの中にあるデリバリー専門のコーヒー店「カフェマーケット」のことですか?

いしかわ:あれのモデルとなった店の店長と仲良くなって。あそこの連中とは今でも付き合いがあるんだけど、その店長がね、神戸のキャバクラの店長やっていたんだよね。沖縄に流れてきて、何やろうかと考えて、沖縄にはコーヒーがないことに気づく。まずいコーヒーばっかり。コーヒー文化はあるんだけど、アメリカンコーヒーなの。まずくて飲めたもんじゃない。
 コーヒーとパンはひどかった。パンは俺の知り合いがおいしいをパン作った。

大江田:何ていうパン屋さんですか?

宗像堂

いしかわ宗像堂。旦那がね、沖縄芸大の出身だったかな、陶芸をやってたの。土こねて焼いてたんだけど、今度はパンこねて焼いて(笑)。やってることは、あんま変わんないな。奥さんはね、ネーネーズのマネージャーだった。
 小さくやってたのがだんだん広がって、そこで修行した連中があちこち散らばって、沖縄のパンが劇的に良くなった。昔は本当にまずかったの、アメリカだからさ。アメリカの料理ひどいじゃん。あれが基準だったから、全てひどかったんだけど、本当に良くなった。コーヒーもね、彼が良くしたようなもんなんだよ。市場で始めた小さいカフェは、5、6人も座ればいっぱいになるところで。たぶん収益の3分の2くらいは、デリバリーかな。注文するとへぼいグラインダーでガーって豆を引いてから、そこで淹れるの。淹れ方はメチャクチャなんだけどね。みんなそれを美味しいって飲む。今までそんなコーヒー飲んだことなかったから、「ここのコーヒー美味しい」って、みんなが言うの。まずいよって俺は思ったんだけど(笑)。まずいんだけど、他のコーヒーに比べたら段違いに美味しい。
 そこでコーヒーの味をだんだん覚えてきて、近くに似たような店ができて、そのうち自分の所で焙煎する店もできて、10年くらい前に沖縄のコーヒーのレベルがすごい上がったの。だから、あの店の功績はあったなあと思うんだけど。
 その店長がすごいやり手でさ。デリバリーで店を始めて当たって、そこをずっとやってたんだけど、周囲に似たような店ができて収益が落ちてきた時に、今まで稼いだ金で近所のボロ屋を一軒買った。そこをきれいにしてね、2階をインバウンド用の店にして、1階はね、今では"ポーたま"っていう店になってんだけど、最初は"おにぎらず"って言ってたの。
 今度は「おにぎらずの店作りますから」って言うから、「なんだよ、おにぎらずって?」て言ったら、「ぎゅっと握らずに、ご飯と具を乗せるだけ」って。「それ寿司じゃないの?」って言ったんだけどさ、具が違うんだけどね。それが、すっごい当たったの。似た店がどんどん出来てきたけど、彼の店が一番当たった。沖縄中にいろいろ店舗を作って、すごいやり手なんだ。彼の話が面白かったんで、それを混ぜたりとかね。カフェにいる女の子たちとも仲良くなって身の上話を聞くと、みんな面白くて、こういう話を使わない手はないよなって(笑)。

大江田:全体に、どっかさらっとしてる感じがあリますよね。

いしかわ:第三者だからね。沖縄の人だったらもっと濃い話を書くんだろうけど、そこまでは書けない。こういう人たちがこういうことをやってるっていうのを、第三者の目で書いたんだよね。

大江田:沖縄への愛があってのことですね。

いしかわ:(笑)そうだね。

大江田:沖縄と東京とで、すでに20年近い二重生活って、書いていらっしゃいます。なぜ沖縄と東京で二重生活なんですか?

いしかわ:最初は単に観光だったんだよ。
 あの頃にテレ朝の仕事でニューヨークに行ったんだ。RIKACOと一緒にニューヨークのナイトライフみたいな番組やって、その時の放送作家が留学してて英語ができるんで、コーディネーターもやった。そいつがね、ものすごい業界人なの。絵に描いたような業界人で鼻につくんだけど、典型的すぎて面白いんだよ。夜のスタジオの構成まで行って、頂点まで行ったんだよね、Kっていうんだけどね。そいつと結構仲が良かったの。嫌なところもいっぱいあったんだけど、それを超える面白さがあった。そいつがね、「ダイビングに行きません?」って誘ってきて、ディレクターと放送作家と俺とそれぞれの女房と、俺は一人だったかな、みんなでダイビングをやりにグァムに行って、面白かった。じゃあ、もうちょっとやろうかなと思った。Kの兄さんが、スポーツ用品の輸入をやっててね、そこの社員に浅草のテキ屋の息子がいた。これが自衛隊上がり。テキ屋で自衛隊だから完全に縦社会。俺の方がちょっと年上で兄貴分なんで、俺に対して「はっ!」って感じで、そいつが「僕が案内します」って言うんで、沖縄に潜りに行った。そいつがね、地元の人に「どっかいいとこない?」って聞いたら、伊江島を紹介された。「行ってみたらすごい良かったから、行きましょう」って言うんで、行ったの。そしたら本当に面白い所だった。島も小さくて、ぐるっと回れて、海の中の景色がすごい面白い。それ以来、俺は30年くらいずっと毎年、伊江島に行ってる。その行き帰り、当然、那覇でちょっと数泊するじゃない。そのうち那覇が長くなってきて、那覇の知り合いが増えてきて、ちょっと住んでみようかなと思った。きっかけはね、知り合いが国際通りの真ん中に出したカフェ。そこを見に行ったらね。普通の2LDKのマンションだった。玄関で靴を脱いで上がっていくと、居間がカフェになってるっていう所で、自然食ビーガン系だった。当時はビーガンなんか誰も知識がなかったんで、流行ってなかった。「家賃いくら?」って聞いたら、「9万円です」って言うから、借りようかなと思った。「どっか空いてる部屋ある?」って聞いたら、「上の部屋が空きましたよ」って言うから、行ってみたら最上階だった。冷蔵庫とエアコンがついてたんですぐ住める。ここいいなあと思って、「ここ借りるよ」って言ったものの、ちょっと待てよ、最上階だよなって思って、窓を全部閉めてエアコンつけて「30分待って」って頼んで、30分待ってたんだけど、冷えないの。沖縄では、マンションの最上階はちゃんと断熱してないと暑いんだよね。だから、そこは諦めたんだけど、ちょっと不動産欲というか、住みたくなっててネットで色々探した。ちょうど前からずっと気になってた旧赤線のど真ん中に、新しいマンションが建ったんで、そこを借りたのが最初だった。旧赤線のど真ん中にあった映画館跡地のマンション。新しくて綺麗で、管理人がいて、駐車場のタワーがあって、中にはコインランドリーがあって、すごい便利だった。旧赤線のど真ん中で仕事しながら、お姉さんたちが動いているのが見えて、面白かった。道の向こうは農連市場っていうすごいさびれきった古い市場で、裏がやちむんという焼き物の産地だった。そこに住み始めたのが最初だった。結構ね、小説の中に入っているんだよね。

大江田:今のお話、ほとんど入ってます(笑)。
 そういうことの面白さもあるし、登場人物の妙味もあるし、登場人物のお母さんとおばあちゃんの会話も面白いんだけど、やっぱりいちばん面白いのは、主人公が寂しい人たちなんですよね。そういう主人公に惹かれました。

いしかわ:本当に不思議なんだけどさ、なんでみんな俺に漫画以外のことを頼むんだろうね。

大江田:いしかわさんの様々なことへの面白がり方が、依頼する側にとって面白いんじゃないですか。

いしかわ:でも書いたことないのに、小説頼むとか。演技もできないのに、映画出ろとかさ。不思議だよね。

漫画の時間(1995年)

大江田:「漫画の時間」を読んでいても、本質をつかむ力がすごいと思いました。論じられている漫画を読んだことが無くて、「漫画の時間」だけ読んでいるので、いしかわさんの指摘が当たってるか当たっていないか、僕にはよくわからないんですけど、漫画を知らずに読んでいても、楽しいです。「漫画ノート」の帯に、「漫画を読まなくても漫画がわかる」という大瀧詠一さんのコメントが記されていますけど、ああ、その通りだなあと思いました。
 今や地位が上がって、漫画って文化論の対象でしょう。作家の意図を超えて、その漫画が何を表象しているのかが、論じられているわけですよね。そういう見方で読んでいくと、素晴らしい表象文化論だと思いました。表向きにはそれぞれの作家論のようにも見えるんだけど、作家が自覚すらしていないことが書かれているのが、僕は面白くてしょうがないです。

いしかわ:どうかな、あんまり意識して書くってことはないんだけどね。トータルで読むと一定の方向があるように見えるけど、一本一本が別々でバラバラだからね。

大江田:宮谷一彦さんについて、彼はある種のナルシズムを描いているんだと、いしかわさんが指摘していました。本人を目の前にして「ナルシズムを描いてるんだろ」って言ったら、ご本人は「いや描いてない」って否定するだろうと思う。でもこの本で読むと、確かにいしかわさんの言うとおりだと思えてくる。
 作家論って、作家の発言を後生大事に引用して書かれることが多いと思います。それはそれでいいと思いますが、ぼくはそういうことには、あんまり興味がないです。そうではなくて、漫画というメディアが引き出してしまう何か、漫画という文法が作ってしまうもの、漫画によって作家すらも気づかないうちに表現されてしまうもの、そういうことに興味があります。そういう読み方をしてます。
 夜寝る前に、2つ3つ読むのが最高なんですけど。

いしかわ:でも結構ね、怒ってる人もいるけどね(笑)。

大江田:もちろんそれは、わかる気がします。絵が上手い、下手というコメントが出てくることも多いから。下手と言われたら、漫画で生きてる作家は怒るだろうし。だから「漫画ノート」の後書きで、「愛を持って書いてるんだから、怒らないでくれ」って書いておられるんだろうなと、思いました。
 いしかわさんが漫画というメディアを愛してることがよくわかる、漫画という方法論を愛してることがよくわかる、そういう感じがします。

いしかわ:漫画はね、やっぱり子供の頃からすごい読んでたから、本当に好きなんだよね。

大江田:漫画という方法論が好きなんですよね。

いしかわ:うん、そうそう。子供の頃ね、母親が漫画読ませてくれなかったの。漫画読むとバカになるっていう家だったから(笑)。歴史漫画とかさ、学習漫画みたいなものは、読ませてくれた。その中にね、杉浦茂の漫画があったの。「太閤記」だった。親は失敗したんだよ、きっと。豊臣秀吉の一代記と思って買ったんだろうけど、全然違ってたんだよな(笑)。他に何を読んだか全く覚えてないんだけど、「太閤記」だけは覚えている。何十回、何百回読んだかわかんない。俺が小さい頃に読んだ漫画の中で、あれは多分一番影響があっただろうな。

大江田:どういう影響ですか?

いしかわ:「太閤記」の話には違いないんだけど、途中がもう無茶苦茶でシュールなギャグがいっぱい入ってて、これはなんだか違うなって思った。それも上巻だか下巻だかしか、なかったんだよ。もう一方が読みたかったの。いまだに読んでないけど。2002年に「なんじゃらほーいの世界」というタイトルで杉浦茂展が三鷹の美術ギャラリーで開催された時にね、その原稿があって、おお、これこれと思って、すごい嬉しかったけどね。あの人はすごかったね。死ぬ間際まで描いてたからな。

大江田:あと2年でいしかわさんは、デビュー50周年ですね。その機会にまたお話を伺えれば嬉しいです。40周年で初めて開催した個展のこと、それがきっかけで「ネコトモ」がスタートしたこと、最近のあれこれなど、お話を伺いたいです。
 今日は長時間、ありがとうございました。

インタビューワー大江田信と、いしかわじゅんさん


大江田記:
 それにしてもたびたびのチャンスをものにしていく、いしかわさんの行動力と創造力には、感服しました。
 ものづくりに向かう人は、いしかわさんの発想、行動力、粘り強く作品にむかう姿勢、志の高さなどに、必ずや有益なヒントを見出すことになるだろうと思います。また複数の単行本にまとめられたいしかわさんの漫画評論をお読みになれば、作品の本質を射抜く目、漫画の物語の秘密の解明、漫画が描く人間の根源に関わる劇薬を嗅ぎ取る嗅覚など、いしかわさんの眼差しの鋭さや漫画を読み解く力に驚かれるかもしれません。
 僕はと言えば、いしかわさんへのインタビューの前と後では、漫画を見る目が大きく変わりました。単にページを開いて見ているのではなく、これまでの何倍もの時間をかけて漫画を読んでいる自分に気づくことになりました。


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